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〜♪♪
ギターとベースが効いた着信音で目が覚める。朝か。そして電話か。寝ぼけたまま目を擦り、電話の向こうが誰なのか確認しないまま、無意識に緑の着信ボタンを押す。

「もしもしー。あんた昨日どうだったー?初めての大学。やっぱり私大は綺麗なの?広いの?」

こっちは寝起きだと言うのに、電話の向こうは容赦なくハイテンションな声で質問してきた。高校の時仲が良かった友達の紗月だった。

「あー。おはよ。さつきか。さつきの電話で起きれたよ、あんがと。大学は知らん。昨日はオリエンテーション自由参加だったからサボった。とりあえず桜の木がすげぇのと、先輩の勧誘うるさかった。」

「あちゃー、さすが、興味のないことにはとことん興味無いねー!高校の時から変わってないね。そんなに桜あるんだ!いいなー行きたーい。」

あー、いいなー、第1志望だもんなぁ、紗月は。心に余裕があるし、やりたいことをこれでやっとできるって環境なんだもんなぁ。いいよなぁ。
紗月は元々頭も良くて、高校では常にトップ10に入る成績をおさめていた。なんでも医者になりたいとか言って、めちゃめちゃ物理やら化学やら数学やらやってたし、将来は英語の論文も読み書きしなきゃなんだから!って言って意気込んで英語も馬鹿みたいにやってた。私が馬鹿みたいに美術室に立てこもったり絵を描くのと一緒で、紗月も夢を叶えるために馬鹿みたいに勉強してたんだ。その結果が実っただけだ。羨んだりしちゃいけないね。

成功した人を羨ましく思う自分に少し嫌気がさした。紗月の大学の様子も聞きつつ、なんだかんだで目を覚ますことが出来たが、まだ少し寒くて布団から出たくない。そのまま布団にくるまりながら、他愛もない話をして、気付いたら10時半になっていた。さすがにお腹も減ったし、いい加減電話も切ろうと思って、頭を枕から剥がし、布団をばさっと体から剥ぎ取って、重たい腰をやっとの思いで起こした。
朝ごはんを作るのがどうも面倒くさくて、コーンフレークと粉末のかぼちゃスープにお湯を注ぐだけの、適当なもので済ませてしまった。一人暮らし2日目にしてこれとは。この先が思いやられる。一人で食べるコーンフレークはどこか味気なくて、かぼちゃスープもただただ熱くて甘いだけで、部屋にはコーンフレークを噛むシャキシャキした音と、スープを飲み込む音しか聞こえない。朝なのに夜みたいに寂しい食事だった。早くもホームシック?まさかね。私は1人の生活を楽しんでやるのよ。大学出てやるのよ。気持ちを無理やり奮い立たせて、頬を両手でバチンと叩いて、食事の後片付けに取り掛かった。

片付けが終わって、ふと机を見てみる。昨日描いた絵がそのまま無造作に置かれていた。そうだ、私昨日夢中でずっと絵を描いていて…。改めて自分の絵を見ると、あの時の記憶とは程遠いような質感、ただの模写のような、何も感じられない無機質な作品に変わっていた。なんかこう、インパクトがない。何かが足りない、伝わらない。あの時の記憶をそのまま写しただけなのに、何がダメなんだろう。無意識に絵のことを考えて、再び鉛筆を握って、ああじゃない、こうじゃないと修正を加えていく。時計の針の音なんてもう聞こえない。日陰の向きが変わるなんて気づいてない。また、絵に没頭してしまった。

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相変わらずここの桜は凄い。小学校の時から、桜の多さには毎年驚かされていた。小、中、高と、この大学のある通りは通学路になっていた。たまたまだけど。
やりたいこともなく、夢もなく、ただ何となく生きて、何となく家からさほど遠くない高校に進学し、そして近くの大学に進学した。志望動機なんて特にない。家から近いから、それだけ。そして偏差値も高くないから、別にそんな勉強しなくても入れるし、大学を出ればそれなりに就職先は見つかるだろうと思った。必死に夢を追いかけて受験に立ち向かうみんなが羨ましかった。やりたいことも無くて、ただ本が好きだからってだけで文学部に行こうと決めて、指定校推薦枠でここを受けて、そして受かった。受験は団体戦だ、みんなで一致団結して合格を目指そう。そんな先生の熱血的な指導は、耳にタコができるくらい聞かされたし、そしてその度に右から左に流してきた。俺にそんな情熱はない。情熱かけてるみんなが羨ましい。やりたいことがあるみんなが、羨ましい。
今日は自由参加のオリエンテーションだっけか。興味無いな。シラバス見れば、どの授業を取ればいいのか大体検討がつく。だから別に改まって先生に頭下げながら話聞く必要性を感じない。でもまぁ、新入生の雰囲気ってものを味わっておこうか。それだけの動機で俺は大学に足を踏み入れた。
相変わらず桜が綺麗だった。ここの桜は何年も見たけど飽きない。白いカーテンがかかっているかのようで、本当に綺麗だ。小説の舞台にでもしてしまえばいいのに。映画の撮影にも使えばいいのに。毎年同じことを思ってしまう。そのくらい桜の規模がでかい。

門をくぐると早速、サークル勧誘の先輩がゴミのようにいた。うっせー。俺は特にやりたいことも無い、興味が無い。サークル活動するためにここに来た訳でもないんだから。周りを見れば、少し引き気味で両手にチラシを何枚も抱えている女の子、入ります!と宣言して届出を早速書いている男の子、両耳にイヤホンをさしながら完全に無視して歩いている女の子もいて、こーゆーのって大学なんだなぁと、漠然と感じた。色んな人が色んなところから集まってくる。少し面白いな。俺のキャンパスライフは少し楽しめるかもしれない。そんな希望をひと握り持ちながら、勧誘を無視し、静かな所へと足を速めた。

先輩の並が途切れ、桜並木だけの場所がやっと訪れた。ここで少し休憩しよう。耳が疲れた。そう思って俺は、ズボンのポケットに入れていた文庫本を取り出した。川上弘美の、『離さない』。高校の現代文の教科書で読んで、初めて教科書の文が面白いと思った作品だった。人魚なのに狂気的。依存性と中毒性にとても惹き込まれた。授業を無視して読んでしまうくらい、この作品が大好きになった。だから本も買ってしまった。同じ文章なのに、もっと読みたくて、自由に読みたくて、文庫本を買ってしまった。この作品は何周目だろうか。 話の展開はもう分かっているのに、ハラハラして、ドキドキして、分かっているのに惹き込まれる。本当に依存させられてしまう。この感覚がたまらない。
いつかこの桜の下で、ずっとこの本を読みたいと思っていた。大学生活初日にしてこの夢が叶うなんて思わなかった。幸せなひとときだ。今きっと俺の顔はにやけている。気持ち悪い顔をしている。そうに違いない。でも、他人からどう見られているかなんて気にしていられない程に、俺はまたこの作品の中に入っていってしまう。春の柔らかい風と、桜の甘い香りが心地よい。俺は本の中にすっかり入ってしまった。

突然、ザッと、足音がした。現実に戻ってきたみたいだ。顔を上げると、両耳にイヤホンをしていたさっきの女の子が、勢いよく走って去っていくところだった。あの子もこの勧誘のうるささに耐えられなかったのかな。それにしてもなんで走っていったんだろう。まさか本を読んでる俺の顔が気持ち悪すぎたのか!?えっ、俺、引かれた!?知らない人に、早速引かれた?めちゃめちゃショックだ。ここで本を読む夢は、今日で終わりにしなければいけないっぽい。ちょっと残念な気持ち、いや、かなり残念な気持ちで、俺はとぼとぼと、裏から大学を出た。

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