淺岡彩乃
主人とはお見合いだった。 寡黙な人。一緒にいてもほとんど喋らない。けれど妙に居心地が良かった。 それだけで結婚を決めた。 当時の友人達は口を揃えて意義を唱えた。つまらない男よ。熱も上げずに家庭に収まるなんて。洋子らしくないじゃない。 そうね。 割と派手な方だったし、自分で言うのもなんだけど、それなりにモテたからね。 こんな地味な人と一緒になるなんて思わなかったわ。 それでも四半世紀、月並みに幸せだった。 子宝にも恵まれた。男の子と女の子。主人は仕事ばかりの毎日で家庭のこ
マダムの店は気まぐれだ。 オープンして半世紀。 いまや地元で最も老舗となってしまった。 年齢も相まって、このところほとんど休業状態。 けれど今日という日は特別。行きつけのバーが唯一、お休みする貴重な日。この日は誰に言うでもなく、ひっそりと店を開けるのだ。 カランコロン。 古い木製のベルがまろい音をたて来客を告げる。そこには見覚えのある男女ふたりの姿。 「あら、いらっしゃい。よく此処がわかったわね」 マダムと同じくRa・mostの常連客のふたりだ。 「マスターからマ
夕立ちが夏の到来を告げる頃。 その女は突如ふらりと現れた。 黒髪でおかっぱの、座敷童子みたいな女。 「あんた佐々木智之殺したやつ?」 吐き捨てるようなそのひと言につい身構える。 確かに佐々木は十五年前に俺が殺した。頭がぐちゃぐちゃになるまで、ハンマーで殴り続けて。 「そうだけど」 長い刑期を終え、晴れて自由の身。 とはいえ執行猶予中である現在。トラブルは避けたい。 「そう身構えないでよ。あんたにお礼言いにきたの。あいつを殺してくれてありがとうって」 「は?」
202X年。 人類とゾンビの闘いに終止符が打たれ、世界政府は共存の道を辿ることを表明した。 「今日からお世話になります、松田です。よろしくお願いします」 「よろしくね松田くん。オーナーの笹原です。ゾンビニでの勤務は初めて?」 「はい!普通のコンビニならあるんすけどね、ゾンビに接客するのは初めてです」 ここはゾンビが使うコンビニエンス・ストア、通称「ゾンビニ」 客はもちろん、ゾンビしかいない。 フードやドリンクはもちろん、人口生肉、血液パックに、死臭対策スプレーから傷
カクテルサラダも、 スパニッシュオムレツも、 煮込みハンバーグも、 ティラミスも。 フォークとナイフでかき混ぜる。 原型を留めないほど。 ぐちゃぐちゃ。 ぐちゃぐちゃ。 ぜーんぶ、 ぐちゃぐちゃ。 「ね。お話ししたとおり、お行儀が悪いでしょう?恥ずかしいわ」 そういう彼女の所作は非の打ち所がなく、完璧で。 さらには誰しもが振り向くであろう、その美貌。食事の作法を差し引いたところで充分すぎるほどお釣りがくる。 「いや全然気にならないよ」 「こうするのは家で
今夜のRa・mostは珍しく賑やかである。 みめ麗しい三人の女性がおしゃべりに興じているからだ。その会話のトピックスは一貫して恋愛話。 すっかり常連となった強面の彼が眉根をひそめる。 「いいのか?あれ」 そちらを一瞥しながら小さく呟く。 彼女らの手元にはいまだ一杯目のカクテル。 「楽しそうでなによりです」 「あんたがそう言うなら、俺の出る幕はないね。ご馳走さま」 「最近ご無理はしていませんか?」 「ちゃんと仕事もセーブしながらやってるよ。また来るな」 彼の退店
「死んでる?」 それならどれほどありがたいことか。 残念ながらまだ息はある。このまま黙ってやり過ごして警察沙汰になるのは御免だ。俺は鉛のように重くなった瞼を渋々持ち上げる。 「あ、生きてた」 大ぶりのカフェエプロンをした上品な佇まいの女性がほっと胸を撫でおろす。 どうやら着の身着のままここで一晩明かしてしまったらしい。東京から無一文、無我夢中で愛車をすっ飛ばし辿り着いた先は雪山でも断崖絶壁でもなく、鬱蒼と生い茂る一面の茶畑。延々と続くその景観にすっかり帰り道を失い、い
「佐藤さん。悪いけどお茶、用意してくれる?」 てらてらと脂ぎった禿頭を下げて部長が言う。 またか。 男性社員の方が圧倒的に多いのにも関わらず、お茶汲みはいつだって女の仕事。私はわざとらしくため息を吐いた。 「そう嫌そうな顔をしなさんな。佐藤さん美人だから、君に淹れてもらうとみんな喜ぶんだよ」 褒め言葉でもなんでもない。 その発言は男女差別になりますよ、部長。 そのひと言をぐっと飲み込んだ。 やりかけの書類を嫌味ったらしくデスクにどかりと投げ置く。 給湯室に行くと
「ドロップをあげる代わりに着ている衣類を渡せという不審者の情報がありました。これからしばらく登下校は二人以上でしてください。怪しい人を見かけたら必ず先生に報告するように」 帰りの授業。 普段ふざけてばかりの担任の緊迫した表情。 騒つく室内が瞬時に静寂に包まれる。 「プリントを配ります。帰ったらご両親に渡してください」 私にはそのどちらもいないのだけれど。 喰みすぎてぎざぎざになった爪を弄る。 目前に投げ捨てられたプリントに目を落とすと、不審者とおぼしき人物のラフスケ
ペールギュントの「朝」が流れると同時に室内灯がゆっくり灯る。本物の陽の光を知らない僕の目に優しいルクスで。 「モーニン、ヒュイオス」 唯一の話し相手は人工知能。AIだ。 彼女の名はマザー。 “グッドな朝”とは言わない。 ディストピアに残された、たった一人の生命体。その僕に対し”グッドな朝”とは、少々おこがましいだろうね。 「モーニン、マザー」 BGMに川のせせらぎと鳥のさえずりが交じる。 有機ディスプレイが埋め込まれた壁一面に映し出される美しい森林風景。
幼馴染の岡野まなは馬鹿の天才だ。 小学生の時に実施されたIQ検定で脅威の数値を叩き出した。 いま話題のギフテッドというやつ。 幼稚園からの腐れ縁なわけだけど、思い返せば当時から片鱗はあった。 物心つく前に年長向けのパズルを難なくこなし、皆が拙い言葉を話すなか一度聞いた単語を瞬時に覚え理解する。 周りの大人たちは色めきだっていたが、当の本人とその両親はまるでどうでもいいような様子だった。 特別扱いされることを異様に嫌い、年少以降は目立った行動をしなくなる。 俺自身はとい
ただ、女に生まれただけ。 どれだけの人が知っているのかしら。 一生涯で分泌される女性ホルモンはティースプーン一杯ぶんにも満たないそう。 たかがそんな量、世の中の大半の女性はそう思うことでしょうよ。 たかがそんな量に私たちは存外振り回されている。ご丁寧に毎月、必ず。 異常なまでの食欲増進。破壊衝動すら抱える苛立ち。たまらない自己嫌悪。目も当てられないほどの醜悪さ。 ああ、忌まわしい。 「別れた原因はほとんどそのせいだと思うのよ」 夜風が冷たいバルコニー。 ため息混
私は池のメダカだった。 頭上に広がる青い空に焦がれ、懸命に泳いでは水面にようやく浮かび上がったあの日。 石の上に鎮座する貴女を見かけた。 貴女は一匹の亀だった。 「ああもし、そこの貴女。なんて素敵な方でしょう。どうか私の伴侶になってくれませんか」 ゆっくりと振り向くと驚くような素振りもせず貴女は呟く。 「私はこの池の主で、亀である。お前が生きる何万倍も長い年月を私は過ごさねばならぬ。そんな不毛な恋などこの身には辛いだけ」 メダカは考えた。 「ならば次にあなたと添
一人息子がついに我が家を出ていく。 今日は最後の晩餐ならぬ、最後の喫茶タイム。 「生姜焼き定食にするよ」 少し前までハンバーグ定食一択だったのに、大人になったものだ。 「あいよ。それにしても、経つ前の最後の夕食にうちを選んでくれるなんて、光栄ね」 店主のちえちゃんが軽快に笑う。 「そりゃ、物心ついたころからここに来ているわけだから。俺にとっては第二のお袋の味さ」 正しくは物心つく前から、ね。 あなたを孕ってひどい悪阻で何も食べられないなか、ここのハムチーズトース
都会の喧騒から離れた裏通り。 人目を避けるようひっそりと古い造りのバーがある。 そこでは何やら不思議な体験が出来るともっぱらの噂。知ってか知らずか、今夜も迷える子羊が訪れる。 バーの名は「Ra・most」 「とにかく、可愛くてね。寄り道せずに真っ直ぐ帰る毎日なの」 「そうなんですね」 「猫なんて興味なかったのになぁ」 「ニコラシカの影響ですかね?」 「そうなの、きっとそう!だからマスターにお礼言いたくてね。きっかけを作ってくれた人だから」 「そんな大袈裟な」
その作品を見た瞬間、文字通り僕は息を呑んだ。 モップを持っている手が止まる。 利用者達でざわざわと賑やかな施設内。物が雑多に置かれた壁際の棚の上に、それは紛れていた。 雑誌ほどの大きさの額縁に飾られた、小さな丸。極々華奢なラインの円形に違和感を覚え近づいて見た時だった。 同時にあっと声が漏れたと思う。 まるで意図せずに。 それはとても細やかな点の集合体だった。 寸分の狂いも見せない点が美しく滑らかな曲線を描いている。目を凝らすとようやく分かるほどの、微かなインクの擦れ