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致死量の悔恨 第3話 結婚式の前に(下)

桜子の胸の奥からは、おばあちゃんとの思い出が、赤い景色の中に湧き上がった。一緒にお好み焼きを焼いたこと。
「桜子は卵をかき混ぜるのが上手ねぇ。」
と、指示をするわけではなく、ただ桜子のやり方を尊重してずっと横で見ていてくれた。
部活帰り、遅い時間になると偶然、スーパーの前で鉢合わせる。
「お味噌が足りなくて。」
と笑うおばあちゃんと一緒に帰ったなぁ。
桜子は、それでも自分がカゴとなり、良太郎を外敵から守るには、「おばあちゃんが死んだ」との嘘は仕方なかったと思うことにした。そして、口に溜まった唾を飲み込み、無念な思いを胃の中に納めた。

ふと、「芽衣にはバレているだろうか。」とも思った。いや、あの子はバカだからバレていないと思うことにした。

桜子は、おばあちゃんが亡くなったのは、年だから仕方ないと思うことにした。既に90歳を超え、お小遣いを渡すくらいしか役割がない存在であったのに、桜子自身がお小遣いを必要としなくなったのだから、居なくても同じだよ。というか、既に桜子の世界の中には祖母は居なかった。だから、要らなかった。と思い直した。
「良太郎の世話があるから帰れない。御霊前と電報送るね。」
桜子は、母親にそれだけを伝え、電話を切った。桜子の母は、心を失った娘に返す言葉はなかった。

まだ4月だというのに、ドレスの中に暑さが籠もる。背中からじんわりと汗が滴る。歩くうちに、つい先程まで感じていた楽しかったとの気持ちは消えて、良太郎のことで頭がいっぱいになる。
良太郎は私の下において置かなければならない。いつの間にか、桜子は、夫が桜子を自分の檻に入れたように、良太郎を自分の檻に入れていた。
自分以外の人間の価値観に触れないように。

早足で帰路に向かう足は、躊躇なく桜の花びらたちを踏みつけていた。

「良太郎!」
家に入るや否や、桜子は良太郎を抱きしめる。夫、有太が触れた形跡を、自分の身体で消したいと思ったのだ。
「お帰り。急になんだよ?」
良太郎を膝の上から奪われた有太は、強引な桜子に苛立ちを隠せない。桜子は、有太が居なくなってくれたら良いのにと思い、冷たい視線だけを返した。「良太郎、大丈夫?」
頭を撫でながら、良太郎を見る。良太郎は、
「パパもママのこと、嫌いだって。」
と言って、桜子の膝から下りた。桜子は、有太の思いには全く関心がない。ただ、良太郎が膝から下りたことがさみしくて、後ろから抱きしめた。

「おばあさん、亡くなったって、僕にも電話が来た。電報と花を連名で送っとくように。くれぐれも頭は僕の名前で。」
有太は、スマートフォンを見ながら、背中で桜子に伝えた。桜子も、
「はあ。」
と、背中で返した。良太郎を囲うのではなく、有太を檻に入れることが出来たら良いのに。有太から逃げるために、結婚当初、芽衣に言った、「有太は入院しているから、気兼ねなく遊んで。」との自分の言葉を思い出した。本当にそうなってくれでもしたら。

「入院してよ。」

と小さな声で呟いたあと、桜子は良太郎を一層強く抱きしめた。良太郎で胸をいっぱいにすることで、有太を消し去りたかった。

翌日、表面的には哀しみを現そうと、桜子は黒い服で良太郎を見送った。この日は、
「土砂降りだから。」
と珍しく有太が良太郎を車で幼稚園に送ることにしたのだった。この時の桜子はもう祖母のことは完全に頭から引き離し、忘れることにしていた。
桜子は2人に踵を返し、ふと、ポストを覗くと、「お車代」と書かれた封筒があった。芽衣からだった。桜子は、
「うまく騙せた。」
と思う反面、これは詐欺にならないか、怖くなった。だから、開けずに鞄に入れる。そして、機嫌良く部屋に戻って行った。芽衣を恨むことで日頃のストレスから解放されようとしていたが、本音は久しぶりに同年代の女性と話をして楽しかったのだった。そのためか、有太が良太郎を車で送ることにも苛立ちはなかった。

有太は、苛立っていた。雨音が心の中に刻むイライラと相まって、ザァーザァーと内外から響く。

桜子が良太郎を束縛することも、日頃から「おかしい」「卑怯な奴」等と強い口調で有太を罵ることも、良太郎の人を欺く目つきが桜子に似ていることも、ストレスとして体に蓄積されていたのだ。直視できない良太郎の目を、バッグミラー越しに覗き込む。

バックミラーに写った良太郎があたかも桜子に見え、有太は思わずブレーキを踏んでしまった。

一瞬、ドンといって、良太郎の手からおもちゃが落ちた。道路が川の様に水浸しだったため、ブレーキによって車がスリップし、前輪を軸として回転したのだ。しかし回転だけでは収まらず、タイヤが石か何か固いものを弾き、フロントガラスに直撃した。

有太は思い切りブレーキを踏んだが、止まらず粉々になったガラスを浴びた。

後部座席から、桜子に似た低音の悲鳴が響いたが、それ以降、有太の記憶はない。気がついた時には病院のベッドだった。

2人が保育園に向かって、僅か1時間後、桜子は病院に呼ばれた。桜子の頭の中は、粉吹雪が舞うように真っ白になっていった。しかし、それは悲しみや後悔によるものではない。理想と現実の乖離を埋めるため、無意識のうちに吐くようになってしまった嘘が真実になっていく恐ろしさからであった。そうだとしても嘘によって現実が良い方向に向かっているなら、大丈夫と思うことにした。

有太は肋骨骨折、顔面骨折の大怪我をしていたが、良太郎は無傷だった。

病院のベッドで包帯でグルグル巻になり、全く動かない有太を見ていると、「病めるときも」と永遠の愛を誓った相手であることをふと思い出した。ゆっくりとバージンロードを歩き、ヴェールを外す時の愛おしいそうな笑顔、ケーキカットの時に回された腕から感じた温かさ。無口な患者は、その相手であったが、桜子には別人に見えた。それは包帯のせいだけではないだろう。

「この先、この人のパートナーでいることは出来ない。しかし、今、手放すことも出来ない。そうなら、大怪我は、都合が良かった。人生が良い方向に向いている。」と桜子は解釈した。そして、目の前に置かれている手に視線を配ったが、握りたいとは思わなかったから、やはり既に有太への思いはなかった、と確信した。

ただ、人工呼吸器の音が響き渡る病室で、余裕が出来た心に啜り泣きをする良太郎へ愛おしさだけが溢れた。これからは、有太の性格が良太郎に感染しないように、良太郎を囲う必要はない。良太郎と2人で伸び伸びと生きていける。

好きな時に好きな物を食べ、好きな友人に会い、愛おしい良太郎のお世話をする。有太が呟くであろう小言を想定し、逃げる必要もない。思いのまま自分の意思を表示し、良太郎が望む教育を施すことができる。やっと自由になった。

「パパ大丈夫?」

と、泣きじゃくる良太郎の手を引いて、病室から出た桜子は、雨の中を歩く。周囲から遮断された傘の中にいると、良太郎と2人だけの世界にいるようで、落ち着いた。

「大丈夫よ。」

良太郎に温かな瞳で伝えたが、良太郎は、それには応えず、

「ママのせいだ。パパには僕がママに見えたんだよ。」

と言った。その口元は、桜子に反論する有太にそっくりだった。疎ましいと桜子は思い、良太郎から視線を外しはしたが、その手で良太郎の拳を一層強く握り、帰路についた。

有太がいない生活は憑き物が落ちた様に爽やかだった。収入を補うだけの貯金もあったから、何かに困ることもなかった。身体中から元気が漲る。疎遠になった友や、実家の家族とも会いたい。結婚前に戻ったような感覚だった。

翌日、快晴となった青空の下、布団を干していると、「ピンポン」という呼び鈴で想像の世界から現実の世界に戻された。有太の母親が訪問したのだった。一緒にお見舞いに行くために、家に迎えに来たと言う。桜子は、「とんでもない。」と思った。やっと夫から解放され、満たされた自由の中にいるのに、なぜ次から次へと檻に戻そうとする人が来るのか。憤りを隠すため強い口調で、

「一緒に行きたいのですが、良太郎が流行りの感染症で。お義母様や有太さんに移すと大変ですから。」

とお伝えした。その威圧的で冷徹な桜子の話し方は、桜子オリジナルのものではない。ハキハキしてはいるが、優しい気持ちを内に秘めていた桜子らしからぬもので、長年、共に時間を過ごした有太にそっくりであった。

そのことは、桜子自身も気が付いていたが止めることが出来なかった。桜子は、有太に似てきた自分は、近寄って来る人に吐き出すことでストレスなの解消すればよいと思い、あえて強い口調で話した。声にも風貌にも心は現れるもので、この日を境に義母は、桜子の家に来ることはなくなった。しかし、桜子は満ち足りていた。

その日の夕方、保育園から帰って来た良太郎の調子がおかしい。咳が止まらないし、呼吸も荒い。さらに熱が39度を超えていた。解熱剤を飲ませるが、効果はない。流行りの感染症と同じ症状だと、桜子は感じた。

「良太郎、良太郎!」

ほっぺたを叩きながら意識を確認するも、良太郎はぼんやりと、

「ママ」

というだけで、朦朧としている。

「ダメ、ダメ、一人にしないで!」

桜子は片っ端から、家族や友人に電話をかけるが、誰も出やしない。既に、桜子の周りからは人が散り、ひとりぼっちだったのだ。「病院」と思うが、どうすれば病院に到着するのか、行くべき病院はどこか、思考が追いつかず、分からない。良太郎を抱きしめながら、唯一、通じた芽衣に叫んだ。

「良太郎が、助けて。」

それ以上の声は出なかった。

桜子は、思わず駆け出していた。芽衣の自宅に着いたのはそれから30分後で、足元に真っ白な桜の花びらが積もっていたことだけは覚えている。外に出てきた芽衣に、懇願していた。言葉が上手く出てこない。

「これ、返すから、良太郎を。」

桜子は膝から崩れ落ち、芽衣のスカートを握って、お車代の封を返そうとしていた。その声は震えて続かない。

「遠方から来てくれた方、皆さんに渡しているので。札幌から来てくれたのよね?」

と、芽衣は桜子を一瞥した。桜子は、この期に及んでも、保身に走った。それは無意識だった。

「札幌からだけど、来たいから来たのだから、遠慮します。だから、お願い。良太郎を。」

桜子は、芽衣が受け取って、快く良太郎を助けてくれたらと思った。芽衣は、腹の底から怒りが沸き起こった。そして、それを抑えるものは、何もなかった。

「嘘よね?」

芽衣の唇は震えている。桜子は、声が出ない。ただ首を横に振った。

「一生で一番大切な日よ。私は一番大切な友人の顔を見れなかったわ。桜子と目を合わせたくなかったから!直前キャンセルのやり取りで夫とも喧嘩して、一緒に暮らせないほどの溝が生じている。
結婚式のウォーキング練習すら出来なかった。
桜子は、自分の嘘が、周りをどう苦しめているかさえ、分からなくなったの?」

芽衣は大声で怒鳴ったが、桜子は尽かさず反応する。

「だって、じゃあ、どうするの?有太が良太郎を洗脳するのよ。あらゆる言動に対して、箸な持ち方だの、笑う時には手で口を塞げだの、階段は飛ばすなだの、もう、気が触れそうよ!」

桜子は、堰を切った様に泣き喚いた。芽衣は、桜子にかける言葉はないと思った。

「そこまで沈んだのね。」

芽衣は、冷めた目で桜子を見つめた。その目が気に入らない。桜子は、立ち上がろうとした。
しかし、足元の花びら達が夜露に濡れて、桜子はスリップしてしまい、立ち上がれない。そのまま倒れ、目が覚めた時は、結婚式場だった。

長い間、眠っていた気がする。目を覚ました桜子は、心配そうな目に気が付いた。

「良太郎?」

そう呼んでから振り向くと、肩幅の広い青年が呼吸器を引きながら、挙式前の家族写真を撮るために桜子の横に立っていた。「そうか、あれから20年か。」と桜子は思い返した。

倒れた桜子を救急車に乗せた芽衣は、その足で、桜子の自宅にいる良太郎を病院に連れて行った。良太郎は、一命を留めたが、後遺症のため生涯、呼吸器を手放すことができない暮らしを強いられることになった。事故に遭った有太は、顔面にガラスを浴びて、喉と口を切り、思うように声が出せず話しができなくなってしまっていた。
桜子は、言葉を失った有太と暮らすことで、良太郎への罪悪感を補填してきたのだった。

「お母さん、休まなくて大丈夫?お父さんだけじゃなく、お母さんも欠席は悲しいよ。」

そうかぁ、桜子はこれから始まる良太郎の結婚式に思いを馳せた。私はあの時、そんな大切な日に嘘をついて、キャンセルをしたのか。桜子は目頭から涙が溢れた。あの時は、一区切りして次の人生に向かうため、見届けなければならない時を思う余裕がなかった。

体育の授業にすら参加できず、学んでいた英語も諦め、選択肢が少ない人生に沈んでいた良太郎の横で20年間励まし続けることは、無念で胸が壊れそうだった。

怒りを口で表現するのではなく、物にあたる有太を見逃すしかなかった日々。音が聞こえるたび、何事かと震え上がり心が張り裂けそうだった。

「大丈夫よ。何があっても参加すると決めていたのよ。」

それでも良太郎の結婚を目標にやってきた。そして、やっと、結婚式の前に戻ってくることが出来たのだ。今日を越えれば、重ねてきた嘘への罪悪感から晴れることができる。桜子は、この日をずっと待っていた。

真っ白な空を映したかのような花びらが、一斉に開花した。春を待てずに粉雪の中、満開となった桜が、桜子の新たな人生を祝う。

寵愛を望み、手に入れたために、箱の中に沈んでいった。底なし沼の中に居座ったのが桜子自身の意思であるのに、何度、「こんなんじゃない。」と思ったことだろうか。空を自由に駆ける桜景色を見ながら、20年、耐えて待ち続けた。何不自由のないお金と桜子を自分のコピーにしようとする愛情に甘んじることは、幸せではなかった。しかし、そんな毎日も今日までと思うと、言葉にならない思いが胸に溢れる。ただ涙が止まらなかった。

もう有太の車椅子を押すことも、おばあちゃんや芽衣に罪悪感を感じることもない。

真っ白な景色の中、桜子は、告げる。

ようやく、さよならだと。

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