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アテネとミュンスターで突きつけられたのは、世界情勢や世界のアート情報が圧倒的に不足している日本と、からっぽな自分。

5年に一度、世界から人を集める国際大規模展覧会ドクメンタを開催しているカッセルまでは、ミュンスターから鉄道で3時間弱だ。昼過ぎにカッセルに到着すると、駅前にドクメンタの展示らしきものがあり、駅にもドクメンタ14の開催を示す大きなポスターがあった。マップを手に移動するドクメンタ詣での人も多く見かける。

アテネでのドクメンタ、ミュンスターでの彫刻プロジェクトと、国際大規模展をめぐってきたが、カッセルが最も展覧会に街が活気付いている。しかし、アテネやミュンスターと比べると、街がなんとなく物騒な感じがして落ち着かない。

荷物を解いて、ホステル近くにあるドクメンタ カッセルのメイン会場のひとつノイエ・ノイエ・ガレリーに出かけてマップと2日間のチケット、それにツアーの予約をした。

インフォメーション&公式グッズショップでスタッフに相談しながら必要なものを買いそろえたり、ツアーの予約ができる。

この日は、ホステルで洗濯や料理をしながら、のんびり過ごすことにした。刺激の多い旅なので、休息も必要だ。暇にまかせて、ミュンスターで購入した図録を読み込むことにした。

図録を眺めるのは、鑑賞体験の答え合わせのようで楽しい。観られなかった作品の写真を見つけたら悔しいし、観てきた作品の制作過程やコンセプトを深く読み込んで、鑑賞時に湧き出たイメージと何がどう違うか、理由は何かを考えてみたりする。

衝撃の事実だったのが、昨日のnoteに掲載した芝生にぽつんと置かれた椅子だが、ミュンスター彫刻プロジェクトの作品ではなかったこと。これには、我ながら爆笑してしまった。なんでもアートに見えてしまうんなら、それはそれで、楽しい現象だ。

思いついてFacebookでシェアしておいた小崎哲哉氏のニューズウィークでの連載記事も読んだ。

「現代アートのプレイヤーたち 終章 現代アートの現状と未来」

アート界の端っこに身を置いている自分としては心に刺さる記事だ。小崎氏は日本のアート界は世界から取り残されようとしているし、世界のアート事情に精通している人も少ない。原因は圧倒的な情報不足であるし、その情報とはアートワールドのみならず、世界情勢に対してもいえる、と、記事を締めくくっている。

そう、アテネでもミュンスターでも感じてきたことだが、西洋の文脈の中でいま日々生み出されている作品が何を語り出そうとしているのか、存分に汲み取れるだけの知識や経験を、自分は持っていない。世界の情勢もわかってないし、批評も日本語に翻訳されたものしか読んでいない。そう、英語ぐらいは読みこなしていなければ、もはや付いていけない状況が存在しているのだ。

ナカヤマン氏がヴォーグに寄せた、ドクメンタ アテネのレポート記事「5年に一度の「ドクメンタ14」から見えた、魅力的作品とギリシャの現実。」では、ナカヤマン氏の「正直に言うが、ボクはこのドクメンタに関しては、必死にググりながら見ることになった。それと同時に恥ずかしくなった。自分が如何に世界と繋がっていなかったのかと。」という独白があるだが、もう全く自分もその通りですと、白旗を揚げずにはおられない。

いま、自分は日本のアート界にどう貢献できるんだろうか。深い問いが持ち上がってくる。

自分自身はそこまで研究熱心ではないので、批評を書くのはちょっとハードルが高い。英語の読み書きも苦手。しかしこうして1人で欧州まで、大規模国際展を観るためだけに1ヶ月の旅にぽーんと飛び出してしまうくらいには、情熱と行動力はある。簡単にいうとミーハーなのだし、人一倍のアートラバーなのだ。

そんな私が、何をどうすれば、もっと、世界のアートの情報を日本に届けられるんだろうか。

アテネにはアジア人自体が少なかった。ミュンスターで会うアジア人はほとんど韓国人で少し中国の人がいた。カッセルでは同様に韓国と中国の人が多くミュンスターよりは割合が増え、ようやく日本人の姿も見かけた。さらに様子を伺っていると韓国の人々はアートのスペシャリストだけでなく、「瀬戸内国際芸術祭特集のオズマガジンを読んだので、アートをめぐっています」というくらいに、”ライト”な観客、例えば若い女性グループなどを散見した。想像するに、日本よりはずっと欧州のアート事情がポピュラーなのだろう。

日本のアート界は世界の中でガラパゴス化しているとはよくいわれるが、目の前に突きつけられると、ぐうの音も出ない。


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