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メキシコ皆既日食体験記

2024年4月8日12時23分。
言い表すことのできない美しさを前に、体の奥底から湧き出るように涙が溢れる。
人生で初めて見る、名前のない景色を、私の記憶は覚えていた。人類が誕生してから何度も見てきたであろうこの光景への畏怖と崇敬はDNAに刻み込まれ、私が今流してる涙は、呼び覚まされた古代の人々の魂の震えだと思った。



メキシコシティ

ユナイテッドエアラインを乗り継ぎ出発から17時間後、メキシコシティに着いたのは4月4日夜。
強盗にビクビクしながら空港ATMでメキシコペソを引き出した後、日本人宿「ペンションアミーゴ」へと向かった。夫とのふたり旅なので、ホテルを予約することも考えたが「メキシコのスタートゲートはアミーゴでは」という思いが捨てきれなかった。
タクシー運転手に住所を伝えると、屋台と人でごった返す乱雑な街並みを、むちゃくちゃな車線変更で躊躇することなく向かって行く。まるで押し寄せるエネルギーをかっさばいて走るナタのようだ。
試しに昔使っていたスペイン語で運転手に話しかけると、ギリギリ会話が通じた。嬉しさで体に血が巡るのを感じる。セントロ(中心部)へ進むにつれ見覚えのある風景が増えていき、30分もするとアミーゴのあるレボルシオン駅周辺に着いた。

メキシコに来たのは13年ぶりだ。
新卒後勤めていた会社を退職して、女友達と2週間のメキシコ旅行計画を立てていた。
フライトチケットの取得から宿の予約、訪れる街のチョイスまで旅の行程はすべて彼女に任せ、私は退職間近の激務に追われる毎日だった。旅慣れた友人についていくだけの“パッケージツアー”のはずが出発の9日前、大地震が日本を襲った。
スーパーから水がなくなり停電になり電車は止まり、彼女の夫は、何十キロという道のりを会社から歩いて家まで帰ってきた。
「こんな状況で、旦那を残して海外に行けない」という彼女の言葉は至極真っ当で、かくして私はバックパックを背負い、ひとりメキシコへと旅立つことになったのだった。
初めてのひとり旅、底知れぬ不安に標高の高さが絡み合い、1泊目のホステルで拗ねたようにどこへも行かず横になって過ごしていると、同室のドイツ人女性に声をかけられた。
「臆病だから、外へ出たくない」
という私に
「じゃあ何か一緒に食べに行かない?」
と誘ってくれる。
それだったら、と重い腰をあげてレストランへ向かう道すがら、大勢の人々が高台のステージを囲んで何かに夢中になっていた。真ん中にいるのは揃いの黒服にツバの大きな帽子、いかにもという出立ちでギターやバイオリン、トランペットを演奏するマリアッチだ。興味をひかれた私たちも円の外側に立ち止まった。ボーカルのおじさんがスペイン語で何かについて話した後、それまでとはトーンの違う曲が流れ始めた。
それは長渕剛の「乾杯」だった。
「長渕? メキシコで人気なんかな?」
冗談のようなちょび髭をたくわえたメキシコ人ボーカルの、クセの強い日本語歌詞をぼーっと聴いていると、スペイン語のわかるドイツ人の彼女が「大災害に遭った日本に捧げる歌ですって」と私の耳元で囁いた。
あ! そういうことか!
メキシコの人々がこうして遠く離れた日本を思い遣ってくれることに感激した私は、演奏が終わると背伸びしながら両手を振って「グラシアース!」と叫んだ。
その瞬間、100人を越える観客がいたにも関わらず、ボーカルの大きな黒目とバチン!とぶつかった。
「ハポネサ(日本人)か?さぁこっちにおいで! さぁさぁ!」
戸惑いながらも断ることができず、観客が作った花道を通って私はステージの上に立った。
マイクを向けられると、腹を括るしかない。上擦った英語で
「私と私の家族は無事でした。日本のことを心配してくれてありがとう。グラシアス」
そう言うと、ワーっと大きな歓声が上がった。
ステージを降り人々を掻き分け掻き分け戻った私に、ドイツ人の彼女が「臆病風は治った?」と、にっこり微笑んだ。
その後メキシコ人特有の大らかさと人の良さに何度も助けられ、氷が溶けるように私の心はメキシコの大地に染まり、2週間の予定だった“パッケージツアー“は10ヶ月の“滞在”に変わったのだった。


モンテレイ

夫とアミーゴで2泊した後、メキシコシティから328km離れた古都グアナファトで友達のハマナ君と奥さんのサチヨさん、彼らの子どもと合流し、グアナファトから北東の街モンテレイへと飛んだ。
早朝モンテレイでレンタカーを借り、4時間ほどのドライブを経て目指すは“白い砂漠”クアトロ・シエネガス。クアトロ・シエネガスは「ポサ」と呼ばれる約500ヶ所のさまざまな青い泉が点在する自然保護区だ。メキシコ政府によって毎年選出される魔法のように魅惑的な場所ープエブロ・マヒコにも選ばれている。
今回の皆既日食帯は、太平洋沿岸の街マサトランから北米大陸を横断してカナダ南大西洋へと抜ける範囲の広いものだったため、日食旅に出る友人たちと、今年に入ってすぐの頃から「どこで見るのか」話し合いを重ねてきた。テキサスやマサトランでは野外フェスティバルも開催されると知り興味をひかれたが、私たちは雲が発生しにくいという理由で内陸部のクアトロ・シエネガスに照準を合わせた。
場所が決まったのが3月初め頃。すぐに2泊5万円の一軒家をAirbnbで予約した。最大で8人、交渉次第では10人ほどなら泊まれそうで、とりあえず屋根がある場所兼旅人たちのミーティングポイントができたと胸を撫で下ろしたのだった。

ところが皆既日食の6日前、4月2日の朝目が覚めると
〈エクリプスがあることを知らなかったため、レンタル料金を変更させてもらいます。悪いね〉
という宿のオーナーから来た一通のメッセージとともに予約はキャンセルされていた。驚いて再予約しようとすると宿代が1泊15万円に跳ね上がっている。
あわてて皆既日食グループでシェアすると、これまで6度の日食を目撃し、すでにメキシコ入りしていた友人フミ君は、事前にクアトロ・シエネガスでキャンプインするつもりだったらしく、フミ君が滞在予定のキャンプ場で集合することになった。出発前の私と夫は、滑り込みでテントと寝袋をバックパックに詰めたが、4月2日出発だったハマナ家はすでに関空に向かっており、キャンプ用品をメキシコで買うことを余儀なくされた。
というわけで、モンテレイでレンタカーを借りた後、すぐにはクアトロ・シエネガスに向かわずショッピングモールへキャンプ用品を物色しに行くことになった。何軒かはしごしてくまなく探したのだが、アミーゴで長期滞在者に聞いた通り、そもそもメキシコにはキャンプ文化があまり浸透していないらしく、十分なギアが見つからない。当初の予定では昼過ぎにクアトロ・シエネガスへ到着するはずが、時刻はすでにお昼前。少ない選択肢のなかから、ハマナ君らはウォルマートで2人用のチープなインナーテントを購入していた。キャンプ用の食料を買い込み、昼食を食べ、水を調達し…と準備に時間をかけているとフミ君から〈何時頃着く?〉と2度目の連絡が来た。

〈まだモンテレイで買い物中〉
〈ここに全部ありますんで、はよ来てください〉

書かれたメッセージを見ながら、私の中で大聖堂が時刻を知らせる鐘のような、打ち響くものがあった。
「本当に必要なものはほんのひと握りだけ」
それは、13年前メキシコを旅して心得たことのひとつだ。物が豊富にある日本に慣れすぎて、すっかり忘れてしまっていた。大都市モンテレイに比べて小さな田舎町の、クアトロ・シエネガスにたくさんのモノがあるはずはないのだけど、旅慣れたフミ君が言うのだから間違いない。そこには“全部”があるのだろう。
その言葉に背中を押されるようにモンテレイを出発した。


クアトロ・シエネガス

子どもがいたずらにほうきで掃いた跡のような薄い雲が、広い空を薄く覆っている。
果てのない荒涼とした大地には低木が生え、どこまでも続くアスファルトの一本道は間違えて転がっていった忘れもののリボンみたいだ。
ずっと変わらない景色のなかを、ひたすら西に向かって車が進む。最初のうち夫は初めての左ハンド&右側通行に慣れず、何度も車線を割って右側に寄っては助手席のハマナ君に「殺す気か」と言われていたが、そのうちに安定して走るようになった。居眠り運転防止にかかっていたBPM早めのトランスミュージックはいつの間にかさだまさしの「北の国から」に変わっていて、私はさだまさしの、寝そべったパンダから漏れ出たような声をBGMに、右側通行を難なく運転する夫を後部座席から見て本気できゅんしていた。

飽きることなく外を見続けて4時間。そろそろかな、という辺りだった。 目の前の山頂に、“馬にまたがった男”がいた。冷静にスケールを考えると本物のはずはないのだけど、その類の幻想を追いかけてはるばるここまで来た私には本物と勘違いするには充分な、理想的な登場に心を射抜かれてしまった。
すぐ側のガソリンスタンドに寄って、冷えたビールを24本買う。街の大きさによっては、冷たいビールを買えるのはここが最後かもしれない。車に乗る前に“馬にまたがった男”を写真に収めようと、ガソリンスタンドのフェンスに近づくと、麓には車の中からは見えなかった「CUATRO CIENEGAS」と書かれた白字のサイン。これが西部劇だったら間違いなく完璧なオープニングだ。着いた!という実感と、これから始まる旅の好調な兆しに笑みがこぼれた。

ガソリンスタンドを出て10分ほどでフミ君とその仲間が集まっているキャンプ場「LA MAQUINA」に到着した。山々に囲まれた砂地のキャンプ場で、トイレとシャワーが付いているそうだ。受付のお兄さんにひとり150ペソ(1500円くらい)を支払ってから、日本人のグループは? と聞くと、あそこに集まってるよと簾屋根の東屋を指差した。
「ビエンベニードス!(ようこそ!)」
両手を広げるフミ君とハグして再会を喜び合う。そこには10人ほどの日本人がおり、私たちの到着を歓迎してくれた。日本で季節労働をしながら旅を続ける家族、中南米を旅行中のトラベラー、淡路島でキャンプ場を営む男性、メキシコ長期滞在者、ジョージアでコーディネーターの仕事をしている日本人など色々な人と握手をし挨拶を交わした。
「ほんで、ここに全部あるん?」
フミ君に聞くと
「何もかも、全部ある。」
当たり前やん、という顔をしながらインド人みたいに首を傾げて同意を示すジェスチャーをした後で「ウェルカムのしるしに」と私と夫に小ぶりの食用サボテンをくれた。

「LA MAQUINA」から白い砂漠のある自然保護区までは車で10分ほど。どうやら皆既日食中はセレブリティがパーティー会場に使っているらしい。入場料は日本円で4万円。普段の入場料からすると40倍だ。無言のうちにこのキャンプ場で日食を迎えることが決まった。

夜になるとFANDANGO(スペイン語でバカ騒ぎの意味)というメスカルを飲みまわした。普段からお酒が苦手な私はまわってくるグラスを横の人にそのまま渡していたのだが、サチヨさんが「おばあちゃんの箪笥の匂いする」というので、ひと口飲んで確かめてみた。ショウノウに似た埃のような匂いと、石を舐めたみたいな味がする。「ここほんまにメキシコなん?  大仙公園ちゃうの」と酔ったハマナ君が何度も言う。皆既日食という同じ目的を追いかけて、メキシコにいる嬉しさと高揚感とでみんながハイになっていた。トイレに行こうとすると、サソリに気つけやと言われた。曰く、私たちが来る前の日、夜にブラックライトで地面を照らしながら歩くレンジャーの格好をしたファミリーがいたらしい。何照らしてるの? と聞いたところ、サソリだったそうだ。噛まれたら即ホスピタルやって。キャンプ場の小さな電灯と焚き火の炎だけを頼りに、真っ暗なだだっ広い空の下で過ごしていると本当にここがどこだかわからなくなる。夜中まで喋り続け、3本あったFANDANGOも24本買っていたビールもほとんどなくなったところでテントに戻った。
朝を迎えればいよいよ日食だ。横になった瞬間安らかな寝息をつく夫の横で、晴れますようにと祈った。


2009年と2017年

初めて皆既日食を意識したのは、2009年7月トカラ列島沖で行われた「LUCY IN THE SKY WITH DIAMOND RING TOUR」(FLOWER OF LIFE主催)だ。「ルーシー号」という名前がついたロシア客船にボアダムスを初め、F・O・LのDJ陣が勢揃いするクルーズだった。
毎週のようにパーティーで遊んでいたハマナ君、サチヨさん、フミ君といった大阪の友人たちはさっさとチケットを取って参加する気満々。私は17万円近くする高額なチケットに怯んだ。みんなの言う“皆既日食”に、諭吉17枚の価値があるのか、長期で会社を休む価値があるのかないのか定まらないまま、遠くからその熱狂を眺めていたが、ついぞチケットは買わなかった。
皆既日食当日、実家の中庭でだんだん暗くなる空を見て焦った。自分だけ大事なものを取り逃したんじゃないかという嫉妬と疎外感。クルーズから帰ってきた友人たちが、雲に隠されて観れなかったと口惜しそうにする姿を見て私は内心ほっとした。だから今でも、この旅で起こった珍奇なハプニングを友人たちから聞くと、当時の自分を思い出してむずむずする。

それから8年後の2017年。
オレゴンで開催される「Oregon Eclipse Festival」にストリング・チーズ・インシデントが出演すると聞いた。朝霧JAMで見て以来、大ファンになっていたチーズのライブと皆既日食。ここぞとばかりに私は意気込み、奮発してフェスティバルのチケットを買った。当時3歳になる長男がいたのだが、夫は同行しないので子連れ旅になる。フミ君、ハマナ君一家とは向こうで合流する予定とはいえ、レンタカーを運転して会場まで行くこと、巨大な会場でのキャンプイン生活、そもそも子連れでライブにチューンインできるのかと夜な夜な不安が炸裂し、悩んだ挙句、出発の数週間前にチケットを売った。
オレゴンから帰国後、友人たちが話すドラマティックな天体ショーの目撃談と強烈なマッシュルーム体験、チーズのライブで得たあまりの深い喜びに「気持ちぃいいいいいいいい!」と叫んだ話を聞いて、涙を流して笑いながらも次回は必ずと思いを強くしたのだった。

Total Solar Eclipse

誰かの話す声が聞こえる。車のドアを開閉する音。砂を踏む擦れた足音。
差し込む日光でベージュのテントが発光しているみたいだ。砂漠の夜の身を切るような寒さを、なんとか感じずに朝を迎えたのだと気づいた。
テントを出るとすでに数人が起きていて、朝食の準備をしていた。
フミ君が玉ねぎとトマトを切ってサルサを作っていた。机には缶詰のフリーホレス(豆)とトルティーヤがあり、どうぞご自由にとでも言うように指さした。
それを断って、私は昨日もらった食用サボテンをひと欠片食べた。モンテレイのスーパーで買ったオレンジと交互に齧る。空腹のお腹に刺激が強すぎるかもとも思ったが、不思議と昔食べたときのような、体が拒絶するほどの苦味は感じず、もうふた欠片をオレンジの果汁で流し込んだ。
「二日酔いで頭痛がする」と起きてきた夫も、オレンジジュースを飲んだ後、半分ほど齧ったようだ。フミ君が「ちょっとだけお腹に何か入れといた方が、吐き気おさまるで」と言うので、夫はトルティーヤを食べていた。
部分食が始まるのは11時4分。
焚き火を囲んでいた場所に座り、昨夜遅くにキャンプ場にやってきた日本人と話した。モンテレイのレンタカー屋でクレジットカードが使えず、詐欺に遭いかけたという話を聞いていた最中、ふらふらした足取りで夫が口をおさえながらどこかへ向かって歩いていく。夫の元へ走り寄り、背中をさするとさっき食べたものを全部吐き出した。タオルを渡して「気分が良くなるまで吐いた方がいいで」と言うと「目閉じたら幾何学模様が見える」と答えた。

夜明けの寒さはすっかり消え去り、今では太陽が砂漠の砂をあたため始めていた。
キャンプ場にいた人々が、山の方へと歩いている。
「景色の良い山の上で見るみたいだよ」
誰かの言葉に誘われるように、皆が山へ向かって行く。しばらくテントで休んでいた夫に「歩ける?」と聞くと、無言でうなづいたので、ゆっくり歩みを進めることにした。

最後尾の私たちは、グアテマラとの国境近くサンクリストバル・デ・ラスカサスでマッサージ屋を営むジュンコさんという女性と話しながら歩いた。旅人という形でなく、メキシコに長期滞在している人は皆たくましい。この国が持つ魅力に引き込まれる気持ちはよくわかっても、それだけでは生活は営めない。じっくり話そうとすると、歩くたび息が切れた。太陽が、持てるエネルギーを最大限まで発揮しようと勢いづき、ジリジリと私たちの体力を奪おうとしていた。
砂に覆われて生気のない色をした植物は、その実生命力が強い。動物に食べられないよう、枝に固い棘を生やし自分の身を守っている。そのタフな棘を避け、鋭いサボテンの針に刺されないよう細心の注意を払いながら、一歩ずつ前進した。ふと小さく膨らむ鮮やかな色が視界に入ってくる。誘われるように近づくと、黄色やピンクの花をつけたウチワサボテンが群生していた。この不毛な大地で、花を咲かせるにはどれだけの力が必要だったのだろう。その健気な姿は私たちを優しく甘い気持ちにさせた。
空を見上げ、日食グラスをかざしてみる。太陽の右側が、誰かがひとすくいだけ食べたみたいに欠けている。蝕が始まったのだ。

グループの先頭は、山の中腹まで進んでいた。振り返ると後ろから夫がゆっくりと歩いてくる。夫の具合を見て、これ以上進まずにふたりで少し開けた砂地に留まることにした。
やれやれと腰を下ろすと視界に映るのは刺々しい植物と広い空だけで、夫とふたり世界に取り残されたみたいだなと思った。誰かの声どころか生命の気配すら感じなかった。それは、私たちだけを外側から切りとったような静けさだった。生命の気配すら感じないと思った砂漠だったが、空を見上げる私の周りを一匹の蠅が飛び回り始めた。ブンブンと羽を震わせて私につきまとう。太陽はさらにその力を強め、一滴の水分さえ残すまいとする強烈な照り返しが、身体中から汗を吹き出し喉を渇かせた。堪えきれず立ち上がると、山肌を通り抜ける風が私の体をやさしく撫でていく。子どもの頃、叔母の家に泊まりに行くとお風呂上がりに天花粉でポンポンと肌を叩かれるのがくすぐったくて、体を捩らせて笑ったのを思い出した。
疲れては座り、暑くなれば立ち上がりを繰り返すうちに、やがて薄い雲が太陽を覆い始めた。雲に隠されて見れないのだけは避けたい。何度も何度も日食グラスをかざして月と太陽の狭間を見つめ続けた。すると突然、奇妙な感覚が私を襲った。月が球体になったのだ。もちろん月が球体だということは知識ではわかっていた。けれどそれは学問上の話で、なんとなく私たち人間はプラネタリウムのようなドーム状の空の下にいて、そのドーム内を雲が横切り月が弧を描いているという感覚を捨てきれなかった。それが半分ほど欠けた太陽の残光が月の濃淡を描き出したことで、空は奥行きを持って私の前に現れた。次の瞬間、私は宇宙にいた。宇宙に浮かぶ塵の視点となって、地球に立つ私自身を見つめていた。私はまるで地面を離れるロケットのような体勢で地球の最前線に立っていた。『星の王子さま』の表紙みたいだったし、沈没する豪華客船の船首に立つ女性みたいにも見えた。

宇宙の中にいる!

暗闇にぽっかりと地球が浮かんでいる。その向こうに月が、さらにその奥に太陽が見えた。月は急速に移動しながら、今にも太陽の前に立ちはだかろうとしていた。それはドクンドクンと脈打ち呼吸する、宇宙の鼓動だった。
もっと見たい。もっと近くで。精神を研ぎ澄まそうとすると、見上げ続けた首に痛みを感じた。集中力が途切れた途端、私の意識は無限の宇宙から瞳に吸い込まれて戻った。
圧倒されてゆっくりと座り込む。「コンタクトみたい」と口に出た。気がつけば肌寒くなっている。あれだけ煩く飛び回っていた蝿はどこへ行ったのだろう。肉眼で空を見上げると、太陽は厚い雲に覆われていた。色彩のない地面はさらに鉛色を帯び、あたりが翳り始めた。
その時だ。
大いなる手が雲を払い、ぴたりと重なり合った太陽と月が姿を現した。空は藍で染めたような深いブルーに彩られ、その中心には何かを象徴するように黒い太陽が浮かんでいる。宇宙の穴みたいな黒だ。月の背後では放射状に光芒が放たれ、ゆらゆらとうごめく触手のような光の環がはっきりと肉眼で見えた。太陽の横で金星が瞬いている。視線を落とすと、見渡す限りの光が満ちていた。地平線は黄金色に輝き、朝焼けでも黄昏でもない温かな光の集合体が、クアトロ・シエネガスを包み込んでいた。
体を貫くような美しさだった。圧倒的な光景に心を動かされながらも、私のどこかが畏れていた。私はこの畏れを知っている遥か何万年もを生き延びてきた私たちの祖先は、人智を遥かに超えた宇宙の営みを見て怯え、恐れ慄き、自然への恭敬を何度もその身体に刻み込んできたのだ。
遠い記憶は風の強い日に押し寄せる波のように私に打ち寄せ、私の全身を濡らし去っていった。あとに残ったのは、とめどなく溢れる涙だった。
他の何も考えられない、純粋な4分15秒。
私は噛み締めるように恍惚に身を委ねた。

ジャーニー

さっきまで身を潜めていた蝿が、ブンと音を鳴らし私の耳元を通り過ぎる。
日光はすでに私の肌をじわじわ焼き始めていた。
棘に刺されないよう慎重に下山しながら、心なしか体が軽くなっているのを感じた。
「日食で細胞ごと生まれ変わってたりして」と夫に言ってみた。言ってすぐ、せっかくの経験をただのスピリチュアルにしたくなくて「あ、泣いてすっきりしただけか」とひとりごちた。
茨道を避け黙々と歩く道すがら、やはりと思い「これが新生わたくしです!」ジャンプして両手両足を広げ振り返ると、夫はパシャリと写真を撮った。笑う夫の顔もやっぱり晴れやかで、新しくなったんだな、と思った。

メキシコから帰ると、留守番をしてくれていた3人の子どもたちの育児に追われ、夢のような日々は瞬く間に日常に塗り替えられていった。ルーティーンをこなす毎日のなかでふいに、あの時目にした光景を思い出す。そして私は気づくのだ。単なる2週間のメキシコ旅行ではなかったと。皆既日食を意識し始めた、2009年から15年間をかけた長い長いジャーニーだったのだと。2027年にはエジプトで、2028年にはオーストラリア・ニュージーランドで、そして2035年には日本の本州で皆既日食が観測される。
次私はいつ、どこで、皆既日食を見るのだろう。
そのときに向けて、もうすでに旅は始まっているのだ。

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