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『キース・ヴァン・ドンゲン展―フォーヴィスムからレザネフォル』

『キース・ヴァン・ドンゲン展―フォーヴィスムからレザネフォル』
パナソニック汐留美術館




キース・ヴァン・ドンゲンの「猫を抱く女」を竹久夢二が「黒船屋」でオマージュした、エコール・ド・パリの画家ってことぐらいしか彼のことを知らなくて、44年ぶりの日本での個展とのことで、いい機会なので見てきました。


1905~1915あたりの作品が発展途上なりの荒削りの良さと貪欲さがあって、鮮烈な色彩表現!濃厚なタッチ!構図の大胆さ!陰影の有無などの実験性!など見ていて圧倒的に面白かったです。

体のアウトラインが赤で、これは愛情や情熱が体内から溢れ出てるから赤なんやろか?と思いきや、人工の光に照らされた真っ白な肌の影にごりごりにエメラルドグリーンが使われてて顔色はむっっちゃ悪い。でも瞳塗りつぶしまくりまつげバッキバキに描かれてるから生命力が強くて圧倒させられる。

オランダ人でパリで活動してたそうですが、パリって感じでもなくてドイツ表現主義の尖り方、陰鬱さとエロティシズムやオリエンタリズムがあって、ちょっと独特。当時パリで秒で人気になったのもわかる。


その後、第一次世界大戦後のレザネフォル(狂騒の20年代)あたりの作品になってくると、ブルジョワからの肖像画や気持ちのいい〜ゆったりリゾート地を描いた絵の依頼が大多数を占めるようになってきます。

「THEドンゲンな感じで描いてほしい」ってオーダーを受けてたんやろうなぁ。ある一定の評価を得てしまったが故に、やっぱりお客さんはそれを望むし、それしか描けなくなってしまった感じがある。
いろんな批評を見てると私とは全く逆で「お客さんの言いなりにはならずに独自のスタイルを模索し続けた」みたいなのが多かったけど、遠藤はそうは思えなくて、もう自分で自分を模倣して描いてしまってるなぁこれはって思いました。
(『女曲馬師(または エドメ・デイヴィス嬢)』って作品はタバコとシルクハット携えたマニッシュな女性が遠藤好みのテーマだったので好きだった。 )

だからと言って本人がめちゃくちゃ葛藤してるって感じも見受けられず(もっと多くの作品を見れば伝わってくる別の何かがあるかもしれないけど)、そういう裕福な画家人生に不服無さそうな気もした。レジオン・ドヌール勲章もベルギー王冠勲章も受章してるし、パリピやったから死ぬまでパーティー三昧やったそうやし。

だからなんとなく展示の後半にかけて勢いが収束していく感があって、全部見た後、なんとも言えない気持ちになってしまった。

ピークを超えた後、それ以上更新ができなかったというのもある意味とてもリアル。
でも別にそれも悪いこととは一概に言えないのかも。良い悪いの二元論ではなくて、ドンゲンも年齢を重ねるにつれ、絵描くよりもっと大事なこと見つけたんかもしれへんし。

「評論家は世紀末直後のフォービズム全盛期の初期を彼のキャリアの頂点と呼んでいる。」って彼について調べてたらいろんなところに書いてあったけど、遠藤もパリに来たて頃の作品が好きやけど、「キャリアの頂点」とかほっとけよって感じもするw
別に頂点ばっかり目指すのが人生じゃないし。という感じで、こういうタイプの画家珍しいので、彼の人生観に興味を持ってしまいました。



ちなみに詩人のギヨーム・アポリネールは、1918年に


「今日、官能に触れるものはすべて、壮大さと沈黙に囲まれている。しかし、暴力的で絶望的な色彩を持つヴァン・ドンゲンの贅沢な人物の中には、官能が残っている。化粧した目の輝きが、黄色やピンクの斬新さを際立たせ、コバルトブルーやウルトラマリンが無限の影を落とす精神的な純粋さ、情熱のために死のうとするまばゆい赤......。
この神経質な官能性は、とても若く新鮮で、光だけで構成されています。これらの色は、とても幻想的で示唆に富み、あたかも実体のないもののように見えます。
色彩画家は、電灯の鋭いまぶしさを、ニュアンスの尺度に加えた最初の人である。色彩は、並外れた個性を保ちつつも、影を意識することなく、うっとりし、燃え上がり、舞い上がり、青ざめ、消えていく......その結果、陶酔、振動、幻惑を引き起こす。
ヨーロッパ的であろうと異国的であろうと、ヴァン・ドンゲンは暴力的で個人的なオリエンタリズムの感覚を持っている」
(L.C. Breunig, ed., Apollinaire on Art, Boston, 2001, pp.459-461 から引用)


ってドンゲンについて書き残してるんやけど、上手に表現するな〜と感激してしまった。さすがアポリネール。
ドンゲンの作品から感じる退廃的な空気感っていうのは第一次世界大戦の重苦しい空気の社会で生きる人やパリをとても良く表してたんやろうなぁ。



でもすごい気になったのが、アポリネールも言ってるみたいに「官能性」の表現がドンゲンは素晴らしいみたいな評価がとても多いこと。

ドンゲンはナイトライフラバーなのでキャバレーのダンサーやモデルや娼婦など(後期は上流階級の女性たちも)、「女性」を主に描いてる画家なんやけど、今日いろんな作品を見て、女性の言葉が何も私に届いてこなくて、なんだこれは、とてもペラペラではないか…?と思いました(失礼)。
ドンゲンの描く女性はぱっと見とても綺麗だしファッションもかわいいし、コケティッシュでおしゃれなんやけど、なんかとても薄い…。

眼差しや女性らしいデフォルメされた体つき、優美な佇まいなど女性の本質を表現してる風に見せかけて、ドンゲンの理想とか幻想の女性像でしかないのではないやろうか。

女性の目はマイキーばりに死んでたり、焦点が合わない感じでぐずぐずに混濁してるように描かれてたりするのですが、そこに闇落ち感を表現したいのかなと思いつつも、それはとても一方通行の無理やりな表現な気がして、「女性に隠された内面を暴いてやるぜ」みたいな勝手に女性の闇を作ってしまってるみたいな、ちょっとズレてる感じがしました。

これ、実はモディリアーニをこの前見たときも同じことを感じた。でもモディリアーニの方はなんかほんまにそういう隠された内面が、描かれた女性にはあるんちゃうやろかって思わされた。
同時代の画家やけど、この違いはなんなんやろう。もうちょっと考えたい。



そして色々調べてたら

「私は自分の欲望を絵に表現することで外在化する」

「光り輝くもの、宝石、布地、肉欲を刺激する美しい女性...私は何でも好きだ。絵画は私にこれらすべてを最も完全に所有させてくれる」
(マルセル・ジリー『フォーヴィスム』フリブール、1981年、224-26頁)


て言ってたのを見つけて、やっぱり欲望を表現したい快楽主義おじさんだったな〜〜〜ということを知り、とても腑に落ちました。

ですがこれも、戦争という不安な時代を経験した画家の素直な制作意欲の1つだったと思うし、当時のパリのモンパルナスの空気感が欲望に満ち溢れていたことも起因してるやろうし、そうした今だと「え?!」みたいなものが時代背景を鑑みて想像することでまた違った見え方が出てくるなぁと考えさせられました。

(パリピ友達の藤田嗣治の半生を描いた映画「FOUJITA」に藤田が企画したフジタナイトっていうやばい仮装パーティーのシーンが出てくるのだけど、ドンゲンのアトリエでも似たようなパーティーが毎晩開かれてたんやろうなぁ)

というわけで、全くほぼ何も知らないドンゲンのことをとても良く知るきっかけになったいい展示でした。



ちなみにパナソニック汐留美術館はルオーの作品をご専門に集められてるのですが、会場の最後にルオーの作品がいつでも見れる展示室があります。
今回そこで新しく収蔵されたばかりの『老兵(アンリ・リュップの思い出)』という作品が見れるのですが、これにまつわるストーリーがもう!!とんでもなく!!!泣けるやつ!!!!!だったので、この作品を見に行くだけでも訪れた方が良いです。
遠藤はドンゲンのことなんてマジでどうでもよくなるくらい(大変失礼)大!感!激!しました!!!!!
作品は本当に一期一会の出会いだなぁと。全くルオーのこと好きじゃなかったのですが、俄然興味が湧いたのでまた彼についても調べてみようと思います。


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