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#日々のこと/塩田千春展を思い出しながら

塩田千春展感じることがたくさんあった。入り口にいきなり赤い糸を張り巡らせた大きな空間を用意して鑑賞者を作品の内側に飲み込んでしまう大掛かりな展示の構成。作品以上に心に響いた壁に掛けられた言葉たち。若くして森美術館で展示ができる晴れ晴れしいキャリア。何より、糸という自分の作品を象徴するモチーフをすでに手にしていること。糸という誰にとっても生活の身近にあるものでありながら、絡まったり、もつれたり、切れたり。人と人との関係性をも示唆し、幾重にも張り巡らされた蜘蛛の巣に絡めとられる錯覚に陥るような巨大な作品にも変貌する。その内側に鑑賞者を招き入れ、飲み込み、取り込んでしまう。圧倒的な規模の作品を目にした時、鑑賞者はいやでもその世界の内に引き込まれることをこの展示で目にした。

2001年、第1回横浜トリエンナーレで展示された「皮膚からの記憶」。
泥まみれになった長さ13mのドレスを天井から吊り下げ、上部に設置されたシャワーから水が流れ続けるインスタレーション。
体の不在を表すドレス、どれだけ洗っても皮膚の記憶を洗い流すことはできないことを表現した作品で、当時29歳だった塩田千春を日本のアート関係者に強く印象づけた作品だったという。
その作品の映像を見ていて、13mという異常なサイズのドレスをシャワーの水が伝う異様な光景。この圧倒的なサイズ感が鑑賞者に強いインパクトを与えたことは間違いなかった。わたしはこの作品の映像を眺めながら、第二次世界大戦で辺境の地にあった小さな収容所での手記『夜と霧』に出てくる収容所で捕虜となる人々が収監される前に浴びたシャワーを思い出していた。身ぐるみを剥がされ、持ち物をすべて奪われ、体毛を剃り落とされ、名前を奪われ、収容者番号でただの記号をして呼ばれるようになってもなお洗い流すことができない人間のアイデンティティについて思い出していた。泥まみれになったドレスとシャワーは悲しみに満ちているように見えた。

以前は誰かの持ち物だった靴。持ち主が今は不在となった靴を四方に並べ、そのひとつ一つを赤い糸で括り付けた作品(「大陸を超えて」で検索すると作品が見れます)

「スーツケースの山を見ると、その数だけ人の生を見てしまう。故郷を離れどこかに目的地を求め、どうして旅に出たのか」という彼女が、天井から赤い糸でたくさんのスーツケースを吊り下げた作品。
この2作品を見ていると持ち主が不在になった靴とスーツケースに染み込んだ持ち主の記憶(とりわけ悲しい記憶)がはっきりと見えた。その記憶が波のように押し寄せてきて、旅の持つ哀しさ(旅は人生そのものをも表していると思う)という側面が強調された。その靴とスーツケースひとつひとつは、持ち主とともにまだ見ぬ土地を踏みしめ、幾多の国を飛び越え、何を求めてどこへ行こうとしたのだろう。その旅の行き着く先に、求めていたものをついに発見することはできたのだろうか? 生まれた土地から一度も出ることなく、外の世界を知らずに人生を全うし、幸せに死んでいく人もいる。知らないでいることは決して不幸なことではない。むしろ幸せかもしれない。そういう人生だって選べたわけだから、旅に出なければならなかった人生は、すでにその内側のどこかしらに悲しみを秘めているような気がする。 

黒い糸が張り巡らされた空間に丸焦げになったピアノが一台置かれている。
その周りにはいろんな形をしたデザインの椅子がピアノをぐるりと囲むように配置されている。その椅子もピアノと同じように焼け焦げていて、その形をかろうじて保ちながら立っていた。すべての椅子はすべての物質のもとをたどれば、それはついには原子に帰るように炭素に変わってしまったようだった。この喪失の空間にわたしは長々とはいられなかった。燃えてしまったあとに残されるものは、形はそこに存在していても空白みたいだった。真っ黒な空白。

かつてベルリンのどこかのアパートメントの窓枠だったであろうたくさんの窓ガラスを何段にも重ねて、展示会場に即席でこしらえたようなーーそれはまるでベルリンの壁を表しているようだったーー作品。以前どこかのアパートメントで窓枠としてそこに収まり、窓ガラスとして外の天気を知らせたり、光を取り込み、空気を入れ替え、外の世界とをつないで人々の生活の中にいた窓。その窓にもベルリンの悲しみの記憶が詰まっているようで、見ているのがしんどかった。でもこうして保存されなければ、多くの廃材とともにゴミになっていたかもしれない運命。人々の生活を支えていた窓にもそれぞれの固有の物語があるようにも見えて、人間ひとりの小さな営みにこそ大きなドラマがあるんだよと改めて教えてもらった。

「人々を振り向かせてこちらを見てもらうには」
塩田千春の作品にはとにかく訴えかけてくる何かがある。作品は静的に見えるけれど、何かを表現しようとする爆発的な力が宿っている。彼女の思索の先に表現があるのだと思う。その思索のループをわかりやすく作品で表現されていて、その才能が凄まじい。中でも彼女のモチーフである糸。糸に可能性を感じたその感覚が抜群に冴えていると思う。糸にこれだけ人の心をふるわせられる可能性があったなんてわたしは気がつかなかった。糸は体の中を流れる血管にも例えられたし、人が寝ているベッドの周りに糸を張り巡らせて蚕の繭のように包みゆりかごのようにした作品もあった。人の心を捉えて圧倒し、しばし立ち止まらせてその心を揺らす、何か人に感じるきっかけを与えるというアートにできる素晴らしいアプローチを彼女の作品は見事に成していた。この展示で塩田さんの作品にわたしの中にある、眠っていたたくさんの感情を揺らして起こしてもらった。表現したいと思う衝動を自由に解放すること。わたしが心に感じることを誰かに伝えること。もっとがむしゃらにそのままをキャンバスに投げつけること。正解も間違いもないこと。むしろ間違いを恐れずに、自分を信じていいこと。生きることって何なのか。心が感じること。それを共有すること。何も感じずに疑いもなく生きることができれば楽だけれど、そうではない人のために。彼女の作品が見栄えもして、日本での展示だからこそ、そこかしこでカメラのシャター音がずっと鳴り響いていた。わたしはいつもその音を聞きながら興ざめする自分がどこかにいる。カメラロールの中に残されたそのデータを後から振り返る人がどれだけいるのだろう?とさい疑的になりながら。でもたとえSNS映えでシェアされたとしても、彼女の作品が広がっていくことは本望だし、それすら視野に入れて作品が作られていたら感心しかない。展示を観たあとはいつも自分がどう感じたかどう受け取ったか、どの作品がいちばん心に響いたかノートに記録していて、塩田さんの展示は今年の最長記録になったかもしれない。作品を観てからずっとnoteを書きたかったけれど、しばらく時間がかかった。日々の生活と彼女の作品がもたらす思索のループが交差して目の前にダブりながら日々を過ごし、そんな風にアートが日常を横切る瞬間があるのがうれしかった。ちょうどベトナムに旅行したタイミングにも重なって、人生は旅だという思いが深まった。正解や常識の旅はつまらない。各自が自分の旅路を行く2019年になりますように。

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展示されていたキャプションはここに紹介します。作品を観る機会は得られなくても、この言葉から塩田さんの世界の断片を覗けます。
いつでもこの美しい言葉たちを取り出して、ここを訪れる誰もが眺められるように。英訳は少しずつ付け足します。衣服は第二の皮膚という表現から、わたしは書きたいことがムクムクしてきたように、あなたの琴線に触れ、衝動を湧き起こさせてくれるかもしません。

糸はもつれ、絡まり、切れ、解ける。
それは、まるで人間関係を表すように、私の心をいつも映し出す。
Threads bicome tangled, intertwined,broken off ,unraveled.
They constantly reflect a part of my mental state,
as if they were expressing the state of human relationships. 
人間の命は寿命を終えたら、この宇宙に溶け込んでいくのかもしれない。
もしかしたら死は無と化すことではなく、何かに溶け込んでいく現象に過ぎないかもしれない。
生から死へ。消滅するのではなく、より広大なものへと溶け込んで行く。
そう考えれば、私はもうこれ以上死に対して恐れを持つ必要がない。
死ぬことも生きることも同じ次元のことなのだ。
When a human life reaches its precribed lifespan,perhaps it dissolves into the universe.
Perhaps death does not involve a transformation into nothingness and oblivion,but is merely a phenomenon of dissolution.
Going from life to death is not an extinguishing,but a process of dissolving into something. 
If this is the case, then there is no longer any need to be afraid of death.
Both dying and living belong to the same dimension.
秘密の場所を持つこと、古い秤、錆びついた車輪、古い人形、石、
木の実、東ドイツ時代の家の模型、そして先日、私が拾ってきた70数個の小瓶。
私のアトリエには、そういったガラクタがたくさん並べられている。
それらは、私と共存しアトリエに置かれ、
ふとした日常の生活の中で、ただ私の心を震わせ続ける。
To have a secret place all one's own : old weighing scales,rusty wheels,nuts model houses from the old East Germany, and some seventy or so small bottles that I picked up the other day.
This is the sort of junk that fills my atelier.
These objects coexist with me, in my atelier.
Quite by accident, in the mindst of the everiday, they continue to move my mind.


心と身体がバラバラになっていく、どうにもならない感情を止められなくて、自分の身体をバラバラに並べて、心の中で会話をする。
赤い糸と身体を繋いで、やっぱりこういうことだったのか…と、何かが分かる。
この感情を表現すること、形にすることは、いつもこういうふうに同時に魂が壊れることなんだ。
The mind and body become detached form each other, and I am no longer able to put a stop to these uncontrollable emotions.
I lay my own body out  in  scattered pieces, and have a conversation with it in my mind.
Somehow, I understand that this is what the act of connecting my body to those red threads is about.
The act of expressing these emotions and giving them a form always also involves the soul being destroyed. 
黒は広大に広がる深い宇宙を、赤は人と人をつなぐ赤い糸、または血流の色を表す。
まるで私のなかの心の宇宙と外の宇宙を繋ぐように、糸は絡まり、ときにピンと張り詰める。
その関係性はいつまでも途絶えることがない。
The black express the vast expanse of this deep universe, while the red expresses the red threads that connect one person to another, as well as the  color of blood.
These threads become entangled, occasionally, they bristle and tighten up as if to connect the mental universe that exsists within me to the cosmos outside.
This is a relationship that will never falter.
9才の頃、隣の家が火事になり、次の日、家の外にポツリとピアノが置かれていた。
真っ黒に焼けたピアノは以前にもまして美しく、その存在を象徴するかのようだった。
なんともいえない沈黙が自分を襲い、それから幾日も焼けた匂いが風と共に家のなかに流れてくるたびに、私は時運の声が曇っていくのを感じた。
私の心の奥底に沈むもの、表現しようとしてもその形にも、言葉にもならないもの。
しかし、はっきりと得体のしれない魂として存在するもの。
考えれば考えるほど、自分の心から音が消え、存在感がましてくる。
第一の皮膚は人の皮膚、衣服が第二の皮膚。
だとしたら第三の皮膚は居住空間、
人間のからだをとり囲む壁やドアや窓ではないのか。
ベルリンは壁が崩壊して30年経った今でも絶えず年が変動を続け、
毎日違う顔を見せ続けている。
ベルリンの工事現場で捨てられている窓を見つめていると、人為的に28年もの間、東西に別れ、同じ国籍の同じ言葉の人々が、どういう思い出このベルリンの生活を見ていたのだろうと、その人びとの生活を思い浮かべてしまう。

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人は目的地を求めて故郷を離れる。
多国籍の人たちと生活をしているとふと自分が日本人であることを忘れる。
鏡に映った自分を目にして初めて黒い髪と黒い目のアジア人だと気づく。
離れれば離れるほど、混ざれば混ざるほど、
自分をもっと見つめ直す場所に到着するような気がする。
スーツケースの山を見ると、その数だけ人の生を見てしまう。
故郷を離れどこかに目的地を求め、どうして旅に出たのか。
その出発の日の朝の人々の気持ちを思い起こしてしまう。
ドイツで娘と同じ歳の小学生に聞いてみた。
魂(ゼーレ)ってなに? どこにあると思う? どんな色?
動物にも魂はあるのかな? 植物にも魂はあるのかな?
そして、もし人が亡くなったらその魂もいなくなっちゃうのかな?
私の魂は肉体とともにある。肉体が無くなると魂も一緒に無くなるのか。
心にはいつまでも寄り添っていられるのか。
病気の再発を宣告されての2年間、個展の構想をしながら、
私自身、生きることで精一杯だった。


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