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謝国明麻婆

歳末も押し迫ってきました。年末の風物詩の一つが年越し蕎麦。
自分流な年越し蕎麦を作ってみるか。

鍋に水250ccと塩一つまみ、沸騰したら蕎麦粉100グラム


ゴムベラで寝る。

つまり蕎麦がきを作っている訳。
現代、蕎麦と言えば、多くの人が思い浮かべるのは麺ですが、正確にはそれは蕎麦切り。
蕎麦粉、或いは小麦粉を混ぜた蕎麦粉を練って麺にした蕎麦切りが一般に広まったのは江戸時代。
それ以前には、蕎麦といえば蕎麦がきでした。
年越し蕎麦の風習、福岡から始まったという説があります。それを始めたと言われているのが謝国明。名前からわかる通り、中国人。鎌倉時代のことですが、当時の中国の王朝、南宋出身者。
鎌倉時代のことですから当然、使ったのは蕎麦がきでしょう。それに中国人ということから妄想が広がる。中華といえば麻婆だろ(あくまでも個人のイメージです)ということで、麻婆風な蕎麦がきを作ろう。

材料

蕎麦粉 100 グラム
水   250CC
塩   一つまみ
以上が蕎麦がきの材料

葱 1本
生姜 一欠け
大豆ミート 粒状 お好み
花椒 二つまみ
片栗粉 大匙 2
豆板醤 小匙 1
醤油  大匙 2
蜂蜜  小匙 1
水   1/2 カップと大匙2

あと炒め用に米油、胡麻油。

当時の王朝、宋は軍事を疎かにしていた風があったようで、モンゴルから起こった元に圧されていき、ついには滅亡。謝国明はその前に大陸脱出。博多で貿易商。成功を収めて、綱首と呼ばれる地位。平たく言えば顔役みたいな役割。現在、櫛田神社がある辺りに邸宅を構えていたそうです。


大豆ミートを水に浸して戻す。


蕎麦がきを団子状にしていく。

年末、食べる物もろくになく、困窮している人達に、謝国明は蕎麦がきを作って振舞った。それが年越し蕎麦の起源とも言われています。
その場面、昔の大河ドラマ「北条時宗」でも再現されていました。
元の侵攻から逃れて来た謝国明でしたが、今度は元は日本に国交を求めてきました。実際には朝貢を求めてきたということ。
幕府の執権、北条時宗は敢然とそれを拒否。そこから二度の元寇、文永の役と弘安の役が勃発。
謝国明も町作りに尽力したであろう博多も蹂躙され、炎に包まれることに。


微塵切りにした生姜を炒める。


香が立ったら、微塵切りのネギを加える。

実は謝国明の生没年はよくわかっていません。本当は元寇以前に死亡していた可能性が高い。祖国の宋を滅ぼした元が逃げた先の博多にまで攻めてきたという方がドラマチックになるので、そういう話にした?

戻った大豆肉と調味料、水を入れて煮る。


煮えてきたら蕎麦がき投入。

蕎麦がきは既に火が通っているので、あまり長く煮る必要もなく、温まった程度でよし。香付けに胡麻油を回し掛けて、大匙2の水で溶いた片栗粉を回し入れてとろみを付ける。


謝国明麻婆

日本的な蕎麦がきを中華風な麻婆に絡めた一品。中国で生まれて日本で活躍した謝国明に捧げる。

どちらかというと地味な味わいの蕎麦がき、派手な麻婆餡に絡むと、風味が一変。甘辛な味も見事に蕎麦がきは受け止める。
生姜と葱の風味もマッチ。何より花椒のピリリ感がアクセント。
蕎麦に含まれるポリフェノールの一種、ルチンは毛細血管を強化して血流を改善してくれます。
勿論、謝国明が振舞った蕎麦がきがこうだったなどと言うつもりはありません。あくまでも私流の年越し蕎麦であり、イメージということです。

謝国明、南宋の文化や禅宗を日本に導入することに貢献。博多にある承天寺は彼の寄進により建立。宗像大社や筥崎宮とも繋がりが深かったといいます。中世、寺社は大きな力を持っていました。それらと繋がりがあるからこそ、彼も大きな力を持ち、事業も拡げられたと思います。

承天寺にある謝国明の墓所、大きな楠の木が空に向かって伸びています。墓石があったとしたら、木の幹に飲み込まれた?

年越し蕎麦、蕎麦のように細く長く息災にという願いを込めて食べる物と思いきや、起源は困っている人達への援助だったと思うと、利他や博愛の精神を感じます。気分よくご馳走様でした。

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