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違うことが普通であることに気づく【ガラスの海を渡る船/寺地はるな】

私が担任した中で強烈に印象に残っているのは、当時小学3年生だったある男の子。彼を担任したのはかれこれ5年以上も前になる。なぜ彼のことを今でも強烈に覚えているかというと、とにかくやることがぶっとんでいたから。

たとえば体育の授業前なかなか体育着に着替えなかった彼を、私は着替えるように急かしたことがあった。もう始業のチャイムはとっくに鳴っていた。

彼が着替えをし始めたところまで見届けたはいいものの、全員を連れたつもりで体育館に着いたら彼はいない。教室に戻ってみたら彼は黒板の下にあぐらをかき目をつむって座っている。座禅を組んで瞑想していた。

私「え!!何してるの!?」
彼「こうすると心が落ち着くってお父さんに教えてもらった」

私が何度もしつこく着替えを急かしたあまり、彼の心の中は相当乱れてしまったのだろう。彼なりのマインドフルネス。彼のことを理解したお父さんの教えは大変素晴らしい。

私の前に担任していた先生の話では、彼は授業中に突然ビートルズを歌い出したそう。おもしろすぎる。平成生まれの小学生とは思えない。

元気に過ごしているかな。久しぶりに会いたいなぁ。

*  *  *

さて、どうして彼のことを思い出したかというとこの本の主人公の一人「道(みち)」によく似ていたからだ。

今回読んだ本は、寺地はるな著「ガラスの海を渡る舟」。

タイトルも表紙もなんだか素敵。

読み進めるうちに、よく言う「普通」とか「特別」って一体なんなのだろうと考えていくようになった。

*  *  *

道と羽衣子は兄弟。道がお兄さんで、羽衣子が妹だ。道はみんなと同じことができなくてコミュニケーションをとることが苦手。羽衣子はコミュニーケーションが得意でどんなこともそつなくこなす。

二人は小さい時から仲が悪かった。学校生活にうまく馴染めずトラブルなどを起こしてしまう道。道の妹としていつも周りの目線を気にすることになる羽衣子。

道は普通ができなくて当たり前。羽衣子は普通にできて当たり前。羽衣子は親の愛情が道にばかり向いていると感じながら成長してきた。

互いが互いを理解できないまま大人になった二人だが、共に慕っていた祖父が亡くなったことをきっかけに祖父が大切にしていたガラス工房を一緒に受け継ぐことになる。

当然うまくいくはずがない。しかし時間が経つにつれて二人のわだかまりが少しずつ溶けていく。

*  *  *

二人の工房ではガラス製の骨壷を作っていた。それは半ば道の一方的な想いから始まったことだった。ある時、亡くなった娘用に注文した骨壷を受け取りに来た女性が二人の前で泣いてしまう。

「いつまでも泣くなって、主人にも言われるんです」いいかげん、前を向く努力をしないとだめですね、と続けた山添さんに向かって、道が首を振った……「前を向かなければいけないと言われても前を向けないというのなら、それはまだ前を向く時ではないです。準備が整っていないのに前を向くのは間違っています。向き合うべきものに背を向ける行為です。山添さんのご主人は弱い人です」

これより前に羽衣子は「泣かないでください」と女性に声をかけている。道はそんなことには構わずに自分の思いを伝えたのだ。

「こうしなくてはいけない」そんなことを考える人は結構多いのではないだろうか。「普通なら」「常識では」「一般的には」そういう類のものたち。

辛くてどうしようもなくても、普通は前を向かなくてはいけないのだろうか。感情ってそんなに明確なもの?

私はある出来事に対する感じ方がみんな同じなはずがないと思っている。仮に友人の家族が亡くなっても、自分の家族が亡くなった時と同じような気持ちになることはない。

「誰かが亡くなって辛くても、あと3日経ったらその気持ちは改善しますよ」のように単純であることはありえない。辛いのなら辛いことをしっかり感じていい。自分の感情から目を背けないことの大切さを道は言っている。

無理に蓋をした気持ちって、いつか必ず爆発する時がある。だってその気持ちをもった自分を否定していたのだから。誰かにとって普通なことが自分にとって普通でなくても当たり前だ。

そんなことわかっているはずなのに、なぜだか自分の気持ちよりも周りの声を気にしてしまうことが多い。本当になぜなのだろう。道のように言えないからこそ、私はこの文章に引き止められたのだと思う。

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「羽衣子にとっての『特別』とか『ふつう』は、ただひとりの特別な人間と、同じようなその他大勢の人ってことなのかもしれん。けどぼくにとってはひとりひとりが違う状態が『ふつう』なんや。羽衣子はこの世にひとりしかおらんのやから、どこにでもおるわけがない」

羽衣子は道が自分を貫き通せることに嫉妬していた。いつも道と比較されるから、羽衣子は「何か自分にしかない『特別』があるはず」と思い続けてきた。

でも道からすれば、みんなが違うことが「普通」。似たような集団から抜きん出たから「特別」というわけではなくて、そもそもみんなが違うことが当たり前なのだ。

私は教員時代に子供たちによく話していたことがある。

全く同じ顔の人がいないように、考え方だってひとりひとり違う。だから、違いを受け入れることや相手の気持ちを想像することが大切なんだよ。

こんなことを言っておきながら、私だって「普通」から外れてしまうことを今でも恐れている。表向きにはこう言っているのに、道のような子供がいたら集団に馴染むように指導してきてしまった。

社会で生きていく中で、みんなで守るルールは必要だと思う。それは傷つけたり悲しませたりする人を作らないということが前提になっているはず。

だからといって自分を押し殺す必要はない。みんなと同じことが正義、と思っているうちに自分がわからなくなってしまうことがあるのかもしれない。

どんなことを考えても行動しても、自分が思った通りなら本来はいいはずだ。誰かを悲しませるのでなければ。

特別さを求め続けた羽衣子だったが、この道の一言できっと何かが変わったのではないかと思った。

*  *  *

最後は道が何度も勝手に置いた「骨壷あります」の看板を羽衣子が受け入れるのが、微笑ましかった。

特別さとか、個性とかを探さなくてもきっともうみんな自分らしさを持っている。

私は道より羽衣子に似ている。集団から外れないよう常に生きてきた。道に憧れるような気持ちもある。でも誰かを目指そうとかするんじゃなくて、ただ自分のままでいればそれだけでもう特別なんだ。

もっともっと私も自分のままで、我がままで、あり続けよう。


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