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点と線と、円と。


その作品を見た瞬間、文字通り僕は息を呑んだ。

モップを持っている手が止まる。
利用者達でざわざわと賑やかな施設内。物が雑多に置かれた壁際の棚の上に、それは紛れていた。

雑誌ほどの大きさの額縁に飾られた、小さな丸。極々華奢なラインの円形に違和感を覚え近づいて見た時だった。

同時にあっと声が漏れたと思う。
まるで意図せずに。

それはとても細やかな点の集合体だった。
寸分の狂いも見せない点が美しく滑らかな曲線を描いている。目を凝らすとようやく分かるほどの、微かなインクの擦れ。
そう。機械の仕業のごとく正確なこの丸は、誰かの手で描き上げられたものだ。およそ人間技と思えない。

いったい誰の作品だろうか。サインらしきものは見当たらない。

振り返ると目前に彼はいた。
落ち着きなく動き回る人々を背に、作業机で紙にペンを落としている。

静止していると見間違うほど、実にゆっくりと描き手を動かし丸を描いていた。

僕はいよいよモップを壁に立て掛けその様子に魅入った。


重度の障害者が集う施設。
ここでは何があっても利用者に声を掛けてはいけない。人によってはパニックを起こすからだ。


見るだけならと思い、気取られぬよう気配を殺し、美しく形成されてゆく円の完成を見守る刹那。
うろうろと室内を徘徊する利用者の肘が彼に当たる。ポロとペンを取り落とす。

どうしようと考えあぐねいているうちに、彼は座ったまま手の平で頭を叩き始めた。リズムよく小刻みに、徐々に強く。

「うーうーうーうー」

うめき声が漏れる。
職員に伝えるべきか。狼狽していると少し離れた場所に座っていた中年女性が立ち上がり静かにこちらに近づいてきた。

ごく自然に落ちたペンを拾いテーブルに置く。
そのまま僕の横まで来ると小さく囁いた。

「大丈夫、しばらくしたら落ち着きます」

二人並んで行く末を見守る。


「突然話しかけてすいません。あの子の母です」

「あ、そうでしたか。こちらこそすいません。どうしたらいいかも分からず…」

「気になさらないでください。息子は自閉症なんです。いつもと少しでも勝手が違うと、ああやってパニックを起こすんです」

その語り口調は達観していて、この状況に幾度も直面してきたことが伺い知れる。
顔に刻まれた無数の皺。落ち窪んだ目元と痩せこけた頬。随分と苦労してきたのだろう。

数秒もすると彼は頭を叩く手を止め、また何事もなかったかのように作品を描き始めた。


「驚かせてすいません」

深々と頭を下げる母親の姿に僕は胸の奥がずしりと重くなるのを感じた。

「いえ、そんな。こちらこそ何も知らずに、息子さんの作品に魅入ってしまって」

意表をつかれたか、僕のひと言にくりくりとした眼をさらに大きく見開く。

「作品、ですか」

「はい」

「作品だなんて、初めて言われました」



僕たちは彼と二席離れた所に並んで腰を下ろした。


「あの子、この施設に通い始めて毎日決まった時間にあの丸を描くようになったんです。それこそ最初はミミズがのたくったような物で…」

そう言って見せてくれたのは辞書と見間違うほどの分厚いファイル。
いままで描いた全てを彼女はファイリングしていたのだ。

「見てもいいですか」


一枚目は丸ですらなかった。
長さの疎らな太く不恰好な点が縦横無尽に駆け巡っている。

ページを捲る。
しばらくは一歳時のそれのような書き殴りが続いた。

しばらくすると、点に均一性が見え始める。

さらに捲る。
点が線に変わり徐々にカーブを描き始めてから、僕はもうすっかりとその世界観に捕われてしまう。変化はごく僅か。でも確かに成長し続けるその曲線に。
紙を捲るスピードが速まるとまるでパラパラ漫画のように絵が動き出して見えた。

この画は、生きている。


子の成長過程を見守るがごとく、なんとも言えない感情が胸のうちから込み上げてくる。
気づけば頬を涙が伝っていた。


「あの、大丈夫ですか」


はっと我にかえる。

「すいません、ちょっと感極まったみたいで。息子さんの作品、とても素晴らしいです」

服の袖でゴシゴシと頬を吹く。
高校の修学旅行でボッティチェリの「春」を見た時以来の感情だった。

「作品だなんて、そんな…」

「立派な作品ですよ」


つい数ヶ月前の出来事が脳内を駆けめぐる。

片田舎の美術部で、自身の絵が一番上手いのだと信じて疑わなかったあのころ。
当時の僕がこの作品に出逢っていたら、少しは違っていたのかな。

いや。
ここにくる経緯。全ての元凶こそがあの挫折だった。つまりはそれが無ければこの作品には出逢えていないのだ。


予備校で他の生徒達の絵を一目見ただけ。
それだけで僕は筆を持つことが出来なくなった。

引きこもりがちになり、見かねた両親にここのバイトに行くように言われた。
僕自身も現状を打破しようともがいていた最中、気分転換にでもなればと気分を奮い立たせ通い始めた。

なんとも皮肉な話だ。


「僕、絵描きを目指してるんです。だから分かります。この絵がどれほど素晴らしいものか」

「そうなんですか」

彼女は腑に落ちないようで、けれどどこか嬉しそうに、手にしたファイルへ目を落とす。

ふと彼に目をやるとこちらに視線を寄越していることに気づく。

「あら、めずらしい」

「え?」

「ああやって興味を持って何かを見ることは滅多にないんです」

目線は合わない。
全体像をぼんやりと見ているといった印象だ。

僕は彼のその姿に何かを突き動かされるような、そんな衝動に駆られる。


描きなよ。

勝手な解釈だと思う。
けれどそんな風に訴えているように思えて仕方なかった。



その日から就業三十分前にきて彼の横で円を描き始めた。
視界に入らぬよう、手先を盗み見ながら。予想はしていたけれど同じように描くことが如何に困難かということがよく分かった。彼はきっかり十分で描き終える。

一週間もしてやっと円に成り始めたころ、あれほど耳障りだった周りの喧騒がまるで気にならなくなった。
見えない薄い膜に包まれたような、妙な居心地のよさ。それが並ならぬ集中力と緊張感から作り出されたものだと気づく。

彼は常にこの世界の中にいるのだろう。


僕の意識は驚くほど研ぎ澄まされていた。
小さな世界で自らの力量を知らされ心折れたあの日が、実に瑣末な出来事に思えるほどに。


夏休みの終わりにバイトを辞め予備校に戻ることを決めた。
描くことは人と競うことではない。自らの研鑽なのだと思えるようになってから、ようやくスタートラインに立てたのだと実感する。


「ありがとうございました」

僕は彼の母親に深々とお辞儀をする。

「いえ、そんな。こちらこそありがとうございました。あなたが横に座って描く間、息子もとても嬉しかったようです」

「そうなんですか?」

「ええ。表情が少し違うもの」

まるで分からないけど、きっとそうなのだろう。
彼は相変わらずいつもと同じ様子で円を描き続けている。


「到底追いつけそうもないと思いましたが、そもそも彼は誰かに評価されるために描いているわけではないんですね」

バッグからハガキサイズの画用紙を取り出す。
彼の顔をスケッチしたものだ。


「これ、下手くそですけど。よかったら」

彼女は目を輝かせた。

「そんな、とてもお上手。息子の特徴をよく捉えています。額に入れてあの子の作品と並べて飾ってもいいですか?」

恐れ多い、と言いかけたが飲み込むと、黙って頷く。

「大学に受かったらきっとまた来ます」

もう一度深くお辞儀をしてから彼の方に視線を送る。

呼応するよう彼の手が上がり、ゆっくりと宙に丸を描いた。


目には見えない。
けれどそれはとても、美しい。

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