地獄とは他人のことである

人は情け深く、公正で善良である。他人のために涙を流し、そうした涙がまた人に喜びをもたらす。物語をこしらえてはそれに涙する。それは物語がアンリアルなイデアだからである。私達が生きる現象界には物語のような損得を越えた友情も愛情も存在しない。人は倫理の仮面を被り、八方美人な振る舞いをする。それは義務感と超自我から出発した振る舞いであり、良心や善意からではない。人は自己保身のために好きでもない他人にヘラヘラと愛想笑いを振りまく。それは偽りであり、打算的で見返りを期待しての行為である。リアルな人間はフィクションのように内発的な動機から友好は生まれない。それは事なきを得るための外発的な行為でしかなく、現実の人間関係に常に疲弊している。フィクションで描かれる有りもしない友愛のイデアで自分を慰め、現実もこうであればと夢想する。ここには親愛も友愛も存在しない。だからこそ人はフィクションに歓喜し涙するのだ。芸術なんて嘘っぱちだと言ったルソーは正しかった。人は仮面を被り偽りの自己でしか触れ合えない。いつかこの仮面が剥がれる日を心待ちにしながら気色の悪い愛想笑いで偽りの愛を与え、そして受け取る。偽りの自己を演じているからいつまで経っても心は満たされない。この現実は楽園へ至る前の煉獄であると思い奮闘するが、他人が地獄であることに気付けずにいる。地獄とは他人のことである。人間は自他の境界が付かない乳飲み子のときは楽園にいたが、精神発達によって人間は他者の存在を認識してしまった。地獄はそこから始まっていたのだ。生の世界は天国と地獄の中間だと思われているが、此岸こそが地獄であったのだ。ここから抜け出すには孤独になるしかない。無人島に辿り着いたとき、人は天国に行けるのだ。無人島に行けない人間は絶え間ない地獄の中で他人を喰らい、殺して延命するしか道はない。永遠の闘争に身を投じて生存と束の間の安寧のために他人を食べ続けるしかない。

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