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アザラシの羽衣②【創作大賞2023-恋愛小説部門】

1話:

https://note.com/ayanekozumu/n/n00f4c77f5860

3話:

https://note.com/ayanekozumu/n/nd49f12dc6862

2話本編

 今日も今日とて雨だが、平日の仏滅だからか、結婚式場の雰囲気はさほど慌ただしくはない。私は従業員控室でお昼を堪能していた。さすがに従業員控室はガラス張りではない。ドラマでよくある会社の更衣室のような、雑多なものであふれかえる小部屋だ。
 今日のお弁当は萌特性、ホワイトソースのオムライスである。仕事前に歯を磨くとはいえ、口周りがあまり汚くならず、口臭もきつくならない。さりげなくそんなお弁当を用意する気遣いをしてくれる萌の調理姿が、どうしても頭に思い浮かぶ。
 手を合わせて呟く。ごちそうさまでした。普段ならここで読書タイムになるのだが、私が鞄から取り出したのはスマホだった。スマホを操作している私に、少し遅れて後輩が顔を出す。
「お疲れ様です。今日の花嫁さん、ウエディングパンツスタイル、かっこよかったですね。先輩も似合いそう」
 最近では花嫁のパンツスタイルも珍しくない。スカートが苦手な人はいるものだ。それにすらりとした足の長さが強調される。はにかみ笑顔の花嫁も素敵だが、花婿の隣で自信満々に笑い堂々と立つ花嫁は、隣で支え合うのではなく、花婿のピンチには率先して助けに行く。そんな気概が見えて、頼もしくかっこいい。格好だけ見ればパンツスタイルは私に似合うのかもしれないが、その笑顔を知っている私はどうにも着こなす自信がなかった。
 私の隣に腰かけコンビニ袋を置いた後輩は、スマホを弄る私の顔を物珍しそうに覗き込んだ。
「先輩。何を見てるんですか」
「昨日行った水族館の写真」
 後輩にもスマホの画面を傾けて共有する。大迫力に感動した巨大水槽。ガラス越しにアザラシとキスしそうな勢いの萌。意外と辛かったラッコカレー。大きな口を開けてカエルソフトを食べる空と、反対側からつまみ食いする萌。イルカショーの迫力に拍手する萌と空の動画。ジンベイザメとアザラシを泳がせている空。次々と思い出を見せる私に、後輩は感心したように「へぇ」と呟いた。
「鉄の女も水族館行くんですね」
「まず第一の感想がそこ?」
 あまりにも人間扱いしてくれない後輩だが、今も熱心に写真を見てくれることに免じて「友達の子供のリクエストでね」と無難に返しておいた。昨日は何枚撮ったのだろうか。スマホを買って初めて、充電が切れそうになる事態に陥り慌てたものだった。
 最後まで見終わると、後輩はおにぎりを取り出し、大きな口を開けて頬張り始めた。私は最初からスマホの写真を見返し始める。
「そういえば昨日、先輩に告白した花婿、覚えてますか?来てましたよ」
 一瞬誰のことかわからず首を傾げた。後輩が「ゆるふわウェーブのホワイトニング男」と追加し、ようやく思い出す。自分の結婚式に私をナンパしてきた、サーファーのお客様か。
「放っとこう」
 今は写真を見ることで忙しいからという言葉は心の中にしまい込んだ。なんとなく、これを言うのは私のキャラではない。後輩は大きく頬張った一口を飲み込めば、感心したように声を上げた。
「先輩、ほんといつもいつも余裕ですね。おっとな~」
「ただ興味がないだけだけどね。それに今日は特別気分がいいだけだから」
「へぇ、あの鉄の女が」
 にやにやとチェシャ猫笑いを浮かべる後輩に気づき、口を滑らせすぎたと時計を見るふりをして話を打ち切る。私は歯磨きセットを持って控室を後にした。今日は口を滑らせすぎてしまったが、それもしょうがないことだろう。
 だって、昨日手を繋いだくすぐったさが、まだ掌全体にまであふれていた。それがあれば、なんでも大丈夫な気がした。

 梅雨が明けた解放感で人々が外にあふれる中、私たち三人はなかなか次のお出かけができずにいた。萌は私が休みの日に、お姉さんの手続きやお姉さんの家の掃除、萌の家の掃除で出かけることが多かった。どうやらお姉さんの家と萌の家は近所だったらしい。出かける際は必ずと言ってといいほど空とのお留守番をお願いされる。とはいえ、萌はくどくど留守番を頼むことはしなかった。水族館の楽しい思い出があるからか、萌は「不必要な排出は禁止」とはいわず、「できるだけお家で遊んでほしい」と、眉を下げる程度にとどめていた。
 それでも、私も空も萌を傷つけるつもりはなかった。だからそういう時は家で空とお絵描きをしたり、萌との昔話を語って聞かせた。
 私と萌は、ろくな別れ方をしなかった。にも関わらず、思い出すのは授業中にこちらを向いて突然変顔してきた萌の顔とか、昨日の夕飯はなんだった?という質問だけで昼休みをの時間を潰した話というように、些細でとりとめもないことばかりだった。時には萌のお姉さんであり、空のお母さんの話も披露した。先に中学生のお姉さんからアドバイスしてもらった、これから難しくなる勉強のやっつけ方の話。萌がいないときはいつもお姉さんが気にかけてくれて遊んでくれた話。お姉さんとは本を貸し借りしたり、感想をいいあった話もした。萌とともに、お姉さんとは長い間会っていなかった。そうやって思い出が溢れるたびに私は鮮明にお姉さんの笑い声を、じっと見守る眼差しを、話したときの季節を思い出して、いまだにお姉さんがいなくなった現実を受け止められずにいた。
 私は萌のように喜怒哀楽の感情を爆発させたような話し方はできない。訥々と事実を語るような、研究発表会のような雰囲気だったのにもかかわらず、空は適切なタイミングで何度も頷き、目をじっとあわせながら話を聞いてくれた。空は空のお母さんの話でも、瞳を落ち着けていた。
 時折私が二時間も三時間も一生懸命語りすぎて、空が眠そうに眼を擦るときもあった。その時は申し訳ない気持ちやら、授業中に居眠りする生徒を見つけた先生の気持ちになったりもした。

 今までの雨量は何だったのかと思うほどあっけからんと梅雨が明け、本格的に太陽が痛み出すような晴天が続いた中の、今日は久しぶりの雨である。
 今日も萌は出かけており、空と私でお留守番していた。スマホが光り、一回震える。「今から帰るよー」と音符付のメッセージを見て、窓の外に目をやった。昼間から電気をつけなければいけないほど分厚い雲が覆い被さるものの、外を歩いている人は傘を差す人、差さないない人まちまちだ。空の元居た家は隣県だから、萌は電車を乗り継いで隣県まで手続きをしに行く。いつも萌は遠慮して駅から歩いて帰ってくるが、一仕事終えて疲れている萌を徒歩で帰らせるのは忍びなかった。雨も降っているし、と心の中で言い訳を付け足していく。雨が降っていなければ、太陽が痛いしと付け足していただろう。
「駅まで萌を迎えに行こうか」
 スマホから顔を上げ、テーブルで絵を描いている空に声をかけると、空は立ち上がり敬礼した。
「かしこまりました」
 空は外出用のお気に入りのポーチをすぐさま持ってきた。本当にいい子だ。

 駅近くの駐車場に車を止めて、空と手を繋ぎ改札口まで向かう。ちょうど電車が駅に着いたタイミングだったらしい。次々と改札口に人が吸い込まれ、少し落ち着いたかなと思ったタイミングで、ちらちらと人の隙間から萌が見え、隠れた。萌が気付くかはわからないけれど、私と空は萌を指さしては、繋いでた方の手をあげて萌に振った。二度三度振っただけで萌は気づき、片手で大きく手を振りながら駆け寄ってきた。早く早くと切符を改札口に飲み込ませる。片手に傘を下げ、太陽のように笑みを浮かべて駆け寄る萌は、今日も可愛い。
「お迎えに来てくれてありが」
「萌か!?」
 突然の怒鳴り声に、周りの目線が一斉にある人を見つめた。空は不思議そうに周りを見回し、こちらをじっと見つめているを見つめた。私と萌も最初はその声の主を不思議そうに見つめた。だがその男が何者かわかったとたん、呼吸が不自然に跳ねた。
 脂ぎってボリュームのない髪の毛。糸のような目。ニキビまみれのテカった顔。贅肉で飛び出た腹。その男は空を指さしていた。咄嗟に萌の腕をつかみ後ろに隠す。すると男は微かに顔を上げ、私と萌を見た。
「いや、違うなぁ。お前が、萌か。そしてお前が、沙重か。」
 ざらりとしわがれた声の、粘着質な話し方。握っている萌の腕が震えている。「誰ですか?」と尋ねる空も咄嗟に後ろに隠した。
「久しぶりじゃないか。恩師に挨拶もなしか、ええ?」
「なんでここにいる」
 こういうとき、鉄仮面は都合がいい。こいつに動揺していることは、一ミリもバレてはいけない。この男はそういう綻びを逃さず、こじ開けてくる。萌と空を守るためには、ここは一歩も引いてはいけない。しかし、男を見るたびに頭の中は光が点滅する。怒りでだろうか。恐怖でだろうか。トラウマで、だろうか。点滅する光はどんどん大きくなり、理性を攻撃する。ただの白い光は赤い絵の具が混じるように、赤い光の点滅に変わった。目の奥が痛い。
 特に表情を変えることのない私を、その男は忌々し気に睨みつけた。「変わらないな、その顔」
「ここは俺の地元だ。いつ帰ってきてもいいだろう。それにもう、時効だ。皆覚えてないしな。……お前たち以外」
 男は憎々し気に吐き捨てたが、吐き捨てたいのはこちらの方だった。酸っぱい胃酸がせりあがりそうになるのを、何とか押しとどめる。頭の中の点滅に合わせて、自然と呼吸が早くなった。逃げるタイミングを見計らっているのに、赤い光が邪魔をし、自分の呼吸の音も大きく聞こえ、乱れる。
 手から伝わる萌の体温は、氷のように冷たい。軽く腕を引こうとするも、萌は腕すらも全く動かなかった。それに、ここには空もいる。すぐ逃げ出せてもスピードが出ない。どうする、萌と空を守るためには、どうする。
 赤い光の点滅の隙間で、なんとか残っている理性だけでも働かせる。頭が痛くなるほど必死で逃げ道を考えていた。それなのに、現実逃避を助長するかのように、脳は少ない理性を総動員させて、目の前の現実とは違う映像を映し出した。
 私が既婚者に告白される呪いをかけたのは、この男だと思っている。

 私たちが六年生になった時、体育教師が代わった。脂ぎってボリュームのない髪の毛。糸のような目。ニキビができテカった顔。贅肉で飛び出た腹。全く体育教師らしくない不健康そうな体をしたこの先生は、外見通り何も教えなかった。
 授業中は、竹刀を持ち歩き、意味もなく床を打ち威嚇する。少し男子が騒いだぐらいで怒声を浴びせ、適当にバスケやバレーのゲームをさせるも、五分に一回はゲームを止めさせる。そして方頬だけを上げる歪んだ笑顔をしては、教えていないことを専門用語を使いねちねちと説教するのだ。その時のざらりとしわがれた声と粘着質な話し方を、文字通りみんなが嫌っていた。
 特に女の子たちは、別の理由もありこの先生のことを毛嫌いしていた。この先生が授業を始める前、着任当初から、あの体育教師はなんだか嫌な感じがすると噂が駆け巡った。女の子たちの情報交換は侮れなかった。「男を呼ぶときは苗字なのに、女を呼ぶときは名前で呼ぶ」とか「嫌らしい目で舐めまわされた」とか「無駄に背中や頭に触ってこようとする」と、着替えながら様々な情報が駆け巡った。確かに私も思い当たる節はあったが、時にその情報交換は飛躍しすぎるときがあった。「成績が悪い女の子を脅して性行為に及んだ」とか「気に入った生徒は何が何でも自分のものにして、赴任前は女の子のコレクションが十人はいた」とか。女子の情報収集能力に感心すること半分、どこまで本当なんだと困惑する気持ち半分。この半分の気持ちは大きく、嘘だと思われる情報が極端すぎて、真実の迫力が弱くなってしまう。
 だから私は心を閉じ、あの先生を気にしないように努めた。心の内側では少し、憐れんでさえもいた。だってあの先生は、左手の薬指に結婚指輪をしていた。結婚してる人が愛する人を裏切るなんて、考えてもいなかった。若かった。
 私は皆の噂話を又聞きするだけだった。しかし萌は私より交友関係が広かったから、直接そういう噂を教えてもらう立場だった。そして萌は熱心に話を聞くたびに度、私に向かって声をかけたのだ。「気を付けなきゃだめなんだからね!」と。一切の笑顔なく、私の肩に手を置き、瞳に波風を立てることなく、矢をまっすぐ放つように言ってくるのだ。「萌がね」合言葉のように私はそう打ち返した。卒業が近づくにつれて、萌は告白される回数が増えていった。冗談でもなんでもなく、私は本気で、萌はその言葉を毎日自分自身に言い聞かせなさいと、思ったものだ。 

 私たちの卒業も間近に控えていた、二月。私たちの学校からは中学受験をする生徒もおらず、誰も欠けることなく、このままなにも変わりなく中学生活に突入するものだと思っていた。
 この日も、あの先生に授業の片づけを命じられた。噂がまとわりつく体育教師に指図されながら授業の準備や片づけをする体育係はあまりにも不人気すぎて、私が通年で担当することになっていたのだ。
 今日はバスケだったから、モップをかけて、ボールを集め、道具を倉庫に入れて終了である。その倉庫の鍵を職員室に戻すのが、体育係の役目だった。先生の前で、モップの数とボールの数を確認する。問題なく片付け終わったので外に出ようとしたが、先生が扉の前をふさいでおり、出られない。私は先生を見上げた。
 倉庫に電気は通していない。窓から差し込む光だけでは、先生の輪郭を映すだけで、目の色の光や揺れまでは見えなかった。
「なあ、沙重。俺と付き合え」
 掃除に付き合え、体育係だろと言わんばかりの軽い口調で、先生は言った。だから私も同じ調子で返したのだ。
「お断りします」
「まあそういうなよ」
 先生は扉にもたれかかった。倉庫を出るには先生の後ろにある扉から出るしかないが、先生はどうやらまだ私を開放する気はないらしい。暗闇に目が慣れ、先生の瞳が光ってるのが見えた。女の子たち曰く、「嫌らしい目」
「お前からは暴虐心が擽られる匂いがするんだよなぁ。誰かの一番として大切に扱ってもらえない。相手の欲望のために利用される、二番手三番手から漂う屈辱の匂い。ああ、たまらねぇなぁ?」
 先生は一歩近づき、私は一歩下がる。胸を膨らませて呼吸し、粘っこい息を吐き出す先生からは清々しさを一ミリも感じられない。思わず息を止めた。
「お前は本当に興味深い。お前の鉄仮面が剥がれるところが見たいんだよなぁ。ぐちゃぐちゃに汚して痛めつけて踏んづけて。それでもその鉄仮面が保つのか、俺は無性に気になってるんだからよぉ」
 鳥肌が全身を包む。だけどこの男には見えないだろうし、見えたところで知ったこっちゃないだろう。萌の「気を付けなきゃだめなんだからね!」の声が脳内を駆け巡った。うかつにも二人きりになってしまった状況に心の中で詫びた。だが、この時の私はまだ余裕があった。先生と二人きりになったのが、萌じゃなくて本当によかったと、思う余裕があったのだ。だから顎を上げた。先生の目をまっすぐ見つめた。
「それで私がほいほい付き合うと思ってるようなら、ただの馬鹿では?」
 先生は一歩近づき。その分、私は一歩後ろに下がった。倉庫は狭い。後ろに引いた足にボールの入ったかごが当たり、私は視線を下げた。あと数歩しか後ろに下がれないと気づいても、私はまだ余裕があった。若かったのだ。何がおかしいのか、先生は鼻で笑った。
「靡くしかなくなるんだよ、お前は。俺は知ってるからなぁ」
 先生は左手で私の前髪を掴み、顔を上げさせた。先生の左手の薬指には、結婚指輪。先ほどまでちらちらと視界の隅で光っていた結婚指輪が、皮膚に触れる。利き腕じゃない方の手だから手加減しているつもりなのかもしれないが、頭皮が引っ張られる鈍い痛みが広がる。それでも表情を作らない衰えた私の顔の筋肉を見て、先生は感心したように笑った。
 痛みよりも強烈な言葉を、先生は無遠慮に私に投げかけた。
「萌に言ってやろうか? お前がいつもどんな目で萌を見ているか」
 呼吸も心臓も止まった。萌をどんな目で見てるかなんて、一番私が知っている。水族館の時からずっと、私は日増しに上がる萌への熱量を誇り、そして困惑し、怯えていた。なぜこうも、日増しに好きになるのだろう。なぜ止めようと思えないのだろう。今は鉄仮面でバレていないけれど、いつか、萌にバレるのではないか。バレて、関係が崩れてしまうのではないか。
 なぜバレた。なぜよりにもよって、この男にバレてしまったのか。何も言わない私に満足したように、先生は投げ捨てるように前髪を解放した。私は体勢を崩し座り込んだ。私の体に押されたかごは、大きな音を立てて壁にぶつかった。
「お前が俺と付き合わないなら、萌を身代わりにするからな」
 先生が倉庫の扉を開けた途端に、萌がするりと倉庫の中に入り、私のそばに近寄った。先生はぎょっとしたように萌を見ると、光の中へ逃げるように立ち去って行った。
「沙重、大丈夫?」
 萌の言葉は私には届いていなかった。先生に、いや男に触られた頭が気持ち悪くて、何度も何度も髪の毛を縛りなおした。ここは暗い。そして床は瞬く間に体温を奪っていく。萌が隣にいても寒い。遠くでチャイムが鳴る。休憩時間が終わる。
 萌の目はずっと見られなかった。

 今、雨雲が厚く太陽を隠しているとはいえ、駅の電球に照らされて、男の表情はよく見える。目が血走ったように赤くなっているのに、方頬だけを上げる歪んだ笑みを浮かべている。薄く開いた唇から見える歯は黄ばんでいる。もしかしたら、倉庫の時もこんな顔をしてたのかもしれない。左手の薬指に指輪は、ない。
 男が近づく。後ろに足を引きそうになって、誰かの体に当たった。萌の腕に力が入り、鎖が皮膚に食い込むように痛い。空が咄嗟に私の服を掴む。今、咄嗟に二人は逃げられないことを悟った。逃げずに、萌と空を守るには。
 私は二人から手を離して、壁になった。男は私の前髪を掴んだ。昔と同じように。いや、昔とは違い右手で掴んできた。昔よりも手荒に、乱暴に。思い出の中より頭皮が痛んだ。ぶちぶちと、髪の毛が頭皮と名残惜しんで離れていく。
「沙重!」
「沙重ちゃん!」
 二人の声が遠い。
「なんで女として役立たずな沙重と、男を不幸にする萌が、他人の人生をめちゃくちゃにしといて仲良く家族ごっこやってんだぁ?なんで幸せになってんだぁ?あぁ?」
 この男は昔から人の弱点を詰るのが得意だった。
「お前たちのことはいつかめちゃくちゃにしてやりたいと思ってたんだよなぁ。そのチャンスをもらったってわけか」
 前髪を掴んだまま持ち上げられる。さらに何本かの髪が頭皮から別れ、痛みに熱くなる。いや、熱いから痛いのか。痛みを抑えようと、つま先立ちになる。男の腕を離そうと、両手で相手の手首に爪を立てる。丸太のように太い腕には、全く爪が入っていかない。
「俺はお前の歪んだ顔がずっと見たいと思ってたんだよ、ずっとずっとずっとずっとずっとずっと」
 私はつま先立ちになり腕を殴る。何回も何回も。自分の手は赤くなるのに、丸太の色は変わらない。男は私の体を下から上に眺めた。そして、最後に私の目を見た。鼻先がくっつくほど近づけば、男の細い目にも私の顔が映る。私の、鉄仮面が。胸が大きく動いて、深く呼吸された。淀んだ掃きだめの息がかかる。
「なぁんか、二番手の匂いが薄れちまってねぇかぁ?もっと精神的に痛めつけないとだめか」
 男が呟いたその時、突然、警告音があたりに鳴り響いた。頭が痛くなるような、耳障りな音は止まらない。力いっぱいなり続ける警告音は、私の背後から聞こえた。
「助けてください!」
 空の、子供の悲鳴を含んだ大声に、にわかにあたりが騒がしくなる「何をしている!」と駅員が駆け付ける前に、男は私の頭を投げ捨てるようにして逃げた。つま先立ちしていた反動で、たたらを踏み床にへたり込む。床に崩れ落ちる直前、萌と空は飛びつくように私の背中から抱き着いてきた。
 お腹の前に回される小さな腕と、肩から回される細い腕。二人の腕を確かめるように触れる。萌の腕は人間の柔らかさが戻り、空の手には卵のようなキーホルダーを握っていた。それがキーリングの抜けた防犯ブザーだと気づいたのは、警告音がそこから鳴っていたからだ。正体に気づけば、警告音の不快さはいつの間にか消えていた。
「空ちゃん、偉いね。ちゃんと約束通りに防犯ブザー持ち歩いてたんだね」
 萌の声は意外にもしっかりしていた。萌の手が動き、固まったまま動かない空の手からキーリングを受け取って、防犯ブザーに戻した。一瞬痛いほどの静寂が戻り、徐々に周りの騒がしさが戻ってきた。周りは防犯ブザー以上に騒がしかった。
 周りの人が円を描きながら遠巻きに私たちを見ている。しゃがみ込み、私たちと目を合わせる駅員に声を掛けられるも、私の耳は騒音ばかり掴んでしまい、人の声の形をとらえられない。そんな私の代わりに、萌がしっかり受け答えをしてくれてるらしかった。
 私は一つに結んでいた髪の毛を解いた。髪を手櫛で整え、結びなおす。もう一度、結びを解いた。手櫛で整える。結ぶ。解く。整える。結ぶ。何度も何度も、手櫛で整え結びなおす。いまだに手は赤い。いまだに前髪は熱い。触られた箇所の厄が落ちるように。自分の身を清めるために。
 ふと、私の手に誰かの手が触れた。髪の毛を縛る動作を止められた。駅員も空も、私の正面に回り、心配したように私を見ている。
 萌の顔が見えないと思ったら、萌はまだ私の後ろにいた。萌が私の頭を撫で、撫でる勢いはそのまま、髪の先まで梳いた。母親が愛しい我が子にするように、手をブラシに見立て、丹念に髪を梳く。萌は私からそっとヘアゴムを奪い取ると、一本の乱れもないように、きっちり私の髪の毛を結んでくれた。
「沙重、守ってくれてありがとう。動けなくてごめん」
 ヘアゴムで作った最後の輪っかに髪の毛を通される。漸く萌が正面に回り姿が見えたと思ったら、あまりにも綺麗な弧をかいて、萌は笑った。まるでさっきまでの出来事が何もなかったかのように。なかったことにする覚悟を見せつけるかのように、歯を見せて笑ったのだ。ずっとずっと、私の頭を撫で続ける。
 私の中から不快感が消えると同時に、もう一つの感情が心を占めた。男と対面した時以上に、恐ろしかった。こうやって笑う萌を、私は見たことがある。
 周りの生け垣は崩れ、人々は立ち止まることなく通り過ぎる。傘から水滴がつたり、落ちて、床で範囲を広げる。服にまで侵入した水は気持ちの悪い感触で肌を撫で、体温を奪った。
「今度こそ、私が守るからね」」
 萌の白い歯が光る。目の前を蝶が優雅に通り過ぎていった。

 駅員に事情を説明し、呼ばれた警察官に被害届を提出し終えるころには、分厚い雲の向こうで日が暮れていた。足も口も重く、引きずるように体を家に運べば、三人とも思い思いに飲み物を飲んで、固形物は食べずに夕飯を済ませた。私はコーヒーを。萌はカフェオレを。空はホットミルクを。各々の精神安定剤を口にする。
 この部屋はいつも音で溢れていた。だけど、さすがに今日は無理だろう。いつもはじけた笑顔を浮かべる萌も、静かだけど進んで話をする空も、今日は控えめだった。
 かくいう私も、今日は話したいことがあったにもかかわらず、どう切り出していいのかわからない。いつも二人の聞き役でいることが誇りなのに、異常事態が起きたときにはただただ歯がゆい。マグカップが机に置かれる音から逃げるように、雨の音を拾う。
 三人とも身支度が済み、あとは寝るだけになった。結局、私は言いたいことが言えだせなかった。
 おやすみなさいと挨拶をする萌は、空の手を引いて寝室に向かおうとした。しかし、空はその場から動かない。萌と私は空を見た。空は顔を上げ、私と萌の顔を交互に見る。唇は引き結ばれており、唾を飲み込む音が聞こえた。
「今日は私がソファーで寝ます」
 私は萌の顔を見た。萌も困惑したように私を見、空を見た。空はパジャマの裾に皺が寄るほど握りしめている。空はそんな私たちの困惑をよそに、顎を上げて声を大きくした。
「沙重ちゃんも萌ちゃんも、駅からずっと変な顔してます! 言いたいことがあるなら、今言わなきゃダメなんです!」
「え、なに。どうしたの空ちゃん」
 萌は空と同じ目線まで屈みこんだ。一生懸命空の肩を撫でるも、空の肩での呼吸は収まらない。空は萌の手を振り払り、また自分の服を強く握りしめ俯いた。肩が細かく震える。
「私も、母が死ぬ直前に話し合いました。お互い言いたいことを全部言って、全部聞けました。話し合ってよかったって、思ってます」
 萌は口を手で抑えた。私は何も言えなかった。空からお母さんの話をしたのは、初めてだった。空はまた何度か深呼吸して、落ち着いた声で続けた。空はずっと床を見ている。ずっと床に話しかけている。
「だから、今日は私がソファーで寝ます。二人はよく話し合わなきゃだめなんです。言いたいことがあるなら、今言わなきゃダメなんです」
 失礼しますと、頭を下げる空。猫を保護して私に頭を下げてきた小学生の萌の姿が、重なって見えた。
 空は問答無用でソファーに向かった。私は空の手を思わず掴んだ。振り払われてもいいと思った。実際空は振り払おうとして、私は手に力を込めた。振り払えなかった空は諦める代わりに、視線を頑なに合わせない。
「空ちゃんにいてほしい。ダメかな?」
 空は私の手を見て、私の顔を見た。ようやく空と視線があって、初めて空の瞳が涙で保護されているところをみた。空は音が出そうなほど首を横に振った。一粒、二粒、雨が降る。
「……ダメじゃないです。私も一緒にいたいです」
 堰を切ったかのように、ぽたぽたと、大粒の雨が次々と降る。ちゃんと言いたいことを言ってくれた空の頭を撫でた。しばらく床の上の雨は止まなかった。

 さすがに三人だとソファーにもベッドにも寝ころべないから、床に毛布を敷き詰めて川の字で寝ることになった。端っこが私と空、そして真ん中が萌だ。既に布団に座り込んで真ん中を開けている私と空とは対照的に、萌は頑なに真ん中になろうとしなかった。空に背中を押され、私に腕を引かれてもなお、抵抗した。立ったまま首を横に振りまくる。
「普通空ちゃんが真ん中か、話がある沙重が真ん中じゃないの?」
「私は萌と話がしたいし、空ちゃんには付き添ってもらいたい」
 珍しく引かない私に、萌は困惑したように黙った。萌の腕を引くと、軽く中腰になる。萌の後ろで空ちゃんが背中を撫でる。真ん中になってもいいんじゃない?と、態度で誘う空ちゃんを見て、なぜだか私の心がじんわりと温かくなる。
「今日は年も立場も関係なし。傷ついてる人が真ん中で労らわれるべきです」
「何言ってるの、傷ついたのは沙重じゃん」
 萌が私の額を指し示しているのはわかっている。駅員さんが張ってくれた絆創膏は、肌色だがやはり目立つ。
「物理的な話を言ってるんじゃない。それに、今日だけのことを言ってるんじゃない」
 この言葉が効いたのだと思う。萌はついに、私と空の真ん中で、座り込んだ。時間をかけてゆっくりと。萌はミイラみたいに体を棒にしながら、緊張した面持ちであおむけになった。胸にはアザラシを抱いている。空は萌の反対側に寝ころんで、萌の方を向きながらも、ジンベイザメの毛づくろいをしていた。
 漸く私も寝ころぶと、萌に向き直った。ミイラから石になったのかと見間違うほどわかりやすく、萌は体を固くした。
「萌、今日もあの日も、助けてくれてありがとう」

 私があの男に脅された、あの日。あの日の出来事には続きがある。
 私はあの男からひたすら逃げていた。前方から男が見えれば踵を返し、体育の授業があれば学校を休んだ。萌は私の奇行を怪しがることなく、何も言わず付き合ってくれた。きっと、萌はあの日の会話を聞いていたのだと思う。だけど何も触れない。何も言わず、何も聞かずに傍にいてくれる優しさは、出会った時と変わらずにただただ私を温めた。
 どうせあと一か月でこの学校を卒業するが、あの男は萌に接触して何を吹き込むのだろう。想像するだけで私は体の震えが止まらなくなった。そして頭の中も様々な思考が蠢いて止まらなくなっていった。考え込むと嫌なことをばかりが頭の中を駆け巡った。私の恋心を半笑いで嘘つき扱いする萌。私の恋心に困惑して距離を取る萌。友達以上の感情を理解できず、裏切られたと憎しみの目で私を拒絶する、萌。一回もそんなことされたことはなく、現実の萌はそんなことしないとわかっているのにも関わらず、私の頭の中の萌は容赦がなかった。頭の中の萌に追われ、授業も夜も、現実萌の話でさえもぼんやりすることが多くなった。
 だから、考えるのを辞めた。途方に暮れて、もうどうしようもなかったのかもしれない。あの男も、私も、口では何とでも言える。私は鉄仮面なのだから、萌にどう追及されようと、とぼけて見せる。私の恋心はないと、偽ってみせる。そう吹っ切れた。

 そうやって男からも萌からも逃げていた、一週間後。あの倉庫で、萌はあの男に襲われた。
 放課後、男に襲われたところ萌が防犯ブザーを鳴らし、たまたま通りかかった担任が助けに入ったのだという。学校側は穏便に済ませようとしたらしいが、正義感の強い担任が反発した。即、担任は萌の両親に連絡した。萌の両親は電話に困惑し、現場で激怒したという。両親はそのまま警察へと通報した。萌の服はそのまま帰るのが困難なほど破れていたという。
 男は逮捕された。「小学生教師の淫行」と大きく新聞に見出しが載ると、次々と被害者が声を上げ、余罪が判明した。噂は噂ではなかったのだ。真実があまりにもグロテスクすぎて、嘘だと耳を覆いたくなるような被害届ばかりだった。
 私たちの同級生は多感な時期に差し掛かる頃だ。美しい生徒と野蛮な先生。しかも合意なき淫行事件と来たものだ。生徒も先生も保護者もハチをつついたように大騒ぎになった。周りがどんどん正義の拳を振り上げて熱くなる中、私の心臓は反比例して氷のように冷たく固くなった。
 事件の翌日、萌は学校を休んだが、私は萌の家まで押し掛けた。「大丈夫?」とクラスメイトに心配されるほど、私の顔は青白くなっていた。そして冷たい心臓のまま、学校から萌の部屋まで走った。しかし意外にも、萌は頬に絆創膏を張っただけで元気そうだった。「どうしたの、病気?」と萌に心配されて、私の顔と心はようやく雪解けをしたのだった。
 萌のベッドに並んで座り、話を聞いた。服を破くときに男に触られたぐらいで他に接触はなかったこと。さすがに暴行にびっくりして身を捩ったら、男に「生意気だ」と左手で殴られてしまったこと。絆創膏は結婚指輪で軽く切れた傷の処置だということ。
 しかし、ほっとしたのはわずかな間だけだった。それは萌の告白から始まった。話し合時める前、あまりにも綺麗な弧をかいて萌は笑った。
「実はね、あの男の前でわざと油断したの。わざと煽って興奮させて、襲わせたの」
 私は目の前の萌が萌と認識できなかった。顔が変わったのかと思うぐらい、萌は歯を見せて綺麗に笑ったのだ。
「少しぐらい触られたって、減るものじゃないし。担任の先生もね、たまたま通りかかったんじゃないよ。私が呼び出しておいたの。担任の得意な卓球を教えてくださいって言って。でも来てくれるの遅くてさ。制服、お気に入りだったのに破られちゃって」
 白い歯を見せたまま、得意げにネタバラシする萌の口は止まらない。次第に早口に、熱を持ったように話し出す萌。どんどん、萌が萌でなくなっていく。萌でないものに変わっていく。萌の体がさなぎのように割れて、蝶になる姿が早送りで見せられる。成長していく姿は綺麗なはずなのに、グロテスクで。蝶は脱皮した体に見向きもしない。羽を広げ、清々しく飛び立とうとしている萌の体を、私は力いっぱい抱きしめた。羽をたたんで、たたんで、萌の体に押し戻す。萌は抵抗するように体を捩り、「痛いよ」と文句を言われたけれど、決して離さなかったし、何も話さなかった。
 萌も考えすぎて、眠れない夜を過ごしたのだろうか。眠れなくなって、頭が動かなくなって、それでもどうにかしなきゃと、私を助けなきゃと思って、危険な計画を立てたのだろうか。あと少しで卒業だったのに。卒業するよりも早く、私の厄を払い落とせるように、どこにでも行けるように、殻を破ったのだろうか。
 いつか、どう足掻いても、私たちは蝶になって飛び立つのだろう。ずっと同じ場所にはいられない。ずっと一緒はあり得ない。でも今はまだなってほしくない。私が理由で、飛び立ってほしくない。飛び立つときは、一緒がいい。
 私のせいで危ない目に合わせたこと。でも無事でよかったこと。私に負担を掛けないように、笑い話にしてしまおうとしていること。守れない私が無力なこと。すべての感情を腕の力に込めたら、萌は私の腕の中で大人しくなった。
 萌は私を安心させるように頭を撫でてくれた。撫でられるべきは、萌だ。私はあの男が触った以上に、萌に触れた。
 萌はいつの間にか私の腕で寝ていた。寝てからようやく、萌は泣いた。

 炎に石を投げ込むと、火の粉が飛ぶ。正義の火も、一つのきっかけで火の粉が飛び、消化ができなくなるほど燃え上がる。
 萌の家にも学校にも記者が殺到したことが、その一つのきっかけだったように思う。子供も大人も、本当の真実はどうでもいいらしかった。今まで出てきたグロテスクな真実に比べ、萌の淫行事件はあまりにも小さかった。だからだろう、意識してか無意識か、メディアが、近所が、萌の事件を面白がれるように尾ひれを付けて噂を流した。
 あの男は「萌に誘われた」と警察で証言した。メディアは嬉々として、大々的にその言葉を取り上げた。「本当の悪魔は淫行教師か?美人生徒か?」そのタイトルの雑誌を見たとき、私は目の前が真っ赤になった。その記事を見れば美人生徒が誰か、すぐわかるようになっていた。萌が何をされたのか、すべて嘘が書いてあった。プライバシーなんてどこにもなかった。証言が一人歩きし、萌は次の日から侮蔑や軽蔑、からかいの対象として見られるようになった。
 男に汚されたかわいそうな子。
 男を誘惑したのに警察に突き出した計算高い子。
 男を選ばない淫売。
 至るところに火花が飛び、火種にガソリンを注ぐように、噂の回る速度は速く、枝分かれし、そしてどれもが大きく成長していった。今や学校関係者だけでなく、町中煙たく思えるほどこの噂でもちきりだった。
 三月。萌は学校に来なくなった。家に行っても萌のお姉さんが会ってくれるだけ。そのお姉さんも、困った顔で笑うだけで、萌の様子を何も教えてくれなかった。
 私が萌の家から出ると、決まって近所の人たちがちらちら萌の家を伺っているのが見えた。直視はしない。目の片隅で伺うだけ。萌に聞こえるように大きな声で「変態」と大合唱しながら通り過ぎる生徒がいた。萌の家がゴミ溜めかのように、鼻をつまんで歩く人がいた。外壁が罵詈雑言で落書きされた。
 殴りたかった。全部全部全部殴りたくて、殴る勇気のない私は煙たい町を無言で立ち去った。

 卒業式の朝は、寒さが残るものの太陽の光に包まれると眠くなるような快晴だった。桜は地面から赤を吸い上げて、思い出の数だけ咲き誇った。
 私は体育館の石階を足で踏みにじり、卒業式に参加した。萌は卒業式に参加しなかった。萌の意思を反映するかのように、まるで萌という生徒が最初から存在していなかったかのように、恙なく式は進んだ。萌が存在してた形跡は、誰も座らない椅子だけだった。萌がいないまま卒業式が終わった。
 卒業式後。皆が教室に戻ると思い思いに散った。仲良しな子もそうでない子も混じりあって卒業式のアルバムに寄せ書きをした。フラッシュの光よりも眩しい笑顔をカメラに収めた。誰も萌のことは言いわなかった。萌は最初から入学していないことになった。
 私はその輪には混ざらず、荷物を持つと同時に学校を出た。萌のいないクラスにも、体育館の石階段にも、興味はなかった。卒業アルバムと卒業証書をもって、早く萌と会いたかった。きっと今日なら会ってくれる。なぜか根拠もなく、そう思っていた。男と縁が切れた今日なら、萌は会ってくれる。そう縋るしか、日々を生きるすべを知らなかった。
 萌の家の前には、大きなトラックが止まっていた。数百メートル先からでもわかる大きなトラックに近づくたび、私は嫌な予感がした。早歩きとなり、次第に駆け足で近づく。きっとあのトラックはただ宅配に来ただけだ。すぐに退く。そんな私の思いとは裏腹に、大きなトラックは私が萌の家の前についても動くことはなかった。
 次々と屈強な男の人たちが萌の家から荷物を運び出している。明るく、朗らかに、元気よく。玄関で立ち止まっている私に向かっても、男の人たちは元気に挨拶をしてくれた。でも私にはその男の人たちが強盗にしか見えない。
 そっと玄関から家の中を覗くと、お姉さんが男の人と話をしていた。しかしすぐに私に気づいて、手招きしてくれた。今まで玄関の外で追い返されていたのが嘘のように、すんなりと玄関の中に入った。
「最後になるから。元気でね」
 薄っすらと涙を浮かべたお姉さん言葉の意味を、私は分かりたくなかった。

 萌の部屋にはもう、何もなかった。電気もつけず、ただ正方形の箱に捕らわれた萌が、壁を背にして座り込んでいた。ぼーっと天井を見つめていた瞳が、私を捉えて笑みを浮かべる。弱弱しい笑みではあったものの、綺麗な笑顔でもなく、萌は何も変わっていないように見えた。私は知らず詰めていた息を吐いた。
「あれ、卒業式もう終わったんだ? 早く終わりすぎ」
 私は萌の言葉に何も返さず、萌の隣に座った。ベッドはもうなく、木は体育館の石階段ほどに体温を奪わなかったが、ひやりとした冷たさは馴染めなかった。
 私と萌はただ床と壁を見つめる。床にある小さな傷を、壁にある家具焼けを、ここには萌がちゃんと存在していた形跡が、ちゃんとあった。
「バレないと思ったのにな」
 萌は私の無言を意に介さず続けた。私は萌の声が聴きたかった。萌もきっと、私に言いたいことがあったのだ。少し会わない期間はあったけど、話し役と聞き役、変わらない役割が愛おしい。触れ合う肩が温かい。
「私たちの小学校ってさ、みんな同じ中学校に行くじゃん? そこで他の小学校と合流するじゃん? でもさ、既に中学校では噂が広まってるんだって。淫行事件の被害者の姉がお姉ちゃんだってことも、被害者が今年入学してくることも、ばれてるんだって。私とお姉ちゃんは顔が似てるから、きっと体の調子も同じなんじゃないかって、聞こえてくるんだって」
 私は何も言わなかった。言えなかった。煙たい町の様子を見ていたら、そうだろうなとしか思えなかった。そうさせてしまった私は、何も言うことができなかった。
「お父さんもね、お母さんもね、いろいろ言われるんだって。お仕事とか、買い物した先で。娘さんはかわいそうな子とか、なんで親がしっかり見てなかったんだとか。同情の目を装った、親切心で偽った、叱責のフリをした、正義の暴力をされるんだって」
「本当に、ごめんなさい」
 久しぶりに発した言葉が謝罪だなんて、不甲斐ないにもほどがなかった。いや、私はもっと早くに謝罪すべきだった。萌に向き直り、正座して頭を下げる。土下座する私を萌は慌てて顔を上げさせた。私はてこでも頭を上げなかった。こんなときでも鉄仮面の私を、見せられるわけなかった。
「沙重は何も悪くない。本当に、何も悪くないんだよ」
 萌の声が耳元から聞こえる。そっと抱きられて、背中を撫でられる。悪くない、悪くないと、呪文のように繰り返される。
「私は沙重を守れてよかったよ。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、それはとても喜んでくれた。沙重を守れたこと、本当に褒めてくれた。ただ、私は方法を間違えちゃった。それはね、めちゃくちゃ怒られたの。自分を大事にしなさいって」
 でもね、と萌の声が途切れた。背中を撫でていた手が時を刻む針よりも遅くなり、ついに止まった。
「お姉ちゃんもお父さんもお母さんも、私も、この町が嫌になっちゃった」
 萌の体温が離れる。体温を取り戻すように、私は顔を上げた。萌の笑顔は、綺麗に弧をかいていた。
「私たちは私たちを大切にするために、遠くに引越すね」
 私は手を伸ばした。萌はその手を避けて立ち上がった。羽が見えた。
「沙重も、自分を大切にするために、今までのこと全部忘れて」
 萌は一度だけ私の頭を撫でた。萌の背中に羽が見えて、そして虫かごから飛びたっていった。
 何を言われたのかわからなかった。何度も言葉を反芻するたびに、木が私の体温を奪っていく。体が、心が、頭が冷えたとき、水が氷に変わるようにゆっくりと、ようやく萌が何を言ったのか理解した。理解が追いついても、凍り付いた体は動かなかった。
 行かなきゃ。
 待って。
 話をさせて。
 唯一動かせるのは、口だけだった。
「なんで勝手に決めるの! 私に相談してくれなかったの!」
 誰もいない虫かごの中で、私の声を壁や床が聞く。窓の外から「以上で終了です」と、はきはきした男の人の声が聞こえる。
「守らせてよ!」
 萌はアザラシになりたかったのに。蝶になんかなりたくなかったのに。
 床を叩いても、大声を出しても、萌は戻ってこなかった。萌の香りが、体温が、私からすり抜け飛び立っていく。そしてもう二度と、寄り添われることはなかった。
 萌は引っ越していった。どこに引っ越していったのか、先生にも親にもクラスメイトにも尋ねたけれどわからなかった。私はこんなときでも鉄仮面だった。泣きたかった。泣けなかった。心臓はさなぎのように割け、傷口からはずっと赤くグロテスクな液体が流れていた。

 萌がいなくても私の日常は変わらない。萌が学校を休みはじめたころから少しずつ萌のいない日常に慣らされてきていた私は、萌が本当にいなくなっても変わらず生活した。中学校に入学して、難しい勉強に頭を悩ませて、特に友達を作らず、今度の私の居場所は図書館になった。図書館は、私語厳禁だった。エアコンがついた部屋で固い椅子に座っても体温を奪われることはなかった。だが、温まりもしなかった。
 萌の体温は雨に打たれるたびに消えていき、梅雨の時期に差し掛かる頃には思い出せなくなっていた。
 ふと、何日も何日もさなぎが雨に打たれるのを見た。一日一日とカレンダーが捲れるにつれて、少しずつ心の流血も収まっていた。そして痛みを感じない自分を軽蔑し、絶望した。こうやってすべてが消え去っていくのかと、絶望も薄れていく中思った。
 でも、心の痛みは、大人になった今も、時折黄色い膿を生み出して、血を出し、痛む。予想外だったのは、胸が痛くないときに思い出すのは、あの男に脅された日でもなく、後悔した別れた日ではなく、萌と過ごしたなんでもない日々だということだった。
 子猫を抱きしめていた萌。真っ白でふわふわなタオル。タオルのようなアザラシ。お嫁さんを夢見る萌。
 いつしか私はこの町で、ウエディングプランナーを目指していた。

 萌が空と一緒に帰ってきてくれた。どういう事情かはわからないが、私のことを頼ってくれた。ただの雨宿りのつもりだったのかもしれない。でも今の萌の背中には、羽は見えない。それがどれだけ、嬉しかったか。鉄の女の私だから、うまく萌に伝わったとは思っていない。萌が私の気持ちを読み取ってくれるからと、甘えてはいけない。甘えた結果が、あの別れだ。
 空が言ったように、言いたいことがあるなら、今言わなければいけない。いつだって私たちは、言葉足らずだった。

 私の隣にいる萌が、今何を考えてるかはわからない。萌は身じろぎしない。それでも表情がころころと変わることは止められないらしい。萌の瞳はじわりと潤んでいる。萌もあの日のことを思い出してくれているのだろうか。 
「萌に守らせてばっかりで、私は全然、萌のことを守れなかったね。ごめん。守ってくれてありがとう」
 萌は小さく首を横に振った。一滴の涙が落ちた。私は指先でそっと雫を掬い、頭を撫でた。
「今日は、少しでも守れたかな?」
 萌は目を伏せ、大きく頷いた。空も身を乗り出して、「かっこよかったです」と力強く訴える。私は手を伸ばして空の頭を撫でた。
「空ちゃんも萌も、今日は守ってくれてありがとう」
 萌の向こうで、ジンベイザメが大きく頷いた。萌は大きく首を横に振った。何度も何度も。首を横に振るにつれて、体の上に乗っているアザラシも首を横に振る。萌は口を開いたが、漏れ出る声は震えていた。
「今日は空ちゃんが防犯ブザー鳴らしてくれたおかげで、私はなにもしてない」
 震える声は、萌の感情をダイレクトに伝える。萌の目には零れそうなほど、涙が溜まっている。
「守ってくれたよ。萌と空ちゃんがいるから、私はあの男の前から逃げなかった」
「でも沙重が怪我した。私が動けたら逃げることだってできたのに、ごめんなさい」
 ついに萌の感情が決壊した。もう言葉を話せないほどに体が震え、涙が溢れている。しゃくりあげ、私の指では涙を拭うのが追い付かない。萌は片手で涙を拭うが、次第に大粒になる涙に、終いには自分の腕で顔を覆った。何度も何度も赤くなるまで、殴るように涙を拭う。不規則に肩が跳ねるのに合わせ、アザラシが空の方に転がる。
「心配させる守り方になっちゃったね、ごめん」
 細い体を引き寄せて抱きしめた。細く柔らかいこんな体で、萌は私を守ってくれたのだ。
「でも、これからも守らせてほしい」
 過去の私が言えなかった言葉を、思いを変わらずに言葉に乗せる。「言うのが遅くなっちゃってごめんね」と告げると、萌は首を何度も横に振った。萌は意地を張ってずっと天井を見ているから、涙が目の横からこめかみに流れる。呼吸が整わないままに、萌は話し出した。
「引っ越ししてから、沙重に、会えなくて。ずっとずっと、泣いてた。私が守るぞって、張り切って、守り方がわからなくて、勝手に暴走して、結局、沙重のそばに、いられなくなった。家族も、傷つけた。それが、すごく嫌だった」
 小学生のころよりも幼く、でも言葉を区切りながらも懸命に、萌は言い切った。萌は腕を外した。涙でぐしゃぐしゃな顔だったけど、強いまなざしで天井を睨んでいる。萌は何度も深呼吸して、気持ちを落ち着かせようと必死だった。
「もう、あんなふうに無茶な守り方はしない。いなくなるような守り方はしない。沙重にも、させない」
 萌まだ泣いていたけど、声は震えてなかった。
「絶対に、強くなるから」
 いまだに、萌は天井を見つめている。空が萌の涙をジンベイザメとアザラシで優しく拭っている。その動きにつられ空の方に目がやると、空と萌が手を繋いでるのが見えた。なんだ、萌は意地を張って上を向いているわけではなかったんだ。
 私は自分の袖で萌の涙をそっと掬い取って、頭を撫でた。手を伸ばして空の頭も撫でたら、空は初めて頭を撫でたときと同じようはにかんだ。
 萌と空が寝付くまで、何回も何回も、頭を撫でた

 二人が眠ったのを確認し、電気が切れるように飛び立った夢の中。以前見た雲の上で、空と萌は寝ていた。お互いが向き合い、手を繋いで寄り添って寝ている。アザラシとジンベイザメが寄り添うように萌と空を囲んでいる。私はその円の外側に立って、二人を見下ろしている。二人はパジャマではなく、シンプルな白のキャミソールを着ていた。あらわになった肩甲骨にも、近くの地面にも羽はない。すやすやと寝息を立てている空と萌は、こうやって見ればただの人間にしか見えない。
 私に気づいたアザラシが、円を切り隙間を作ってくれた。そして、アザラシは私の顔をその黒い瞳に映して、きゅうきゅうと鳴いた。


#創作大賞2023

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