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塩麴竹中半兵衛

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉に二人の軍師。
どちらも名前に兵衛が付くことから「両兵衛」と呼ばれる。
主に秀吉の前半生に貢献した「今孔明」とも尊称された人物を、二つの「タケ」を料理しながら妄想した記録。


材料

マコモダケ 1本
舞茸    1パック
塩麹    大匙1
昆布    7センチ四方位
酒     大匙1
胡麻油   適量

美濃菩提山城主、竹中重元の子として天文十三年(1544)に誕生。
諱は重治。
幼少の頃は読書好きで華奢。それでも読書による知識に加えて剣術に励み、見掛けによらず文武両道だった半兵衛。
仕えていたのは稲葉山城主、斎藤龍興。有名な道三の孫。
しかし龍興はあまりよろしくない側近ばかりを重用。そんな一人、斎藤飛騨守が登城してきた半兵衛目掛けて櫓の上から放尿。
馬鹿にして喧嘩を売ってみたという所。
半兵衛は何事もなかったかのようにそのまま立ち去る。
「腰抜け」と嘲笑。しかし、痛すぎるしっぺ返しを食らうことに。


昆布を細かく切り、マコモダケを細切り。

半兵衛は弟を人質として稲葉山城に預けていましたが、その弟が病気になったということで、半兵衛は見舞いと称して薬や食べ物を入れた長持ちを担いで十六人の家臣と共に城へ。
入城すると長持ちに隠していた鎧や武器を使って飛騨守を討ち取り、半兵衛を馬鹿にしていた側近ばかりか龍興までも城から追放。城の周囲も舅の安藤守就の軍勢が固める。
あっという間に稲葉山城を乗っ取る。
龍興達も腰抜けと侮っていた半兵衛に痛すぎる反撃を食らったということ。
この事態に注目したのが織田信長。
美濃を半分呉れてやるから、稲葉山城を引き渡せと交渉。
「欲や野心で城を取ったのではない」というのが半兵衛の返答。
あくまでも斎藤家の家臣として、主君に反省を促すために城を奪ったとの返答。半兵衛の稲葉山城占拠は半年程続き、龍興に城を返還後、騒動の責任を取り、隠居。


マコモダケを胡麻油で炒める。

やがて斎藤龍興は信長に城を奪われて、斎藤家滅亡。
その後、半兵衛は近江の浅井家の客分として隠棲。
しかし、これだけの逸材を放っておけないとして、信長は召し抱えようとしますが半兵衛は応じない。
その説得を任された或いは買って出たのが秀吉。
元々、信長と敵対していた斎藤家の家臣ということから半兵衛は尚も首を横に振る。それでも秀吉は諦めずに何度も半兵衛の元へ。
その様子を三国志で劉備が諸葛孔明の元へ三度も通って軍師になってもらった「三顧の礼」の逸話になぞらえて、半兵衛は今孔明と呼ばれる。
熱意や秀吉の人柄に感じる所があったのか、半兵衛は信長ではなく秀吉に仕えようと返答。秀吉の寄騎に。以後、秀吉の知恵袋として活躍。


昆布投入。

様々な知略を用いて、秀吉の活躍を支える。
例を挙げると。
近江の浅井氏が籠る小谷城を攻めた時、信長から浅井長政に嫁いでいた妹の市を救い出せという無理難題。城主夫人ですから城と夫に殉ずるつもり?或いは長政がそれを許さない可能性が高い。正にミッションインポッシブル。
長政よりも父、久政の方が反信長色が強いことを知っていた半兵衛は長政の本丸と久政の小谷丸を連結している京極丸を落として、父子の連携を切るべしと進言。
この結果、信長憎しの久政が先に討ち死に。長政自身は自害しましたが、市と娘達を城から出す。秀吉は見事に信長の要望を満たす。


舞茸、酒、塩麹を投入して絡めていく。

中国地方の攻略を命じられた秀吉の元へ、小寺官兵衛という人物が仕えたいとやって来る。後の黒田官兵衛。
自ら売り込んできた官兵衛を野心ある人物と見た者達が召し抱えるのは控えた方がいいと言うものの、半兵衛は
「毒も使いようで薬になる」として秀吉に官兵衛を召し抱えることを勧める。
中国地方の三木城攻めで半兵衛は包囲しての兵糧攻めを進言。以後、こうした長期包囲戦が秀吉軍団の基本スタイルになる。官兵衛もそれを学んだ?

その官兵衛、荒木村重が信長に背いて有岡城に籠城すると、自分が村重を説得するとして城内へ。しかしそのまま帰って来ず。
さては裏切って村重についたかと怒った信長は官兵衛の息子、当時十歳の松寿丸を殺せと秀吉に命令。
半兵衛がその役割を買って出る。主君のために汚れ役。


塩麹竹中半兵衛

舞茸に塩麹がよく絡み、しっとり食感。マコモダケのシャキシャキ感と二つの食感が楽しめる。
塩麹と胡麻油の相性もよし。
両タケ共に食物繊維豊富。
ビタミンやB1、B2,カルシウムや鉄分も両タケから頂ける。
塩麹は調味料というだけではなく、善玉菌を増やして腸内環境を整えてくれる働き。

一年程の籠城後、荒木村重は逃亡して有岡城が落城。すると官兵衛は地下牢から救出される。裏切ったのではなく監禁されていた。
松寿丸を処刑した短慮を信長も秀吉も悔いることに、はなりませんでした。
半兵衛は殺したと報告して、密かに家臣に預けて匿っていました。
しかし官兵衛や秀吉が礼を言うことは出来ず。半兵衛は既に病死していました。
まだ三十六歳でしたが、肺病だったと言われます。
半兵衛の亡骸に縋りついて、秀吉は泣きながら
「半兵衛がいれば、何も難しいと思うことはなかった」と早過ぎる死を悼んだ。
仕えると決めた秀吉に誠心誠意、尽くして生涯を終えた軍師、竹中半兵衛を妄想しながら、塩麴竹中半兵衛をご馳走様でした。

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