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漂流する現代アートは先端を極めるべきか、裾野を広げるべきか

朝目が覚めたら、快晴の青空が目に入ってきた。早めに休んだので、身体が軽い。洗濯物を済ませて、朝の支度で大渋滞のホステルのバスルームでなんとか身支度を整えると、ドクメンタ カッセルで4つあるメイン会場のうち、まだ訪れられていなかったノイエ・ガレリーに向かった。

入り口ではパフォーマーが迎えてくれる。

彼女が紹介しているのは、黒色の石鹸。ノイエ・ノイエ・ガレリーでも展示されていたものだ。石鹸作りをアテネの企業や市民と協力しながら行ったこと、単に製品を製造するのではなく、世代を超えて受け継がれてきた石鹸作りの技術を継承することこそがプロジェクトの趣旨であることを、訪れる人に丁寧に伝えていた。彼女は韓国人のパフォーマーで、ちゃんと謝礼をもらってこの・プロジェクトに参画しているそう。石鹸はその場で彼女から購入することもできる。

アート・プロジェクトの最終的なアウトプットが、石鹸のようなプロダクトだった場合、企業がプロダクトを製造することとアート・プロジェクトの差をどうやって観客に認識してもらうかを課題に感じることも多いが、こうしてパフォーマーが丁寧に口頭で伝えるやり方もあるのだと新鮮だった。

その他、あちこちと移動しながら作品を鑑賞するが、もう何をどこで観たのか、記憶がほとんどごちゃごちゃになってきている。

びっくりしたのは、かつてセックスワーカーだったANNIE SPRINKLE の作品。

女性なら覚えがある、婦人科検診の際に使用される子宮を観察するためのあの医療器具の穴から見えるのは、ANNIE SPRINKLEによるパフォーマンスの様子だ。なんと彼女はこの医療器具を使用して自らの子宮を観客に見せているのだ。オノ・ヨーコといい、マリーナ・アブラモビッチといい、なぜ女性アーティストはこうして自らの肉体を無防備に観客の前に投げ出してしまうんだろうと呆れながらも、衝撃は大きかった。

作品をきっかけに発想が飛躍し、産み育てる女性と社会について考えた。ここ最近の日本社会では、小さな子の子育て中のママをフレシキブルな雇用形態で就労してもらう取り組みが少しづつ始まっている。家事労働が実は年間一千万程度の価値があると試算されたりして、女性たちの献身ぶりと社会的価値が可視化されてきた。一連の出来事について、女性の立場がどんどん有利になってきているみたいな見方もできるけれど、私にしてみたら大きな傷に絆創膏を張っているようなもんだ。家事労働を金銭価値換算するならば、「人間を産んで育てる」という女性にしかほぼ不可能な出産と出産にまつわる行為について金銭価値換算してみればいい。どんなにママたちがフレシキブルな雇用形態の恩恵を受けていようと、まだまだ焼け石に水。妊娠出産のために職を辞して収入ががくんと減ったり、出産に費用がかかって貧しくなってしまうというのは、本質的、根源的に、おかしな社会だってことだ。だって、人はひとりで生まれてきたんじゃない。

アートに触れると、普段は心の奥底で眠っている社会への違和感が、こうして浮かび上がってくるのがまた、アートの面白い作用である。

現在は使われていない地下プラットフォームを会場に利用していて、場所のアウラがすごい。これは格好良かった。

しかし、映像作品が多くて、とにかく鑑賞に時間がかかる。

TERRE THAEMLITZが川崎で制作した《Lovebomb/愛の爆弾》という映像作品もなかなかにエッジがきいていた。愛が暴力を正当化したり、愛という言葉の美しさや抽象性によって、我々は社会的に統制されていたりするんだというようなことがメッセージとして漏れ出て来ていた(いろいろ言いたいことがあるようで、なにも愛のことだけが作中で問題視されていたのではないんだけれども)。

展示会場がオープンする朝10時から、クローズする午後20時まで、またもすごい数の作品を観続けて、だんだんと浮かび上がってきたのが、2017年現在のドクメンタの立ち位置だった。

ドクメンタ カッセルで観る表現には、フェミニズム、LGBTや特定の性的志向を扱ったもの、周縁世界や植民地支配とその影響、民族や地域のアイデンティティ、貧困、戦争の記憶と歴史、などなどがある。

実はこうした表現は、何もドクメンタだけで観られるものではなく、実は現代アートのテーマとしても社会的なテーマとしても、どの社会でも重要視されていることである。個々の作品は素晴らしいものだが、総体としてみると、各テーマはすでに様々な方法で表現され続けているし、なにかそこに特殊なものを期待したり、さらに表現を先鋭化させたりする必要性は感じない。

一方でドクメンタ開始当初の「ナチスの負の歴史をぬぐう」という命題については今もドクメンタらしい表現として取り扱われ続けている。が、実はここにも、2017年現在にもその命題に取り組むことに疑問が持ち上がる。70年前の戦争よりも、そろそろ次に起こるかもしれない戦争を心配した方がいいタイミングだ。

端的にいうとドクメンタを行う意味が、改めて問われているということなんだろうと思う。だからこそ、今回のドクメンタでは「アテネから学ぶ」とテーマを立て、先鋭化されすぎたあり方の裾野や視野を、古代からの遺産と現在の経済的な危機の双方を併せ持つアテネの有様を取り込むことで広げているのではないだろうか。

日本の現代アート界の特殊さや課題にばかり目が向いてはいたが、ドクメンタを通じて見えてくる「現代アートが抱える課題」については、何処にも同じく存在しているものだと共通点を体感できた。現代アートの船にうっかり乗り込んでしまった我々は、いまちょっと漂流気味なんだろうと思う。

22時に訪れる夕闇を待って、《The Parthenon of Books》を観にでかけた。

日中は軽やかで宙に浮いてしまいそうな希薄なボリュームが魅力に感じていたが、夕闇が訪れて周囲が少しづつ暗くなっていくと、作品はどっしりとした重量感や存在感を強めていった。

夏の間は、1日のうちのほとんどが明るい日差しに包まれるカッセルで、帰り道に輝くネオンを眺められたたのも心楽しかった。ネオンを反射するトラムのレールが、なんだか綺麗。







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