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水樹 香恵(23歳)「ペンキ塗りのアイボリー」①

彼女と出会ったのは、アトリエを開いた年の夏だった。
最初に彼女が祖母と一緒にアトリエに来た時のことを、よく覚えている。とても消耗してエネルギーを使い果たしたような儚さを纏った、強い炎を瞳に宿した女の子。「なんて美しい瞳を持った女の子だろう」そう思ったのが彼女の第一印象だ。以来、イベントを手伝ってくれたりしながら、少しずつアトリエに来るようになった。会話の中から彼女の感受性が伝わってきて、表現をした方がいい人だなとふんわり思っていた。小説を書いている。と、ふと漏らした言葉に私が食い付いたことから、今回のメルマガでの小説配信に至る。そんな彼女の小説を、ご鑑賞ください。


《 プロフィール 》

水樹 香恵 ¦ みずき かえ

自身を"傍観者"とし、脳内で繰り広げられる様々な物語を俯瞰で眺め、その世界の姿を絵や文に描き出して表現する。
自分の中に在る"目には見えない感情達"を第三者に分かりやすくありのままに伝える為にはどのように視覚化すれば良いのか、常に試行錯誤を繰り返している。
青年期という"大人でも子どもでもない"心身共に不安定な立場に在る人のあらゆる葛藤を描く「青春悲劇」を好む。

命とは何か。自分とは何か。そうして考え悩む事こそ人がヒトたりうる所以なのだと、とても愛おしく思います。
モラトリアムは人生のテーマですね。

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『ペンキ塗りのアイボリー』①     水樹 香恵

どうか、私の□を、忘れないでいてー。

少女はそう言って笑った。
砂浜に立ち夕日を背に浴びた彼女のその姿は……何故だろうか。
偽りの無いまっさらな心のまま、泣いているようにも見えた。
それが酷く心揺さぶる儚くも美しい光景であったから、少年は思わず首から提げていたデジタルカメラのシャッターを切る。

然し、後に現像した写真を見ても、あの瞬間に感じた衝撃は得られなかった。

全てが幻のように思えた。

それから少年は魂の抜けた人形のように日々を過ごしていたが、ある日偶然、父親が所有するアトリエの隠し部屋でとあるものを発見する。
殺風景な象牙色の壁に覆われた天井の高いその部屋には、大きな大きな一枚の絵画が飾られていた。

題名は、そう、確か――――


1、ハニカムスクエアのペンキ塗り

すきま風を招き入れる薄いガラス窓の向こうから、春の終わりを告げる雷鳴が響く。

髪質は両親から受け継いだ遺伝によるもので、長年蓄積されたシミ汚れのように頑固でどうしようもない強敵だ。梅雨になれば嫌という程思い知らされる。
アイボリーは鏡に映る己の姿を見つめて、深くため息を吐いた。
「コレで鳥の子でも住んでたら完璧なのにね」
口から出た言葉は自分が思う以上に棘が鋭く、目の前の少女は哀しげに眉を寄せている。
「冗談だから気にしないで。おしまい」
大量の髪留めで四方八方に暴れる前髪を押さえつけ、軽く朝食を済ませてから、見送る者の居ない静かな家をあとにした。

人口10万を下回る小国クルールランドは首都ルミエールを中心に放射状に街が発展しており、北にイエロウシティ、南西にマゼンタヴィレッジ、東南にシアンタウンと名が付けられている。そのうちシアンタウンは"自然と芸術の共存区域"として旅好きから絶大な人気を誇る豊かな街で、至る所に穴場スポットが点在しており、昼夜問わず観光客で賑わっていた。

どこを歩いていても仄かに甘い花の香りが漂ってくる。
アレルギーがあれば最も住みにくい環境だろうが、それさえ無ければまるで天国に居るかのような、暖かく朗らかで素敵な土地だ。

赤レンガ造りの建築群が軒を連ねるメインストリートの中央では、色鮮やかな花々に囲まれたシアンタウン随一の憩いの場ーーハニカムスクエアが人々を出迎える。
広場をぐるりと囲むように植えられた低木は全て大人の胸より下に切り揃えられており、風景を遮らないよう工夫が施されていた。
カラフルに染色されたレンガブロックが敷き詰められた地面は陽の光を反射して空間に柔らかな温度を与えている。
研磨されつるりとした小石が並ぶ人工水路は流れが穏やかで、木製ベンチで休む人々のリフレッシュに貢献していた。

風に吹かれさりさりと軽やかに響く葉の擦れる音と、花の蜜を運ぶ虫の羽音が鼓膜を揺する。
真昼時の微睡みを誘う甘い誘惑である。

透明で安価なビニール製の雨合羽を着て数種類のペンキ缶を抱えたアイボリーは、この時期特有の冷たい雨に打たれながら閑散としたハニカムスクエアへ足を踏み入れた。
普段なら子どもの笑い声や犬の鳴き声で溢れるこの場所も、平日の雨天ともなれば嘘のように活気が失せてしまっている。

ハニカムスクエアの中心にはアーティスト不明の彫刻が6つ程並べられていた。中でも一際目立つのは、背に羽を生やした裸の子ども達に囲まれ柔和に微笑む美しい女性の姿。他の彫刻と比べて明らかに差別化され緻密に造形が成されている事から、好意を寄せていた女性が天に旅立った悲しみで造られたものでは無いかという噂が有名だ。
立派な大理石の台座に小さく掘られた名前は"オーロラ"。
アイボリーの祖母の名だった。

「またここに居たんだ」
ふいに、背後から声をかけられる。
暗い青灰に隠れ彩度を失った街の中に在ってより際立つ真紅の傘を手にした赤茶毛の少年が、こちらを見てにっこりと微笑んでいた。
「ルドー。来てたの」
「君に会いに来たんだよ、イヴ。お早う」
イヴとはアイボリーの事である。彼曰く愛称らしいがその由来は分からない。因みにルドーというのも仮の名だそうで、アイボリーは少年の本名を知らない。いつも唐突に現れては飄々とした態度で接してきて、気付けば居なくなっている。不思議な存在だった。
「ペンキを持ってるって事は、お仕事? でも今日はあいにくの雨だね」
「……そう。仕事なんだけど、ここに来たのは癖で」
「"おばあさんが居る"から?」
「うん。仕事の日はいつも挨拶してから行くの」
「そっか」
慣れた手付きでアイボリーからペンキ缶を奪ったルドーは、彼女の肩を抱き傘の中へ迎え入れた。
「やめて……仕事だって言ったでしょ。返してよ」
「風邪でも引かれたら僕が悲しくなるよ。今日はどこまで行くの? 送るからさ」
「…………」
この問答も何度繰り返したことか。彼と出会いまだ数ヶ月しか経っていないが、穏やかな見た目とは異なり中々に強引で融通が効かないところがある事をよく理解していた。
「…………ヴィオレの店」
暫くの沈黙の後、喉の奥から絞り出すようにしてそう答えると、少年は分かり易く喜びの表情を浮かべた。
「あぁ、"レストランアデッサ"。あそこのラベンダークッキーとレモンティーの組み合わせが凄く美味しいんだ。今度一緒にどう?」
花の舞う様な笑みである。
「……友だちの家でそんなデートみたいな事しない」
「ふふ、デートだなんて、そんな」
アイボリーはルドーをきつく睨んだが、背の高い彼にはどこ吹く風で首が痛くなるだけだからやめた。
「邪魔はしないでね」
「もちろん」
メインストリートを進む2人の会話は、次第に強くなる雨音に掻き消されて溶けてゆく。

遠くの方で、雲の蠢く低い音が微かに鳴り渡っていた。


2、ウインクガーデンのインフルエンサー

数日後のシアンタウンはからりとした快晴で、歩道は人で溢れかえっていた。
先日の雨の影響か真夏日の様な気怠い暑さの中、携帯扇風機を回しアイリスは溜息を吐く。
「あーあ、久々の帰郷だってのに、最悪だわ。もっと薄着すればよかった」
陶器のような白い肌と黄金に輝く瞳。歩く度にふわりと舞う薄桃がかったロングストレートヘア。たくさんのフリルが付いた純白のワンピースからは心配になる程の細い手足が覗く。
サングラスと日傘で上手く欺いているつもりだろうが、彼女の放つ異彩なオーラはすれ違う人々の視線を悉く奪っていった。

「あー、ヤダヤダ。これだから田舎は嫌いなのよ」
苛立ちを隠せない様子のアイリスは足早に実家への帰路に着くのだった。

メインストリートから少し離れた寂れた住宅街。
冷たいコンクリートの高層アパートに囲まれ陽の光が届かないこの場所は、壁一面に名も知らぬ植物のツタが這い、水の滴る音と微かに感じるカビの匂いが肌寒さと気味悪さを助長している。
築50年は優に超えるこの辺りの建物は劣化が酷く、数年前の水害でほとんどの住人が住処を移してから、鳥の声すらも聴こえなくなった。文字通りの廃墟群と言っても良い。そんな場所に初恋の少女がたった独りで住んでいるというのだから、これを心配しないはずが無かった。
ルドーは薄着での訪問を少しばかり後悔しながら、ばくばくと煩く響く心音をどうにか宥めつつ玄関の戸を叩く。
「イヴ、デートしよう」
昨日、とある人物からの連絡を受け数時間悩んだ末に絞り出した誘い文句。
ややあって玄関からおずおずと顔を覗かせたアイボリーの怪訝な表情に、それすらも愛おしく思えて、少年は朗らかに笑って見せた。
「今日は北の方でお祭りがあるんだ」

シアンタウンの北部に位置するウインクガーデンは敷地面積が広く、隔月の頻度で大規模な祭りが開催される。
それは地域の特産品である果物や穀物の収穫を祝うものであったり、街の象徴である人物の誕生の日を祝うものであったりと様々だが、今回はそのどれにも当てはまらない特殊なイベントのようだった。

「あれ、ルドーが居る。外で見かけるなんて珍しいじゃん」
ずらりと並ぶ屋台の一角から声をかけられる。
チーズや牛乳等の直売も兼ねた酪農ブースで催されている雌牛の乳絞り体験。その客寄せを行っていた小柄な少年はどうやらルドーの顔見知りらしく、こちらに気付くなり陽気な笑みを浮かべ駆け寄って来た。
「やぁオランジュ、久しぶりだね」
「連絡手段が無いもんだから心配してたんだぜ。まぁ、元気そうでなによりだけど。…………あれ、そちらさんは? 見ない顔だ」
大きく薄茶に彩られた少年の猫目にジィと見つめられ、アイボリーは思わず固まってしまう。職業柄作業中は注目を集めてしまいがちだが、生来他者の視線が苦手なのだ。
強ばるアイボリーの背にルドーの手のひらが軽く触れる。
「紹介するよ。この子はイヴ。"今日の主役"の姉だよ」
「あぁ、て事はヴィオレの友だちだ」
「うん、そうなるね。彼女にも宜しく伝えておいて」
「ちょっと待って。 本人を前にして勝手に話を進めないで」アイボリーは唐突の事に混乱して「ねぇ、ルドー。紹介するならせめて私にも分かりやすく説明して。ヴィオレの知り合いなの? 彼女、店の手伝いで忙しくてほとんど会えないんだけど」と意趣返しのように早口で訴えた。
「あ〜、」然しそれに応えたのはオランジュと呼ばれた少年の方である。
「おれは父ちゃんが畜産農家で、それの手伝いしててさ、レストランアデッサにはよく仕入れに行くんだ。だから話した事は何度かあるぜ。あのコ、かなりクールだけど」
ニカッと笑うとえくぼが見えて、つり上がった目尻にシワがよる。色素の薄い短髪には潤いが無く、身に付けている作業着は泥水に汚れ所々穴が空いている。祭りには似つかわしくない装いだったが、それは彼が仕事に対して常に勤勉である事を主張するには充分だった。
アイボリーはひとつ大きく頷いてからルドーを見やる。
「それで? "今日の主役"っていうのはどういうこと?」
意地悪く腕を組みぶっきらぼうに尋ねると、彼はさも不思議そうに首を傾げた。
「聞いてないの? イヴ。今日はあの大ステージでアイリスの凱旋コンサートがあるんだ。この祭りのメインイベントだよ?」
一切の濁りも無い綺麗な両の目をこれでもかと見開いて。心底驚いたような声音である。
「……バカ。私はあの子と仲悪いの、知ってるでしょ」
「そうだっけ」 
「そうだっけ、じゃなくて、そうなの。昨日だって私が仕事で留守にしてる間に家に帰って来てたんだから」
「アイリスからはイヴの話、よく聞くんだけどね」
「どうせ悪口ばっかりでしょう、それ。……避けられてるの。ひとりでイエロウシティに出ていったのだって、喧嘩したのが原因だし……」
「そうかな。アイリスは純粋に、夢を追いかけていただけのように思うけどね。小さい頃から言ってたよ。"アイドルになるのが夢だ"って」

「どうだか」

突き放すようなアイボリーの言葉で、場の空気が一瞬にして固まる。
何かを言いかけたルドーは数秒思い詰めた表情を浮かべた後、静かに口を閉ざした。

「……」
「…………」
「……………………」
「………………………………」

互いの心音が聴こえるかの様な静寂。

「お二人さん」その小さな沈黙を破ったのはオランジュだ。
「おアツいとこ悪いけど、アイリスのステージならもうすぐ始まるぜ? 席埋まる前に行っちゃいな」
 至極呆れた顔をして両手で追い払う仕草をする。
「……うん、それもそうだね」友人の思わぬ助け舟にルドーは安堵の溜め息を漏らした。

アイボリーは一度でも心を閉ざしてしまえば意地でも他人の話を聞かなくなるという難癖を抱えている。"殻にこもる"とは正に彼女のためにある言葉ではないかと疑う程だ。事実ルドーはこれ迄に幾度と無く絶交を言い渡されてきた。
然し少年の脳内に諦めという言葉は存在せず。その度に生じるぶ厚い殻を無惨にも叩き割るのだから、彼の執念深さも末恐ろしいものである。

「ありがとうオランジュ、また来るよ」
元気に手を振るオランジュに別れを告げたルドーはアイボリーへ向き直ると「ほら、行こう、イヴ。はぐれないよう気をつけて」と左手を差し出した。
渋々その手に甘えて、きゅっと優しく包まれたその温かさに絆されそうになりながら、アイボリーはふと疑問符を浮かべる。
「さすが大人気アイドル。ステージ周辺は人がたくさん居るね」
「……うん」
そうだね、と言おうとしたが声にはならなかった。
軽快な伴奏と共にアイリスの滑らかな歌声が響き渡る中で、一抹の不安がじくじくと胸を痛める。
観客の歓声により更に盛り上がりを見せるプログラムの中、アイボリーはひとり上の空で左隣に居るルドーの端正な横顔を見つめていた。

(②に続く)。
次回メルマガ配信(5月20日新月🌑)にて配信します。

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