映画感想#35 「華氏451」(1966年)
原題 Fahrenheit 451
監督 フランソワ・トリュフォー
脚本 フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール
出演 オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ、シリル・キューザック、アントン・ディフリング、ジェレミー・スペンサー 他
1966年 イギリス 113分
思考は人を不幸にするのか
紙が自然発火する温度、それが華氏451度(摂氏233度)。タイトルからイメージされるのは、紙で作られた本が燃えていく様子でしょうか。
「消防士って前は火を消すのが仕事って本当?/ありえない!」という会話の通り、この時代の消防士は、火を消すことではなく、本を焼くことが任務です。
主人公モンターグは消防士。しかしクラリスという女性と接することで、本に興味を持つようになってしまいます。任務中に手に取った本を持ち帰り、その本を読むにつれ、これまでの消防士としての自分は間違っていたことに気付くのです。
本の所持が見つかり、モンターグは逃亡して「書物人間」の集まるところへ向かう…という展開になります。
そもそもなぜ本が禁止されているのか。
それは、本を読むことで悲しい思いをしたり、混乱したり、戯言を吹き込まれたりすることがないように、というのが理由のようです。
確かにそれも一理あるのかもしれません。なぜなら、何も考えることがなければ、苦しんだり悩んだりすることもないでしょうから。
でもそれは本当に幸せといえるのでしょうか?
確かに、小説を読んで悲しいと思うこともあるし、難しい内容の新書を読んで混乱することもあるでしょう。しかしそれは不幸なことではないと思います。
私は本を読み、考え、思考し想像することで人生が豊かになると思っているので、本が禁止となるのには賛成できません。
書物人間=Book Peopleへの疑問
さて、モンターグが出会う書物人間という存在。各々が1冊の本の内容を完璧に暗記しているので、その人自体が本となっているという奇妙な人々です。しかし、「その人が突然亡くなってしまった場合、本の内容は永遠に失われてしまうのではないか?」という疑問が湧いてきます。
この点について、映画では答えを得ることができません。
書物人間についての詳細はあまりなく、謎めいたミステリアスな存在として描かれています。まるでモンターグが異世界に迷い込んでしまったかのようです。
原作では、あくまで現実的にこの疑問への答えが用意されています。
書物人間たちは、本が永遠に禁止されることはないと信じ、一時的に知識を避難させるために本を暗記をしています。本が解禁されたら、暗記したものを口述してまた本に戻す、という算段なのです。
書物人間のリーダーであるグレンジャーの言葉を、一部引用します。
「本を焼く」という焚書を国家が行うことは、これまでも歴史上あったこと。思想統制をビジュアルとして国民に知らしめるという点で、有効なのでしょう。
しかし本というのものは、結局は媒体に過ぎません。知識は本以外にも宿ることができる。その最終形態が、書物人間なのかもしれません。
1966年の制作なので、今見ると映像が少し古っぽい感じがします。モンターグ追跡中に捜査官が空を飛んでいたシーンでは、VFXの稚拙な感じが逆にシュールで面白かったです(笑)
気軽に”SFモノ”としても楽しめますし、本という存在について考えることもできる、裾野の広い作品だと思いました。
☆鑑賞日 2014年12月27日
投稿に際しての余談①〜原作について〜
原作はレイ・ブラッドベリの『華氏451度』。そんなに厚い文庫ではないので、割と身構えずに読めます。
映画との違いも結構ありますね。
原作では妻の名前はリンダではなくミルドレッドですし、消防士も「昇火士」と呼ばれています。また、クラリスのことはそこまで深掘りされていませんが(職業が教師であることは、原作では書かれていません)、映画ではファム・ファタールとは言わないまでもかなりのキーパーソンになっています。
原作に登場する「機械猟犬」(犯人探知用のロボット犬)も、SFの世界観としては面白いビジュアルになりそうですが、映画で見ることはできなくて残念です。
投稿に際しての余談②〜この映画を知ったきっかけ〜
大学の司書課程の授業でこの映画を知りました。授業ではフルで見れなかったため、渋谷イメフォで「トリュフォー×ゴダールSF対決」があると知り、見に行きました。
司書課程の授業で扱われたということは、思想の自由について考えるための良い題材だったからでしょう。本は思想や知識のシンボル的存在であるということ、そして思想統制には反旗を翻す人が必ずいるということ。覚えておくべき事実なのだと思いました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。