狼男。
ただ、女に生まれただけ。
どれだけの人が知っているのかしら。
一生涯で分泌される女性ホルモンはティースプーン一杯ぶんにも満たないそう。
たかがそんな量、世の中の大半の女性はそう思うことでしょうよ。
たかがそんな量に私たちは存外振り回されている。ご丁寧に毎月、必ず。
異常なまでの食欲増進。破壊衝動すら抱える苛立ち。たまらない自己嫌悪。目も当てられないほどの醜悪さ。
ああ、忌まわしい。
「別れた原因はほとんどそのせいだと思うのよ」
夜風が冷たいバルコニー。
ため息混じりにタバコの煙を燻らせる。
後ろには酒を飲みすぎた面子が死屍累々の如く部屋の中を縦横無尽に横たわっている。
「具体的にはどんな感じなの?」
隣で気怠げにこちらを見やる一人の男。サークルの先輩から友達だと紹介されたばかりで、私はまだ彼の名前すら知らない。
「うーん。なんていうか、どうでもいいことにイライラすんのね。ピザまんが売り切れだったとか。彼氏のラインの返事が素っ気なかったとか」
「それにイライラするのは分からなくもないけど」
「イライラするまではね。それに対するキレ方が理不尽なのよ。別に普段なら、代わりに肉まん買おうとか、彼氏になんかあったの?って聞くだけで済む話じゃない」
「どうキレるの」
「私はどうしてもピザまんが食べたかったのに、なんでないのよ!ってお店で暴れたくなったり、彼女の私が連絡してやってるんだから、気分を悪くするような返事してんじゃないよ!ってブチ切れそうになる。それで実際キレたこともある」
「そいつはなかなかだねぇ」
「自分で思い返してもなかなかよ。穴があったら入りたいくらい。でもね、抑えきれないの。嫌な感情がムクムクと身体の中で膨らんで、めいっぱいになるような。そんな感覚。そうだなぁ、まるで別人格に支配されてるような。そんな感覚ね」
「それが毎月?」
「そう毎月」
憤りと共に煙を吐き出す私を見て、彼は数回頷いてからこんなことを言うのだった。
「それって、狼男と一緒だね」
突拍子な返答に私は思わず煙草の灰を取りこぼす。
「え?」
「狼男さ」
「狼男」
「うん」
「月を見て変身する、あの?」
「そう」
「狼男」
「狼男だよ」
ふと空を見上げる。
奇しくも、今夜は満月だ。
「狼男ってのはね」
改めて彼の眼をじっと見る。
月の光に照らされ輝く金色の眼差し。
「普段は驚くほど大人しいんだよ。けれどやはり、月に一度やってくる衝動を抑えきれない。変身するとようやくそいつから解放されて、思いきり吠えるんだ。遠吠えというやつさ」
「へえ」
まさに生理前の私そのものじゃないか。
思いもよらないところから狼男への親近感が湧いてくる。
「けれど変身すれば大変なことになるからね。SNSで拡散でもされれば魔女狩りならぬ狼男狩りに遭ってしまう」
「どうするの」
「薬で抑えるのさ」
「ははあ」
ますますもって我々の月のものと同じではないか。
俄然信ぴょう性を増してはきたが、それを語る当の本人が狼男とはかけ離れた優男であることが、なんだか妙に可笑しかった。
「そう言うのなら、今の私の方がよほど狼ね」
挑戦的に笑ってみせる。
つられて笑う彼の口から、鋭利な犬歯がのぞいて見えた。
どちらからともなく顔を近づけ、唇を交わす。
閉じた瞳を開ければ、目前に迫る思いもよらぬ鋭い眼光に、思わず気持ちを持っていかれそうになる。
私のほんの少しの緊張感を察してか、彼は戯けた様子でこんなことを言ってのけるのだ。
「遠吠え、してみる?」
「アウーーーーーーーン」
「あはは、うまい!うまい!」
言われた通り腹から声を出し、犬の遠吠えを真似る私。
側から見れば随分と滑稽だろう。
普段はクールに徹する自身からは想像もできないこの姿。
酒の勢いだけじゃない。実際のところ、かなりの気持ちよさだ。
「スッキリする、本当に」
彼が隣でくつくつと笑う。
「だろ?」
屈託のない笑顔で。
「俺の遠吠えはなかなかなもんだぜ。聴かせてあげようか」
こちらの返答を待つまでもなく、高らかに響く彼の遠吠え。
ああこいつ、本物の狼男なのかもしれないな。奥底に潜む衝動がむくりと顔をだす。
それをひた隠すよう、私も負けじと声を張る。
「アウーーーーーーーン」
「アウーーーーーーーン」
闇夜に響く叫び声。
それに呼応するようそこかしこから聞こえる犬の鳴き声。
近隣の家々の明かりが灯りはじめ、部屋に転がっていた面子はなんだなんだと起き上がる。
私たちは腹を抱えからからと笑い合うのだ。
それはまるで、子どものように。
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