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穴子経久

鯛を捌いて以来、魚を捌くのが面白くなった。ということで今回は穴子を捌いて料理しながら、西国の下剋上の先駆けとなった戦国武将を妄想した記録。


材料

穴子  1尾
青梗菜 1株
八角  1つ
片栗粉 適量
米粉  適量
胡麻油 適量
胡椒  適量
塩   適量
醤油  大匙2
味醂  大匙1
酒   大匙1

穴子を料理しながら、十一州の太守とも呼ばれた尼子経久を妄想。

長禄二年(1458)出雲守護代の尼子清定の嫡男として生まれた又四郎が後の尼子経久。
主君であり出雲の守護、京極政経より一字を頂いて元服。経久と名乗る。
守護というのは室町幕府から任命された役職ですが、この時代の大名は基本的に都に常駐。自分の代わりに現地に出向いて統治する代官を派遣。それが守護代。


開いて内蔵と骨を取る。

家督継承後、出雲の守護代となった経久は次第に現地の国人衆との結び付きを強めて、幕府や守護の命令を無視するようになっていく。
現地の事情を知るにつれて、都から出ることもなく税だけを徴収して送れと言ってくるお偉いさんに反発?
京極家の領地を押領したり、命令された段銭徴収を無視。
こうして自身の勢力を拡大していく。現地の国人達の側に立ったということかもしれません。
ところが国人衆がすべて経久側かというと、そうではなく西出雲の塩冶氏とは対立。(伏線)


開いた穴子を食べやすい大きさに切る。

こうした経久の行動は幕府、守護、反経久の国人から反発をくらい、四面楚歌に追い込まれる。ついに居城を包囲されて守護代解任の上、出雲から追放。
ただ、解任のみで追放されてはいないという異説もあります。
変わって守護代となったのが塩冶掃部介。
守護代から降ろされた後、経久は蜂屋衆という集団と関わる。この集団、芸能民であり、漫才や芸を披露していましたが、裏の顔は忍び。
守護代解任から二年後、文明十八年(1486)の元旦、月山富田城で新年を祝う催し。蜂屋衆はそこに招かれ、舞い踊る。それに紛れていた経久一党、頃合いを見て城内に放火。それを合図に蜂屋衆も守護代、塩冶家の者達へと襲い掛かる。塩冶掃部介は自刃。こうして経久は月山富田城を奪取。力づくで出雲に君臨することを決する。


米粉を塗す。

これだけのことをやっても、衰退していた幕府も守護も経久追討の軍を寄越すことはなし。それどころか家督争いに敗れた京極政経は経久を頼って出雲に下向。経久も政経を保護することで、親京極派の国人達との関係修復。
政経は都に返り咲くことなく遺児、吉童子丸の後見を経久に託して死去。
その吉童子丸ですが父の死後、行方不明。
あやしい。消されたか?


青梗菜を軸と葉に切り分ける。

尼子が山陰の雄ならば、山陽の雄が大内家。
大内義興が庇護していた足利義稙を擁して上洛した時には経久もそれに従うという風に協力する風を見せながらも、反大内家の国人を支援したりと、一筋縄ではいかない行動。
経久の三男は興久という名前ですが、これは大内義興から偏諱を受けた名乗り。


軸を先に炒めてから葉を炒め、取り出しておく。

こうして大勢力である大内家には反発したり妥協したりを繰り返して、自己の勢力を徐々に拡大。
こうした過程で関わるようになるのが安芸の国人、毛利家。
毛利興元の死後、家督相続問題に介入しようとしたのですが、これに反発して跡目を継いで反尼子を打ち出して、大内方につくと旗幟鮮明にしたのが毛利元就。


穴子を焼いたら、調味料と砕いた八角を投入。

昔の大河ドラマ「毛利元就」では、経久は元就の師のような描かれ方をしていたが、私もそうだったと思います。
謀略を駆使して守護を引きずり下ろした経久から、元就も多くのことを学んだのではないか。それ故に元就も謀略の鬼と言うべき存在となった。


青梗菜を戻し入れて、暫く煮る。水溶き片栗粉を入れてとろみをつける。

十一州の太守と呼ばれますが、本当に11ヵ国を領有したという意味ではなく、それだけの国に影響力を及ぼしたという意味。
事実上、支配したと言えるのは出雲、石見、隠岐、備後ということになるか。
謀略を駆使して伸し上がった梟雄。下剋上の鬼と言われそうな尼子経久ですが、どんな人物だったのかというと、物惜しみしない性格だが、ケチだったという逸話があります。


穴子経久

八角を入れたことで一気に中華風味。青梗菜の軸はシャキシャキ、葉はしんなり。柔らかい穴子にとろみが付いた醤油ベースの汁がよく合う。
青梗菜はベータカロチン豊富。ビタミンCやカルシウム、鉄分も含まれる。
穴子は細長い魚ですが、同じように長い鰻に比べて脂は少なくあっさり目な味わい。

持ち物を褒められると、経久は気前よくそれを与えるという人物。そのため家臣達は殿の持ち物を褒めるのを止めようと申し入れ。
一人の家臣が、幾ら何でもこれは褒めても大丈夫だろうと、庭の松を褒めた所、経久はその木を掘り出して与えようとする。家臣は受け取りを固辞。
これで諦めてくれたかと思いきや、後日、その家臣の家に薪が届く。褒めた松の末路がそれ。

家臣や使用人が瓜の皮を厚く剥いているのが我慢ならず、経久は自身でごく薄く剥いていたという話。ケチというよりも無駄を嫌ったということではないかと妄想。
欲のために国盗りをしていたのではなく、謀略を考え、実行するのが面白かった。そんな人物が尼子経久だったのではないかと妄想しながら、穴子経久をご馳走様でした。

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