見出し画像

やりたいことを溜め込むと、体に毒だと思った。

 やりたいことを溜め込むと、体に毒だと思った。

 やりたいことをキラキラした目で語る知人がいた。本当に生き生きとして見えた。でも、その1年後、彼はまた同じことを語っていた。1年前と全く変わらない面持ちで話すその姿を見て、「ずっと同じことを言い続けるんじゃないか」と思ったが、案の定そうなった。しかも、年を重ねるごとにやりたいことが追加されていく。

 最初は田舎でのスローライフ、次に農業、カフェ経営……。内容はさておき、やりたいことをコレクションするのが好きな人は多いように思う。実際、私もそのひとりだ。けれど、知人の姿を見て、私は違う道を歩もうと思った。

 例えば、このエッセイがその一つ。私は文章に触れる仕事を10年以上しているけれど、「エッセイを書きたい」という思いはなぜか長らく温められてきて今に至る。そして、いつのまにか私にも「いつかやりたいこと」のリストが増えて、気づけばそれらをアンティークコレクションのように飾って、眺めて満足していた。

 年々それらが風味を増し、どんどん特別なものに思えてきたあたりで「あれ?」となった。それを眺めたり、人に披露するのは楽しかったのだけど、どう考えてもパッとしない。見方を変えればガラクタにも思える。からの、一度そう見えると、具合が悪くなってくる。

 それは、例えば新しい旅先であれをしよう、どこに行こうとやりたいことが湧いてきたにもかかわらず、まさかの胃腸炎にかかり、何も満たせずに終わったときのような切なさと気持ち悪さに似ていた。気持ち悪いというのは体調じゃない。好奇心が毒素となって体に溜まっていく感覚だ。

 やりたいこと。その一言が表す振れ幅は大きい。カフェに行くという小さなこともあれば、大きなビジネスをやるみたいなこともある。だけど、大小関係なく自分の好奇心を飾り物にしたり、蓋をして閉じ込めておくことは代謝を妨げてしまう。

 もしかすると、いざ、形にしてみたらすぐに散ってしまうこともあるかもしれないけれど、消化することで、また新しい興味が湧き出してきて循環が起こる。儚くも全うすることができれば、少なくとも不純物にはならないのではないか。

 決めたことは、好奇心が生まれたらすぐに動かしてあげること。その生存本能を尊重するという意味で。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?