31.退屈さを受け入れて『ただ感じる』ということ
愛しいあなたへ。こんにには。
沈黙や退屈を受け入れるようにしていると、静けさの中で無意識下にあった想いこみが湧き上がってくることがあります。
実は9月に入り、自室のコンポのCD部分が壊れる、10年以上使っていたMacBookのアダプターが不調になる、と続いていました。
時々FMラジオは聞くけれど、それ以外で自室にいるときは、図書館で借りてきた本を読む、非二元系YouTubeを見てノートをとる、そのノートを読み返す、瞑想をする、感覚ワークをする、絵を描く、みたいな感じで、日常の音だけが聞こえる静けさの中にいるしかなかったんです。
この静けさが「退屈」でもありました。その「退屈」を感じるのも、左脳的には嫌なのですよね〜。あえてその退屈を感じてみることをしました。
すると出てくる出てくる、無価値観たちが。
奥の奥の方にしまい込んでいた「〜なわたしは存在してはいけない」のオンパレード。正直感じてると痛いときも切ないときもあります。
ただ感じながら徐々に眺められるようになってくると、その奥から「大きな視点から観た自分」の姿が湧き上がるようにもなってきます。「あぁ、こんな自分も愛おしいじゃないか」と涙が溢れてくるんです。
このときに大切なのは、他者や出来事を入れず『感じ・感覚だけを感じる』ということ。
深掘りもしなくていいし、ブロック外しみたいなのも一切しなくていい。湧き上がってきたものを感じる。
わたしたちは、この『ただ感じる』ことをこれまでの人生で教わってきていないので、非常に苦手なんですよね。わたしもそうだったし、今でも避けたくなることはあります。
それでも感じていくと、生命そのものの温もりのようなものに辿り着きます。そこを体験していくうちに、感じることの大切さに氣づいていきます。
わたし自身、この大切さを知る以前は色んなセラピーなどしてきたけれど、これは左脳さんに栄養をあげてしまう方法だったと知ってから、感じることに意識を向けています。
この『感じ方』について、一緒にお話ししたり体感できる場を創れたらいいなぁ・・なんて想いが、少しずつ湧いてきています。
『静けさの中で、自分の内側をただ感じること』
このことの大切さに氣づいた頃に、古いMacのアダプターが本当に動かなくなりました。
仕事の流れが停滞してる状況の中で、前のわたしだったら、どうしたらいいだろうとオロオロとして一人で泣いていただろうなぁ・・・。(そんなわたしも経験として必要だったのですが)
今回はアダプターの不調に氣づいたあとに、パソコンに強い叔父に使ってないパソコンはない?と電話をしたら、新古品を買ってやろうか?と言われていたのですが、改めて電話をしたところ「iPadが欲しいと言っていたから、電機屋に見に行ってきた。本体の色は何色がいい?」とのこと。iPadを買って送って貰えることに。
これで少し生活の中に「音の彩り」が戻ってくるかもしれません。