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父と膝カックン

 今年のお盆も帰省できなかった。
 
 私が実家に帰省できるのは年に一度の年末年始のみ。父のお墓参りもその時にしか行けない。最近は子供の受験やコロナ禍でずっと帰省できずにいて、今年のお正月に本当に久しぶりに、五年振りにお墓に行ってお線香をあげた。
「なかなか来れなくてごめんね。」
心の中でそう伝えた。
 
 2017年2月、父が他界した。死に目にも会えなかった。兄や妹は父を看取ることができたが、遠く離れて住んでいる私だけが間に合わなかった。
 
 亡くなってから今まで、私の夢に父が出て来たことはない。四世代家族で育った私は曾祖母や祖父母も亡くしているが、みんな夢に出て来てくれた。なのに父だけが会いに来てくれない。私が親の死に目にも会えない、親不孝だからかな。こっちは会いたいのにな。

 母に言わせれば、きょうだいの中で私が一番父に似ているらしかった。昔そう言われた時は全く納得しなかったが、と言うか全力で否定していたが、今は、素直に嬉しく思う。似ているのは、自由を愛するところ。
 
 私の思考は父の影響を多大に受けている。一緒に過ごした時間は断然母の方が多い。父に子供の頃学校行事に来てもらった記憶はない。ほぼ毎日午前様で、子供の私が寝てから帰ってくるので日常生活での関わりは多くなかったはずだ。時代は昭和、男は仕事、女は家庭が当たり前で、きっと多くの家庭がそんな感じで、何も特別なことではなかったと思う。

 強いて特別なことと言えば、父はちょっとだけ変わったサラリーマンだったことくらいだ。
 
 横浜の老舗デパートでバイヤーをしていた父は、キレイなモノ、ユニークなモノが大好きで、自分が気に入ったショーウィンドウのディスプレイをもらってきては自宅玄関に飾っていた。
 メタリックブルーの巨大なカジキマグロのオブジェ、その脇にはミュージカル・アニーの犬の等身大モフモフぬいぐるみ、天井にはたくさんの桜の造花。壁にはインドネシア出張で買ってきた奇抜な色の恐い顔のお面の数々。何ともちぐはぐで、シュールな空間。でも何とも父らしかった。
 海外に買い付けに行く度にお気に入りを見つけて帰ってくるので、のどかな田舎町の我が家なのに、家の中はミックスカルチャーの先端を行っていた。私はたくさんの色に囲まれて育った。
 
 居間には、でっぷりとした形の大きなガラスのボトルが置いてあった。父のものだ。その赤みを帯びた厚手のガラスはどこか異国を想わせて、子供の私から見ても実にかっこいい味のあるボトルだった。旅の記念にか、或いは換金するのが面倒だったのか今となっては分からないが、父は帰国すると行った国々の紙幣やコインをそのボトルに落としていた。
 子供の私は、それをこっそり開けて眺めるのが好きだった。お札の大きさや紙質、インクの色、デザインは実にまちまちだった。コインに至っては、サイズが全く違っていて、本当に小さなものからごっついものまであった。硬貨は円いものと思い込んでいたから、そうじゃない形のコインを見つけた時は驚いた。海賊船の宝箱を開けた感覚。海賊船も宝箱も見つけたことはないけれど、きっとそんな感覚。
 父が持ち帰ったモノ達が、海の向こうの世界はそんなに遠くないと感じさせてくれた。

 海外出張で飛び回っていた父だが、実は英語が話せない。
”This one,please."と”How much?”だけで乗り切ってきた強者である。父の英語の足りないところは、英語のできる方が担ってくれた。父のアイデアの視覚化はデザインの得意な方が担当してくれた。とにかく父は人に恵まれていた。
 大きな福耳と布袋様を思わせる体型もあって、強運の持ち主感が半端なく溢れ出ている父であったが、人に恵まれていたと言えるのは、実は父の人柄によるところが大きかったのではないだろうかと今になって改めて思う。
 
 父から、広島までの新幹線往復チケットを買ってきてほしいと頼まれたことがある。かつて父の下で働き、今は地方で自営業をしているSさんに会いに行くのだという。
「Sが独り立ちして初めての催事が、広島のデパートであるから行きたい。風下からそっと近づいて、膝カックンがしたいんだ。」
 六十近い、大の大人が本当に膝カックンを決めたかどうかは分からないが、父は広島からご機嫌で帰ってきた。昔の部下が独立し、立派に働く姿を見届けることができて嬉しかったのだと思う。父はそういう人間だ。

 豪快さと繊細さが絶妙なバランスで存在していた。
 毎晩楽しくお酒を飲んでは、遅くに帰ってきた。家族のためを想ってか、一緒に飲んだ人が気を利かせて持たせてくれたのか、手土産片手にタクシーで帰ってくる。当時田舎のケーキ屋では見たことのない宝石箱のようなプチタルトの詰め合わせ。千鳥足の父が運んだせいでいつも原型を留めてはなかったが、都会の味がして美味しかったのを覚えている。Topsのチョコレートケーキも、泉平の稲荷寿司も、まい泉のカツサンドも、全部酔った父が教えてくれた味だ。
 楽しいことが大好きで、豪快に飲み歩く父の記憶の一方で、休日に文庫本を静かに読み耽る父の姿も覚えている。そして、ふとした時に父は描く。新聞チラシの裏側に、幼い妹の横顔を、花瓶の中の花々を繊細なタッチで描いていく。
 
 母からの電話で父が癌であると知った。大好きなお酒の影響が大きかったのだろうと思う。
 その年の年末に家族と帰省し、手術後で入院中の父を見舞った。恰幅のよかった父は驚くほど小さくなっていたが、元気だった。心配ではあったけれど、母やきょうだいに父を任せて私は北海道に戻った。
 
 しばらくして、医者から自宅で過ごしていいと告げられた。
 退院した父は、紳士服店と文房具屋に連れて行ってほしいと頼んだらしい。すっかり瘦せてしまった体に合うズボンがほしいという。そして絵の具セットがほしいという。
 訪れた文房具屋は、大人が使うような絵の具セットは取り扱っておらず、唯一あったのは小学生が入学準備に揃える絵の具セットだけだった。しかも在庫は派手なピンクのチェック柄の一点のみで、父にはどう見ても不釣り合いな代物だった。母は何度もそれでいいか確認したが、父はそれでいいと答えたらしい。
 
 新しいズボンを履いて、絵の具セットを持ってスケッチに行く。そんなささやかな父の希望が叶えられることはなかった。程なくして体調が悪化し、すぐ再入院することとなり、家に帰って来ることは二度となかった。

 父の絵の具カバンは、今私の手元にある。四十九日の法要が済んで、母が私に持たせてくれたのだ。使わないより使った方が父は絶対に喜ぶ。そう考えて中の絵の具や筆は、お絵描き好きの娘に使わせた。ピンクのカバンだけはボーイッシュな娘の好みに合わず、新品のまま今も私のもとにある。
 
 私も絵が好きだった。好きだったけど、全くもって上手ではなかった。本当に描きたいものがあるのに、私の線はぎこちなく彷徨うだけで何も伝えられない。父のような優しい線は、私には描けない。でもそれは当たり前のことだ。父は父で、私は私だ。私は私、自由に自分を描くために前に進むだけなのだ。
 
 つい最近、独学でデッサンの練習を始めた。恥ずかしいかな、五十の手習いというやつだ。簡単な形すらも捉えられず落ち込むことばかりだが、描き続けたいと思っている。
 
 ここ北海道には、素晴らしい自然が普通にあるのだ。父に見せたい景色が目の前にいくつも広がっている。あの絵の具カバンを持ってスケッチに出掛けることが、今の私の目標となった。
 いつか私の描く絵を観に、膝カックンをしに来てくれないかな。いい歳をして、そんな馬鹿げたことを思っている。
 

 
 

 
 
 
 
 
 

 


 
 
 

 

 
 
 

 

 

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