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テッド・チャン『息吹』- 運命への向き合い方

『あなたの人生の物語』のテッド・チャンの最新短編集『息吹』。タイムマシンや、AI、多世界解釈等の実際のテクノロジー/理論を題材に、それらが生活や人を如何に変えるかが描かれるSF短編集。

最初の『商人と錬金術師の門』では、過去や未来を行き来できる門がある世界で、そこをくぐり抜けて時を超えた人たちがどのような行動を取っていくかが描かれる。皆過去や未来を行ったり来たりして、幸せになろう、過ちを取り返そうと運命に抗うも、よくも悪くも結局運命は変えることはできない。起きる予定のことは起きるし、起こったことは変えられない。この作品において運命は変えることはできず、ただ運命の中で何が起こっているかをよく知ることができるだけと描かれるが、このテーマが短編集全体の背後に流れているように思われる。短編集『息吹』の中では、過去・未来・空想とあらゆる時制のテクノロジーが出てくるが、どの時間軸でもどの世界でも、結局テクノロジーや理論自体は運命を変えない。ではそのテクノロジーによって、あるいはテクノロジーによってもたらされたものによって、運命に人はどう向き合うか。そのことがすべての作品で描かれているように思う。その意味で、この冒頭の作品は実に明確に全体を象徴している。

特に印象的な作品について。『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』はAIと人がどのように共生していくか、技術的な寿命も含めての思考実験が行われている。AIが進化していく過程で、AIを教育して知性や理性を与えていく上で出てくる諸問題。AIを人生のパートナーと考えるのか、それとも職業的なものと捉えるのか、あるいは性的対象とすらするのか。AIの発達が急速に進む今、それがリアリティのある問いになっている。そしてAIもまたテクノロジーである以上、その技術的寿命が存在する。旧式になってサポートされなくなっていくAI達。Windows7を10にアップデートするように簡単にはいかない。その時、そこに愛情を注いでいた人達は何を思い、どう行動するのか。そこまで含めた思考実験として、非常に面白かった。

『偽りのない事実、偽りのない気持ち』は完全なライフログによって記憶の美化やごまかしがなくなった世界で人は過去や自身とどう向き合うのかを問う。記憶の曖昧な美しさと、美しくあろうとするための歪曲と。記憶でなく記録によって剥き出しになる人生。記憶と記録はどう違い、どちらが大事なのか。ここで作中の言葉を引用してみる。

人間は物語でできている。わたしたちの記憶は、生きてきた一秒一秒の公平中立な蓄積ではない。さまざまな瞬間を選びとり、それらの部品から組み立てた 物語 だ。だから、同じ出来事を経験しても、他人とまったく同じようにその経験を物語ることはない。
自伝における真実の役割について、批評家のロイ・パスカルはこう書いている。『一方に偽りのない事実があり、他方に著者の偽りのない気持ちがある。両者がどこで折り合うかを、外部の権威が前もって決めることはできない』

今、完全なライフログを持たない私達は、自分の物語を記憶を元にして構成している。その物語は、膨大な人生の出来事の中から意図的にであれ無意識にであれ取捨選択し、脚色し、時には改変、捏造すらしながら作り上げたものだ。それは必ずしも事実と一致しない。これが引用中の「偽りのない気持ち」だ。対して、完全に中立的なビデオカメラによって記録される完璧なライフログはこれは「偽りのない事実」だ。後者に比べると前者は取捨選択に改変にが重なり、かなり変わっているだろう。だがしかし、そうした構成の入らない事実は無味乾燥に過ぎて、人生を支える大事な物語にはならないかもしれない。逆に記憶による都合のいい思い込みという改変は、事実を直視する妨げになっているかもしれない。この記憶と記録という「両者がどこで折り合うか」が、現在と過去の物語がクロスしながら、非常にスリリングな描き方で語られる。

『不安は自由のめまい』はパラレルワールドの自身や他者と限定的とはいえ通信ができる技術が開発された世界で、自由意志や運命、アイデンティティとは何かを問う。ある選択が必要な場面で、片方を選べばパラレルワールドにはそちらを選ばなかった自身がいる。選んだ自分も選ばなかった自分も、並行世界のどこかでは存在する。そうであるならば、今自分の意思による選択の意味とはどこにあるのか?自由意志に意味はあるのか?その問いに対する答えが作中の以下の言葉だと思う。

わたしたちは人間として、自分が生きる意味を自分でつくりだすことができるということです

そしてこの言葉が、『息吹』全体に流れるメッセージなのだと思う。この短編集では、すべての作品において、テクノロジーが人の何かを助け何かを否定していく。否定していくものは常に信仰だったり自由意志だったり自身の記憶だったり、アイデンティティに関わる部分だ。剥き出しにするのは過去の真実だ。何を使っても運命や過去は変えられないとするなら、人はそこにどう向き合うのかが全編で問われている。何をしても運命は変えられないが、より深く知ることはできる。そしてそこから生きる意味を自分でつくりだすことができる。ここに収められた作品達は、様々なテクノロジーによって今とは違った世界を描くことで、そのメッセージを強く深く訴えているのではないだろうか。


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