見出し画像

【連載】随想録 第5回「わずかな可能性を信じてウルトラソウルな受験勉強」 - ほぼ月刊「庄内わぐわぐ随想録」

高校卒業までは「何も無い」田舎だと思っていた酒田を飛び出して上京した少年が、38歳となる年に自らUターンし「わぐわぐ」が溢れる日々に至るまでのストーリー。今回は高校時代の大学受験の話です。

酒田東高等学校までの通学はもっぱらチャリ(自転車)でした。漆曽根の実家から高校までの約6kmを40分ほど漕いで毎日通っておったわけです。庄内平野の田園風景が広がる道を通るため、庄内特有の西からの強風が吹くとチャリがほとんど進まなくなるという現象がたびたび発生いたしました。我々のような農村集落から「チャリ通」で通う高校生にとっては、「強い向かい風」が、至極真っ当な遅刻の理由として認められるほどだったのです。

陸上部の部活動を高校3年の春に引退した私は、中学生の時に始めたギターで作曲をしたり、私が提案した「現実逃避の宴」というテーマが採用された(そのテーマがあまりに後ろ向きではないかと一部の教師の間で物議を醸した)高校の文化祭で、同学年の男子達と一緒に組んだブランキー・ジェット・シティのコピーバンド「REDBERRY JAM」でライブをするなどしながら、大学進学を目指し受験勉強の期間に入ります。

私は三兄妹の一番上だったため、両親からは、学費の負担が私立よりも比較的少ない国公立の大学に入って欲しいという切実なる思いを吐露されておりました。そして、岩手大学工学部出身の父親からは、「大学は楽しいぞ~」と言い聞かされ続けて育ちました。父は、大学と学生寮の居心地が良すぎて、院に進むでもないのに6年間も学部生をして卒業したそうです。その話を聞いて、まずは私も大学生になりたいという思いがありました。そして私は、中学時代のB’zとの出会いを経て生まれたミュージシャンになりたいという淡い夢に近づくために、とにかく一刻も早く、清水屋しか放課後に行く場所が無い(と思っていた)酒田を出て東京に行きたいという強烈な憧れから、都内の国公立大学を目指します。そこで第一志望に設定したのは、一橋大学でした。

なぜ一橋だったのかというと、そのきっかけとなったのは、私が小学生の頃に大好きだった、山形放送など日本テレビ系列で放送されていた番組「アメリカ横断ウルトラクイズ」。1991年の第15回で優勝した、穏やかで知性と人情味あふれる能勢一幸(のせ・かずゆき)さんというクイズ王が、一橋大学出身だったのです。その時から、何となくその一橋(ひとつばし)という字面と響きへの憧れの思いを、高校まで「ゆる~ぐ」抱いていたものでした。

しかし、部活引退までは高校のテストで学年100番台前後をうろうろしていた私は、夏になっても一橋大学の合格可能性は限りなく0%に近い「E判定」。高校の進路指導部長をしていた女性英語教師(古参の名先生)からは、「あの子は2年計画なんでしょ?」(つまり、現役では受かりっこない)と言われる始末。その言葉を人づてに聞いたことが私の闘争心に火を点け(それこそが、その先生の狙いであり策略だったのかも知れません)、「追い込みの酒東」を体現すべく受験勉強に精魂を注ぐ日々が始まります。酒田東高校の私の学年(第74回、1999年卒)では、三者面談で担任の先生に厳しいことを言われた生徒達が志望校の目標を下げたからか、東京大学、京都大学の志望者が1人もいなくなり、私が志望した一橋大学社会学部が最も難関でした。

私は、「眠い時は寝る!」という基本方針のもと、平日は夜21時には寝て早朝3時に起床し、登校までの3~4時間勉強するという毎日を送っておりました。徹夜で眠い状態で勉強するよりも、早朝に勉強して学校に向かう方が、記憶も定着して効果的だったのかもしれません。休日は酒田市総合文化センターに当時あった自習室に一日中篭もり、約10時間に渡り勉学に励むこともありました。また、新しい問題集にやみくもに手を出すよりは、解説が充実している分厚い問題集を購入して何度も繰り返し解き、2回目以降は間違った問題のみ取り組むという方式で日々勉強しておりました。その結果、分からなかった問題が解けるようになる喜びから、ゲームのレベル上げのような感覚になって勉強が面白くなり、早朝勉強の習慣の効果もあったのか急激に学力が向上。雪が降り始める初冬頃からは酒東のテストや模試で何度か学年1位を獲るまでになり、センター試験(現在の共通テスト)終了時点で、一橋大学の合格可能性は40%~60%の「C判定」まで上昇します。

私立大で初っ端に受験した立教大学に合格した私は、親の願いは蔑ろに、すっかり立教大生になる心づもりになっておりました。というのも、私立大で他に受験した早稲田大、明治大、青山学院大は全て不合格だったのです。一橋大の前期試験の直前にはすっかり記念受験をするぐらいの気持ちに成り下がり、赤本での対策はさておき、酒東陸上部の文集用に「魅せる走り」のラストスパートの極意も含めた原稿用紙50枚にも及ぶ長文を書いておりました。しかしそれが逆に文章力の鍛錬となり、全て記述式の一橋大学の試験に功を奏したのか、高校の同学年の生徒や先生方の誰もが(そして自分すら)予想していなかった、現役合格を果たしてしまいます。当初は私よりも成績が良かった100人以上の酒東生を差し置いて、陸上と同じくラストスパートで謎の番狂わせを起こしてしまう結果となったわけです。それは今思うと単純に、凡庸だった私が学年で一番高い目標を設定し、出発点では1%にも満たなかった可能性を「できる」(かもしれない)と信じ切ることができたからという理由に他なりません。そして、そのゴールに向かって全力のパワープレー的な大勝負を超短期間で挑んだ結果、それがたまたま成功裏に終わった、というだけのように思います。

1999年3月1日、酒田東高校の卒業式の朝。
実家の玄関前で撮影された阿部彩人の写真。

学年で240人ほどいた酒東生にも同じように広がっていたはずの大海原の中、東大、京大に挑戦する選択をして努力すれば合格する可能性があった人は、必ずいたはずです。出発点の段階では、「できる」(かもしれない)と信じるか、「できない」と諦めてしまうかのごくわずかな差しかなかったわけですが、「できない」と閉ざしてしまった時点で、可能性は永遠に0%になってしまいます。「できる」(かもしれない)と信じた時点では、1%にも満たないかもしれませんが、その大海原へと出港する選択をしてみるということが大事だと思います。その可能性は、やり方と努力次第で最終的に100%まで広げることができる(かもしれない)のです。もちろん、1、2年生の頃から計画的に勉強していれば、受験前に無理をする必要はなかったわけなので、私のような短期決戦的なやり方は、現代の受験生の皆さんにはあまりお勧めいたしません。

野球の大谷翔平選手が投手と野手の二刀流をプロ野球とMLBで実現することができたのは、当時のドラフト会議で、日本ハムファイターズの監督だった栗山監督が二刀流を「できる」と信じて大谷選手を指名し、その可能性を大谷選手が信じ切って努力を積み重ねることができたからです。

今を生きる全世代の皆さんには、まずは、自分が「わぐわぐ」できるような目標を設定することをお勧めします。それに向けて(できれば早めの段階から)努力することは誰にも迷惑をかけませんし、目標は最終段階で変更することも可能です。最終的に目標まで届かなかったとしても、自分自身が「わぐわぐ」しない目標を設定した場合よりも、到達地点は恐らく高くなるはずです。

2022年、酒田市内の小学校での講義で「できる」と「できない」の差の小ささについて話す阿部彩人。

また、高3の夏休みまでの間に、実際に志望校の現地を見に行くこともお勧めです。より具体的に入学後の姿をイメージすることは、想像とのギャップを埋めるとともに、受験勉強に取り組む気持ちを強くすることにつながります。私の場合も、高2から高3になる春休みに首都圏の国公立大学の志望校候補で横浜国立大学や東京都立大学を見学しに行きましたが、実際に行ってみると都心からかなり離れているイメージがあったため、やはり一橋大学に入りたいという思いを新たにすることにつながりました。

高校入学当初は部活も学力も平々凡々だった私ですが、とにかく田舎を出たいという強烈なる初期衝動をウルトラソウルな受験勉強で結実させた結果、大学進学とともに上京することに成功します。次回は、離れてみて初めて庄内の魅力に気付いた大学時代の話をしますので、お楽しみにの~。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?