24.感受性と大きなお世話の違い

 わたしは小さい頃から、感受性が強いね、と言われ続けてきました。

 小学校の頃の通信簿を読み返してみると、ほぼどの学年でもどの先生にも言われています。親に言われたこともあるし、友達に言われたこともしょっちゅう。
 わたしは、感受性が強い=人の気持ちに寄り添える優しい子、なのかな?と半信半疑でしたが、少しだけ自分の自信になっていたことは確かです。

 でもだんだんと、そうではなく自分が空っぽだからだ、ということに気づくんです。空っぽなので、人の気持ち(それも自分が予想した感情)がどんどんそこに溜まっていくんです。結果、人からは感受性が強く「見える」のです。

 ひどい例をあげます。

 スポーツの試合を観た場合、勝敗が決まった瞬間に、負けた人や負けたチームのことを考えて気持ちがズーンとなります。試合後のヒーローインタビューなんて観ていると、負けた人たちはどういう思いでいるんだろうと、感情を引きずります。自分勝手に負けた方の気持ちを「予想」し、そして勝手に落ち込むわけです。大きなお世話です。

 暗いニュースを見た時、わたしの気持ちは暗い谷底へ真っ逆さまです。特に犯罪の場合、テレビを殴り壊したくなるくらい、怒りの衝動に襲われます。あまりにその事件がひどい場合は、必ず復讐してやると、なぜか他人のわたしが強く誓ったりします。自分勝手に被害者の気持ちを「予想」してです。もちろん実際に行動にはうつしませんが。わたしの目の前にデスノートが落ちていなくて良かった・・・。

 天災や事故の場合、怒りの矛先が見当たらないので、ひどいと泣きます。自然には勝てない、でももしかしたら助かったのかもしれない、と泣きます。「もしかしたら」で延々大泣きします。

 交番の前を通る時、昨日と今日の市内の死者数が掲示されてると思いますが、その死者数に「1」と書かれていると、しゃがみ込みたくなります。誰かが亡くなって、誰かが悲しんでいる。また自分勝手な「予想」に必要以上に引っ張られます。

 他にもいろいろありますが、自分勝手に「予想」して自分でハマっていく。全部わたしの頭の中での出来事です。
 そしてそれはいつも負の感情が多い。

 もちろん、人が喜んでいたり楽しそうにしている姿を見るのも大好きです。一緒に自分も幸せになれます。ですが、負の感情の方に敏感になることの方が多いんですよね。それはわたしの頭の中でだけ繰り広げられている感情のやりとりで、そこに他人の本当の気持ちはないんです。

 もしかしたらわたしは、幸せだー!とか、楽しいー!といった感情を、忘れてしまいがちなのかもしれません。今までもそんなこといっぱいあったのに、記憶の隅に追いやられていて、すぐに引き出すことができないんです。
 その代わり、嫌だとか辛いっていう感情は頭のど真ん中にあるので、簡単に引き出せてしまう。なので他人の気持ちを考えた時に、まずその負の引き出しが開くんでしょうね。

 自分が空っぽなので、他人の気持ちを自分勝手に「予想」することしかできないんです。
 予想というものは、自分の過去の経験や感情、それを元に行う作業なのだと思います。だから外れることも多々あります。

 わたしの場合は、他人の感情に思いを馳せる、なんてことではなく、自分の「予想」が完全に的を得ているだろうという大きな勘違いを決定打にした、あくまで自分中心の世界なんです。
 その大きな勘違いが「余計なお世話」という他人との温度差を生むわけです。
 それを「感受性が強い」というなら、大いなる誤解ですよね。

 ここまで書くと、まるでわたしの人生がとんでもなく不幸だったに違いない、と思っている人もいるかもしれないですが、そんなことは全然ないです。躁鬱ということはありますが、でも不幸だとは思いません。

 過去にも嬉しいことや幸せなこともたくさんあったし、今だってこうやって書いていて楽しいし、書き終わったらカレーを作ろうと思っています。そして明日の二日目のカレーも楽しみです。三日目のカレーうどんも。

 書きながら分かったことがひとつ。
 わたしが他人の世話をしなくなったら、安定しているということかもしれないですね。これは自分の目安として、忘れないようにしておきます。