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アザラシの羽衣①【創作大賞2023-恋愛小説部門】

あらすじ

 沙重は泣かない、笑わない、騒がない鉄の女といわれるほど、生まれてからずっと表情が変わらなかった。沙重は天の羽衣のように美しいウエディングドレスの魅力に取り憑かれ、ウエディングプランナーとして結婚式を成功させることに心血を注いでいた。時折既婚者に告白されるというハプニングも経験するが、沙重はのらりくらりと乗り越え結婚式を恙なく進めていた。
 ある日、萌が空という子供を連れて沙重の前に現れた。萌は沙重の片思い相手であり、苦い別れを経験した相手でもあった。萌は空と一緒に一晩泊めてほしいと頼むが、沙重は何日でも泊まっていいと迎え入れる。結婚できない萌と沙重、そして空の共同生活が始まる。


アザラシの羽衣

 結婚式は花嫁、花婿の一大イベントである。だからこそ、この一大イベントを成功させようと花嫁花婿は力を入れる。しかし、何も力を入れるのは花嫁花婿だけではない。ご両親然り、受付を任されているご友人然り、乾杯の音頭を頼まれている上司然り、そして私たちウエディングプランナーもまた然り、である。いくらいい計画を立てても意味がない。その計画が完璧に遂行される式にすることが、私たちの使命なのである。そのために、ウエディングプランナーは当日にも目を光らせる。
 ジューンブライドにあこがれを持つ花嫁は多く、六月の休日ともなると同じ会場で式を三回回すことになる。そのためタイムスケジュールは厳守。計画が遅れている箇所がないかの確認、酔っ払いの対応、花嫁花婿の精神的フォローなどなど。やらなければいけないことは雨のように降り注ぐ。私たちは小さな異常には目を光らせ、恙なく式が進行するように軌道修正を掛ける。
「結婚式のプランを練ってもらってる時からずっと気になってたんだよね、沙重さんのこと。今日の夜ご飯とかどう?今までのお礼も兼ねてさ。このままトラブルもなく結婚式が終わったら俺たちの関係もはい、終わり!なんて、もったいないじゃん。もっと仲良くなりたいんだよね」
 たとえそれが控室で花婿からナンパされたとしても、ウエディングプランナーは恙なく式が進行するように軌道修正を掛ける。
 私の職場は目の前に海が広がる真っ白な結婚式場だ。森の小さな教会のように可愛らしさはないが、式場も披露宴も、控室でさえも可能な限りガラス張りにし、太陽光をふんだんに取り込みつつ、風が通り抜ける構造にしている。そのおかげか、潮の香りが嗅げる海の近さと波のダイナミックさを味わえる式場に一目惚れされる方も多い。
 その海をバックに、白いタキシードに身を包んだ花婿が、ご自慢の甘いマスクと白い歯を見せながら笑いかけてくる。結婚式まで、あと十分ほど。本日は雨天。お日柄はすこぶる悪い。真っ黒な雲に、空に鉛筆で落書きしたかのような雨模様。蝶々が糸の切れた凧のように風に振り回される。荒れ狂い何かを飲み込もうとする波の前で気だるげに窓ガラスに寄りかかる花婿は、悔しいかな絵になっている。雑誌の一ページのようで、気だるげに見える反面、頭の中では自分がよく見える角度を計算しつくしているのだろう。
 私は脳内の情報を探った。確かこの花婿はこの近所でサーフィンをしているところを花嫁から声を掛けられて、付き合うようになったらしい。結婚式のプランを練っているときから、花嫁が花婿にぞっこんで、時にこちらがひやりとするほど傲慢に振る舞う花婿が気になっていたのだ。
 そんなことはおくびにも出さず、私は無表情のまま開け離されている控室の扉の外を指し示した。本日はあいにくの雨天だけれども、丹精込めて磨かれた式場までの道は、雨粒一つなく光り輝いている。
「もうあと十分ほどで式が始まりますので、所定の場所についていただけますか? 花嫁様も本日緊張されているようですし、ぜひ花婿様からフォローをお願いします」
 動揺も照れもなくまっすぐ花婿を見る私に、花婿は気障な様子で口笛を吹いた。そして緩やかにウェーブした髪をかき上げ歯を光らせる。この仕草に花嫁は陥落したのだろうか。しかし「クールだね」と甘く呟いた花婿に、私は無表情のまま思った。腹立つ。
「その無表情なところがすごく気に入ったんだ。自己紹介で釘付になって、にこりとも笑わないその凛とした顔を、俺の手で笑わせてあげたいって思ったんだよね」
 私は思わず心の中で舌打ちをした。こういうときでも私の表情は動かない。こちとら生まれたときから鉄の女なのだ。笑わない女がウエディングプランナーだと、不安げな表情を浮かべる花嫁花婿はいる。その不安な気持ちは、わかる。
「泣かない笑わない騒がないと言われる鉄の女です。ですがウエディングプランも鉄の意志で完遂させますので何卒よろしくお願いします」
 なんとかこの自己紹介のおかげで、職人気質のウェディングプランナーとして居続けることができた。温かく花嫁花婿に受け入れられてもらえていた。でもそれで既婚者かつっかかかられるのであれば話は別だ。今日にでも自己紹介は変更しようと固く決意しつつ「もうそろそろですので」と再三式場までの道を手で指し示す。ようやく花婿は足を動かした。
「また絶対誘うからさ、俺の顔忘れないでね」
 ウインクし立ち去る花婿。立ち去る間際、私の頭をぽんぽんと親し気に撫でた。触れられた箇所から毛が逆立ち、頭の先からつま先まで見事なまでに全身鳥肌が立つ。私は即座に纏めていた自分の黒髪を解いた。肩甲骨まで届く髪を手櫛で整え、手早くお団子ヘアーにまとめ上げる。触られた箇所の厄が落ちるように。自分の身を清めるために。
「花婿から告白されるのは、これで二回目ですか?」
 私の背後から後輩が顔を出した。後輩はにやにや笑いながら拍手を送ってくる。ベリーショートから覗く丸い目は万華鏡のようで、感情の針が倒れるたびにころころ変わる色合いが面白い。
 この田舎町は都会に出る人も多いが、時折海や結婚式場の景観に一目惚れし、移住とともに転職してくれる人が多い。かくいう後輩も最近移住兼転職してきたばかりで、私の後をひよこのようについてもらって研修している。女性としては長身の私と、中学生ぐらいの身長である後輩は、私の後ろにいると認識されないことが多い。
 だから花婿にナンパされている私を後輩は最初からみていたのだが、花婿は気づかなかったようだ。職場の人は後輩のことを守護霊と呼んでいる。
「そうね。花婿から二回。貴方が転職してくる前に花嫁から一回。就職前に既婚者から二回告白されたことがあるから、人生ではこれで五回目だけど」
「ほんと先輩、この仕事向いてないですよ。あ、いや、仕事は完璧ですけどね。既婚者ホイホイすぎるんですって」
 にこりともしない私のことを怖がる新人が多い中、後輩はあっけからんとした口調で接してくれるので心が軽くなる。後輩の軽口のおかげで先ほどの花婿のことも忘れかけていた。
「私にとってこの仕事も職場も天職なんだから仕方ないでしょ?」
「えー、鉄の女は万引きGメンとか似合いそうですけどね」
「いやに決まってるでしょ、四六時中万引き犯を見るなんて。可愛いウエディングドレス見放題の方がいいに決まってる」
「鉄の女はウエディングドレス好きだったか~」
 後輩の茶化す声には返さず、腕時計を見て所定の場所に早足で向かった。なにせ式まであと八分しかないのだから。

 今日は朝から土砂降りの雨で大変だった。本格的な梅雨だと嫌気を通り越して感動すらしてしまう。この式場は外でバーベキューを振る舞ったり、砂浜でのウエディングフォトを撮影できるプランがある。しかし、どちらも屋外への移動が必要となるため、雨の日には計画を変更せざるを得ない。スタッフは雨天用と晴天用、どちらも自信満々にオススメできるしどちらの結婚式のプランも頭に入っているが、花嫁花婿は晴天になると妄信し、雨天用の移動経路を忘れる場合が多い。そのため雨が降っているにもかかわらず、外に向かおうとする花嫁花婿を一定数いる。そんな花嫁花婿を見ると肝が冷えるし、スタッフたちは駆け足で目の前に立ちはだかることになる。総じてどのスタッフたちもふくらはぎはパンパンになるが、私にとってそんな代償は些細なことだ。なにせ彼女たちはウエディングドレスを着ているのだから。
 今日もやはり、花嫁たちが着ていたウエディングドレスは天の羽衣だった。細身で長身の花嫁が着ていた、シンプルなマーメイドドレス。身長は低めだが笑顔が素敵な花嫁が着ていた、刺繍が前面にあしらわれたAラインのワンピース風ドレス。華やかに髪を巻きティアラを付けた花嫁が着ていた、フリルが贅沢にあしらわれたプリンセスラインのドレス。皆、ドレスだけが浮かび上がることなく、傍に控え、ただ静かに、花嫁が新しい世界に旅立つお手伝いをしていた。
 天の羽衣はかぐや姫が月に帰るときに手渡された服だ。罪人として地球にやってきたかぐや姫を、おじいさんとおばあさんは罪人と知らず、蝶よ花よと大切に育てた。罪の償いの期間が終わったことでかぐや姫が月に帰るのだが、その時に身にまとうのが天の羽衣だ。天の羽衣を着た人は悩みがなくなり、大切に育ててくれたおじいさんとおばあさんを振り返ることなく、かぐや姫は月に帰ってしまう。
 ウエディングドレスもかぐや姫の天の羽衣に似ている。違うのは、おじいさんとおばあさんが流したのは悲しく寂しい冷たい涙だったが、結婚式では皆うれし涙を流れるという点だ。大切に育てた娘が違う世界に飛び立つ。その寂しさは想像することしかできない。けれど、さなぎがいつかは蝶になり飛び立つように、美しく立派に育った娘が、生涯をかけて大事にしたい人と飛び立つのなら、天の羽衣は最高の羽だ。
 私ならどの羽衣を選ぶだろう。やはりプリンセスラインが似合うのだろうな。
 私はロッカーで私服に着替えながら窓の外を眺めた。夜の帳が落ちた空にノイズが走るように雨が降り注いでいる。今日は総菜でも買って晩酌しさっさと寝よう。明日はせっかくの休日なのだから、お風呂にゆっくり浸かって美容に時間を使ってもいいかもしれない。とりとめもなくこの後の予定を考えながら玄関に向かい、傘を差そうとした。 何の前触れもなく、私は呼び止められた。
「……沙重?」
 私は内心驚いたものの、やはり顔には出ず声の方を向いた。社会人になってから下の名前で呼ばれるのはいつぶりだろう。私は地元で就職したとが、知り合いは職を求め全員都会に移り住んでいる。家族ぐらいしか私の名前を呼ばない。
 玄関扉近くの壁によりかかるようにして立っていたのは二人の親子だった。傍らにはスポーツ選手が海外遠征で使うような、巨大なスーツケースが一つ置いてある。声をかけたのは母親の方だろう。緩やかな茶色の巻き髪に、黒々とした猫目。薄い唇に化粧っけはほとんどない代わりに、服はふわふわのフリルがたっぷりとあしらわれたAラインの白色のワンピースだった。化粧せずとも華やかな服装が浮かないのは、もともとの顔のパーツがしっかりと目立っていて、かなり記憶に残る美人だからだろう。にもかかわらず、私は母親ではなく、母親に手を繋がれた子供を凝視した。
 黒色のおかっぱ。母親に似た大きな目に薄い唇。子供特有の柔らかそうな白い肌に紅潮した頬は、座敷童を連想させる、その外見。
 赤いランドセルを背負った姿は、小学校卒業とともに別れた、片思い相手にそっくりだった。子供を凝視したまま、片思い相手の名前を唇に乗せる。
「……萌?」
 子供は母親を見た。そして母親は、私の方を見て破顔した。
「そうだよ、萌。小泉萌。久しぶりだね、沙重」
「え、待って。貴方が萌?この子じゃなくて?」
 思わず子供を手で指し示すと、萌と子供は顔を見合わせた。子供目をすぅと細めて感情なく私を見た。刺しはしないが上から下までセンサーで照会されるようなまなざしにいたたまれなくなる。上から下までセンサーが往復すると、子供は頭を下げた。
「空といいます。初めまして」
 とても丁寧なあいさつに私は確信した。この子は萌じゃない。母親である本物の萌を見て、なぜさっきは気づかなかったのかと臍を噛む。萌の髪色や髪型は変わっているが他のパーツはそのままだった。いや、パーツはそのままだが、雰囲気は格段に大人っぽくなっている。髪色や髪型だけでここまで変わるだろうか?よくよく見ると、彫りが深くなったような、精悍な顔つきになった気もする。まじまじと不躾に萌を見つめていたのにもかかわらず、萌は懐かしそうに目を細めた。
「懐かしいな~、沙重の感情がくるくる変わるとこ」
 鏡を見ずともわかる、私の表情は一切変わっていない。そんな鉄仮面を見て、感情云々いうのは萌か後輩ぐらいだ。萌は私の鉄仮面の下の感情を読み取る能力に長けていた。読み取られることに懐かしさよりも、一歩後ろに足を引きたくなるような感情の方が強い。戸惑うような、羞恥心のような。しかし、今はそんなことはどうでもいい。
「なんで私がここで働いてるってわかったの?」
 責めているわけではなく純粋な疑問なのだが、私の言葉に萌に目線を伏せ下唇を噛んだ。本当に、萌は感情表現が豊かだ。感情表現が豊かなところは全く変わっていない。萌は申し訳なさそうに眉を寄せ、さらに視線を落とした。萌の表情が前髪で隠れる。
「お姉ちゃんがブライダルフェアの写真を何枚も見せてくれたときに、たまたま沙重が写っているのに気づいたの。後ろの方にひっそりとだったから、本当にここで働いているか、確証はなかったけど」
 ブライダルフェア中、鉄の女は表には立たない。表に立つのは営業スマイルも完璧な手練れスタッフたちだ。なにせ結婚式場を迷ってる子羊たちを囲いこむ必要があるのだから、結婚式並みに針に糸を通すような神経とテーマパークと見間違うほどの笑顔が必要となる。綺麗な海と気持ちだけでやっていけるほど、結婚式は甘くない。胡坐をかいていると、第一印象で式場候補から落とされるのだ。そんな戦場に、笑顔レベルマイナスの鉄の女は不要というわけである。だからといって、全く手伝わないわけではない。試食料理の提供補助など、こまごまと動き回っているから、その時にでも写真に写りこんだのだろう。
 そんな、小さく映っただろう私のことを萌が気付いた。私は気づかなかったのに、きっと小さすぎて最早ぼやけて見えただろう私に、萌が気付いた。大人として正しい行動は、すぐさま謝ることだったのかもしれない。だけど私は胸にこみあげる温かさに気道が塞がれて、言葉が出なかった。
「沙重にね、お願いがあって」
 表情が全く変わらない私に代わりに、萌が視線をうろつかせながら口を開いた。萌が話して、私が聞く。十年以上会っていなかったのにもかかわらず、この役割は変わっていない。
「訳あって、私たち行く場所がないの」
 萌は大きく頭を下げた。空も続いて、慌てて頭を下げる。
「ごめん! 今日だけでいいから雨宿りさせてください! 他に、行ける場所がなくて」
 萌と空。二人して頭を下げる中、私は二人のことを見ていなかった。萌のその言葉に、私は過去に引き戻されていた。思考が目まぐるしく旅をし、ぼんやりとかすむ視界で、景色が二重にぶれる。雨の音が二倍に広がる。
 そう、ちょうどあの時の萌も、同じセリフを言われたのだ。

 あの日も六月で、雨が降っていた。小学校五年生の四月にして、私は親の都合で海が綺麗な町に転校した。この学校は生徒数が少なく、クラス替えもない。六年間同じクラスメイトと一緒に過ごすのだという。その中に飛び込んできた、異端分子の私。既に出来上がっているグループを壊すつもりもなければ、鉄仮面がグループに入れるとも思っていない。一人が寂しいと思ったこともない私は、休憩時間になるたびにいつも、体育館扉前の石階段に逃げ込んでいた。石の階段に直に座ると石が体温を奪っていくが、一人の時間までは奪えない。その時間、本の世界に旅行するのが至福の時だったのだ。
 今日も変わらずに石に体温を奪われて、本の世界に飛んでいくものだと思ってた。窓越しにさなぎが雨に打たれるのを眺め、本の世界を思い描きながら体育館までの道を歩く、そんな日常。
 しかし、体育館の石階段が見え始めたところで、私は足を止めた。階段には先客がいた。黒色のおかっぱ。大きな猫目に薄い唇。柔らかそうな白い肌に紅潮した頬。確か、教室で座敷童とふざけ半分で崇められ、そのたびに顔を上げて得意げな顔をした子。石階段に座り外をぼんやり見ていた彼女は私に気づくとすぐ立ち上がり駆け寄ってきた。そして得意げに顔を上げていた教室とは逆に、音を立てて頭を下げてきた。
「ごめん! 今日だけでいいから雨宿りさせてください!」
 彼女の腕の中には子猫がいた。雨でぺたりと張りついた茶色の毛並みは、ふわふわで真っ白いタオルで巻かれている。居心地がいいのだろう、猫は抵抗するそぶりもなく、ぬいぐるみかのように大人しくじっとしている。子猫は鈴の音のように一声鳴くと同時に、可愛らしくくしゃみをした。そこで漸く、子猫はぬいぐるみではなく、生きて今ここにいるのだと、子猫の体温を心が受け止めたのだった。
 外を見る。朝からバケツの中をぶちまけたように水が降り注ぎ、排水溝は溢れないぎりぎりで濁流を懸命に運んでいる。この状況で外に出たら、子猫なんてひとたまりもないだろう。
「この子、よく学校に迷い込んでくる子なの。他に、行ける場所がなくて」
 頭を下げ続ける萌の髪の毛も、しっとりと濡れていつもよりボリュームが落ちている。私はポケットの中を探りながら言った。
「別に、雨がやんでもずっといればいいじゃん」
 そしてようやく出てきたハンカチで萌の髪の毛を拭いた。萌は顔だけ上げるとタオルにくるまれた猫のように大人しく、しかし雨が地面に染み込むようにその笑みを広げていった。無表情な私だったけど、子猫の体温と萌の体温を受け入れた心を、萌はハンカチ越しに汲んで、笑ってくれたのだ。
 この日から、石がいくら体温を奪いっても、隣にいる人が体温を分け与えてくれることを知った。

 突風が吹き抜け、霧のような雨が体を濡らし、私は現代へ引き戻された。空はよろめいて萌にしがみつき、萌は髪の毛を抑えながら空の背中に手を添える。遠くの雲が控えめに光ったかと思えば、猫が喉を鳴らすような音がした。
 今いる場所はあくまで玄関だ。雨除けの庇があるとはいえ、完ぺきに守ってくれるわけじゃない。空が可愛らしくくしゃみをした。鈴の鳴るような可愛らしいくしゃみだ。私は鞄の中を探りながら言った。
「別に、雨がやんでもずっといればいいじゃん」
 萌は勢いよく顔を上げた。私は屈み、空の髪の毛を拭いた。小学生の頃の萌より、空の髪の毛は細くて柔らかい。屈んだことで目線があった空に微笑むこともできず、でも体温は伝わるように、丁寧に撫で続けた。空はタオルにくるまれた猫のように大人しく、ただじっと私を見た。萌は空と私の顔を交互に見て、雲の隙間から太陽の光が差し込むように、笑みを零した。
「ふつつかものですが、よろしくおねがいします」
 ハンカチを退けた途端また頭を下げた空の、あっているようなあっていないような言葉を聞いて、萌はさらに声を上げて笑った。

 二人を車に乗せて、晩御飯を買い出しをすること三十分。一人暮らしの簡素なアパートに萌と空を案内した。電気をつければ、白と黒でまとめたモノトーンの部屋が出迎える。私には趣味も楽しみもないから、散らかることもないが飾り立てることもない。よく言えばシンプル、悪く言えば殺風景な部屋を、萌と空は物珍しそうに見回している。どちらかといえば、私の部屋は悪く言えばの部屋に分類される。小学生の空にとっては一度部屋を見回してしまえば、暇もつぶせない部屋に様変わりだ。可愛いものやピンクが好きな萌にとっても、ただの箱に見えるかもしれない。が、そこは我慢してもらうしかない。兎にも角にも二人にはバスタオルで体を拭いてもらい、食卓テーブルに案内した。
 雨は水量も音量も変わらずに降り注いでいる。常時こんな調子だと人の息遣いと変わらない。いや、逆に人が訪れたことがない私の部屋では、人の息遣いの方が異質だ。
 空と萌が食卓テーブルに座り、目の前にホットミルクのマグカップを置く。私が向かいに座る間に飲めばいいのに、萌は手を膝の上。空の手はカップの形を確認するかのように掌でなぞる。口をつけない理由は礼儀正しさゆえか、遠慮ゆえか。なかなか飲まない二人だから、お手本を見せるよう、率先して私が口を付けた。
 六月なのに肌寒い。温かさを飲み込むとともにほっと息を吐いて、かすかに指先が震えていたことを知った。誤魔化すように、指先を握りこんでから、部屋中を指さす。
「冷蔵庫もお風呂場も自由に使って。女の気ままな一人暮らしだから、遠慮なんてしなくていい。ただ、給料を多くもらっているわけじゃないから、家事を手伝ってくれるか、少し補助してくれるかしてもらえるとありがたいかな」
「……本当にお世話になってもいいの?何も理由言ってないのに?」
 萌は音を立てて椅子を引き、机に手を突いて身を乗り出して問いかけた。風のない湖のような、萌の静かな瞳に落ちそうになる。空はホットミルクを一口飲んだのに、萌はまだ飲んでいない。そもそもカップが目に入らないのだろう。そんなに身を乗り出して私の方に顔を使づけると、カップを零しそうだ。慌ててカップを回収すれば、押し戻すように萌の目の前にカップを突きつけた。反射的に、萌は受け取る。
「言いたいなら聞くけど、言いたくないなら言わなくていいよ」
 もう一度、今度は顎でマグカップを指し示してようやく、萌は座るとホットミルクを一口飲んだ。「美味しい」と漏れる声は、吐息交じりで空気に溶けた。雨粒が水たまりに落ちたように、萌の瞳が揺れた。
 空は最初の戸惑いはどこへやら、両手でカップを持ち、喉を鳴らして懸命に飲んでいる。少しはちみつを入れたのを気に入ってくれたのかもしれない。空がカップを天井に向ける中、声をかける。
「空ちゃんは、私が怖くない?」
 結婚式では子供に泣かれすぎて、絶えず距離を取っていた。その様を後輩は笑ったものだけど、当事者としてはたまったものではない。その距離の内側を、空はさっきから泣かずにずっといる。怖いと言われたからって当分の間は我慢してもらうしかないのだけど、でも怖いと思うなら、あまり顔を見合わせないように、空にとって居心地いい場所になるよう、工夫したかった。
 カップから顔を上げた空の口には、白い髭がついていた。空と目が合う。涙の膜で保護されていない子供の瞳を見るのは初めてだった。
「怖くないです。髪の毛拭いてくれて、ありがとうございました」
「なら、何も問題ないね」
 軽く言った声はどれだけ安堵が滲んでいただろうか。慌てて姿勢を正し、どういたしましてと頭を下げる。私が頭をあげてからも髭を付けたままの空の口元を、身を乗り出して拭う。空は恥ずかしそうに、でもいい子で大人しくしてくれた。私を怖がらない空の反応は、小学生の萌と重なって見えた。
「いつまでもいていいよ」
 私の言葉に空は小さくはにかみ、頷いてくれた。

 晩御飯を食べて、三人順繰りにお風呂に入れば早々に就寝とした。何より二人の体は冷え切っていた。早く休ませないと風邪を引くかもしれない。こういう時に必要なのは、ふわふわで真っ白なタオルにくるむことなのだ。
「二人はベッドで寝ること。家主からの命令です」
 だから「さすがにそれはちょっと」と渋る二人を問答無用で寝室に閉じ込めて、私はリビングのソファーで横になった。激務の六月は週の半分をソファーで寝落ちることもザラなのだ。なんなら昨日も一昨日もソファーで寝落ちしている。ベッドよりもソファーの方が仲良しかもしれない。
 寝室からはまだ居心地悪そうに動き回る音たちが聞こえる。動き回る音がなくなったと思えば、今度は二人の声がひそやかに聞こえ、そして冷蔵庫の稼働音だけになった。冷蔵庫の音が鮮明になったり、遠のいたり、まるで私の眠気のようだ。それでも、一人暮らしをしていた時の静けさとは違う、一つ屋根の下、二人の気配は漂ってくる。
 そんな気配を感じながら眠りそうな、起きそうな。幸せな微睡みをうとうとと繰り返していたころ、雨の音に混じって、すすり泣く声が聞こえたような気がした。

 次に目を覚ました時、私は小雨の中に立っていた。萌と空は海の上に浮かぶソファーほどの小さな島に座り、羽を休めている。空は鳥の羽を。萌は蝶の羽を、雨の中手で丁寧に梳かしている。私は海の上から屋根のないボートで二人の様子を見ているが、二人は気づかない。雨の中、屋根のないボートに立っているのに一切濡れない私の体。雨が降っているのに、床に立っているかのように一切荒れない海。そして極めつけは、二人に生えてる羽。私はすんなりと、ああこれは夢だなと腑に落ちた。
 私の視線が刺さったのか、目ざとい萌は顔を上げると私の元へ飛んできた。そして私の背中を押して、羽を懸命に羽ばたかせてボートを小島に着けてくれた。
「沙重も一緒に休もうよ」
 そう笑みを浮かべながら萌は私の手を引く。萌の腕の力につられるように、私の頭に引っかかっていた言葉がするりと口を突いて出た。
「不束ものですが、よろしくお願いします」
 萌は声をあげて笑った。空は小さな島の真ん中から動かず、私のことをじっと見ていた。

「昨日はベッドを占領し、先に休んですみませんでした」
 六月入って初めての晴れ間。実に十日ぶりだという。窓もレースカーテンも開け放ち、光をたっぷりといきわたらせた晴れやかな部屋に、蝶が飛び込んですぐ去っていった。地の底まで沈む重苦しい謝罪の言葉にびっくりしたせいだろう。言葉とともに頭を下げる空の頭を見ながら、なんて綺麗な黒髪なのだろうと場違いなことを考えた。髪の毛に天使の輪ができている。同じシャンプーを使ったはずなのにと、指先に毛先を絡ませた。細い絹は指に絡まることなく、さらりするりとすり抜ける。私にキューティクルができるより、空にキューティクルができている方が嬉しいし可愛い。
 そんな風に空のいいところしか目につかないのだから、私は「気にしなくていいの」と空の頭を撫でた。顔を上げた空の目は赤くなっているようにも見え、つい「いい子いい子」と呟いた。
 萌は空と目線を合わせるように屈み、空の背中を撫でている。何度か撫で続けていると、空の表情は少し柔らかくなった。その様子に、私は手の勢いを増した。くしゃくしゃに撫でれば撫でるほど、くすぐったそうに身を捩り、空は声をあげて笑った。
「空ちゃんはしっかりしてんね」
「お姉ちゃんとお義兄さんが愛情たっぷりに育てたからね」
 萌の得意げな言葉に、私の撫でる手は止まった。
「待って、空ちゃんってあんたの子供じゃなかったの?」
「え、そうだよ。あ、ごめん。言ってなかったっけ」
 目を真ん丸にしていう萌に、私はため息を吐き脱力した。萌は肝心なことを言わない癖がある。それに、萌と空は私が見間違えるほどそっくりなのに、逆に親子ではないとはどういうことだ。そこまで考えて、いやと私は思い直した。萌のお姉さんも、萌とそっくりなのだ。
 萌は空に顔を洗うように促した。私が撫でたせいで鳥の巣のようにぐちゃぐちゃになった髪の毛のまま空は一度頷くと、リビングから離れる。その後姿を眺め、萌は微かに微笑んだ。
「空ちゃん。水上空ちゃんは、お姉ちゃんと旦那さんの忘れ形見なんだ。二人は一週間前に、交通事故で亡くなったの」 
 ひゅっと小さく喉を鳴らし、私は息を飲んだ。萌のお姉さんには私もよくお世話になった。萌はお姉さんと一つ違いで、二人が並び笑うとよく双子に間違えられていた。でもお姉さんの性格はお転婆な萌とは正反対で、しっかり者で嫌みがない。まるで学校中のお姉さん役を一人で背負っているかのような人だった。
 お姉さんは萌が風邪で休むと真っ先に私に声をかけてくれた。それ以外にも、萌しか友達のいない私のことを気にかけて、よく声をかけ遊んでくれたのだった。
 そのお姉さんが、もういない。私はしばらく、深呼吸するので精いっぱいだった。萌は憂いのカーテンを引きずったまま、キッチンに向かう。
「……今度、お線香をあげさせてね」
 萌の背中に向かって声をかけた。しかし萌はそれには答えず冷蔵庫の中を覗いている。しばらく物色して、萌が私を振り返る頃にはもう憂いなんて一つもなく、それどころか目を輝かせて私を見たのだった。
「ねえ、めっちゃおいしそうなウインナーがあるじゃん! スクランブルエッグとウインナーのホテル朝食なんて、どう?」

 こんがり焼けたウインナーと甘めのスクランブルエッグは苦いコーヒーによくあった。食事中、萌はアイスカフェオレ、空はミルクのコップを両手で包みながらごくごくと喉を鳴らして飲んでいる。私はもう一口とコーヒーを啜った。
「今日私は休みだけど、二人はどうする?」
 萌はマグカップに口づけた箇所を親指で拭った。
「しばらく空ちゃんは学校をお休みさせようと思ってて」
「学校の勉強道具ぐらいしか暇つぶしがないので、勉強してます」
 空は口元に牛乳の髭を付けながら当たり前のことのように言った。そのことに私は脳みそをハンマーで叩かれたかのように強く震え痛んだ。こんな小さな子が、親を失って、学校にも行けず、見知らぬ人の家で寝泊まりするしかない。それを日常のように、淡々と、当たり前のようにすぐ受け入れられるのだろうか。受け入れるしかないから、淡々と受け入れているのではないだろうか。そんな混乱と、痛み。痛みを振り切るように、私は空へ前のめりになった。そんな日常は、ふとしたきっかけで変えることができる。
「空ちゃんは、どこか行きたいところはない?ここらへん散歩してもいいし、デパートに行ってもいいよ。車出したら映画館にも行けるし」
 萌が「いやでも、外に出るのは」と渋る声は無視して、前のめりに空に尋ねる。空は私の目を見て戸惑ったように瞬きを繰り返すと、先生に質問する生徒のように、おずおずと手を挙げた。
「すみません。そもそも、ここはどこですか?」
「……萌?」
「ごめん! 説明してなかった!」
 私の鋭い目線に、萌は完全降伏だと言わんばかりに手を合わせ、頭を下げた。心の中でため息を吐くも、少し頭の痛みが治まった。それじゃあ空は勉強する以外の選択肢は何も思いつかなかったのだろう。
 私は海が綺麗で有名な、田舎町の名前を口にした。それでも空は首を傾げたので、県から住所を言うと漸くどこか分かったらしい。空はどうやら隣県に住んでいたようだ。
 空は急に立ち上がり、今度は腕をピンと天井に突き上げて前のめりに尋ねた。難問が分かって先生にアピールする子供のようだ。あまりの勢いに、今度は私が引き気味になる。
「あの、てことは水族館があるところですか?」
「空ちゃん、もしかして水族館好き?」
「好きです。空より好きです」
 あまりの言い草に萌が噴き出した。さすがに噴き出したのは失礼だと思ったのか、慌てて萌は腕組みをして渋面を作って見せる。噴き出した後だから無駄なのに、ちょっと眉を寄せたりさえして見せる。
「でも、空ちゃんを不必要に外に出すのはちょっと、なぁ」
「なんでそんなに頑なに外出を禁止するわけ?」
 先ほど私が萌の発言を無視した腹いせに、今度は萌が私の発言を無視してじっとりと空を見つめた。空は萌の視線を受けて、大人しく椅子に座った。
「……今度、家族で水族館に行こうと、父母と約束してたんです。だから、私だけでもちゃんといかなきゃ」
 空の声は静かで、ピンと張りつめていた。萌も、私もはっと顔を見合わせた。今、この子に一番必要なのは、外に出ないことではない。ゆっくりでもいい。しかし確実に前に進む力をつけることだ。萌は腕組みを解くと、空の頭を撫でながら視線を合わせた。
「絶対に、私たちから離れないこと! 防犯ブザーも持ち歩くこと! お手て繋ぐからね!」
「水族館、行こうか」
「……はい!」
 初めて聞く空ちゃんの大きな声に、萌と顔を見合わせて笑った。笑った表情を作ったのは萌だけだったけど、どこか恥ずかしそうにはにかむ空も、鉄の女も雰囲気が柔らかくなった。いつしか朝より日が昇り、より部屋の中を明るく照らした。

「とりあえず、隅から隅まで全部見たいです」
 空は車に乗り込むときからくどいぐらいそう主張した。私が運転席で、二人は後部座席。「出発進行!」と元気な萌の声に押され、軽快にタイヤは回る。
 空は車で移動中も器用に画用紙に魚の絵を描いていたらしい。後部座席に座る萌と空がなんの魚の絵かあてる声を聴く。
「わかった、これ左に顔があるからヒラメでしょう?」
「違います。ヌマガレイです。こいつは左ヒラメに右カレイの例外なんです」
 空にコテンパンにやられる萌の悔しそうな声はどのラジオよりもおかしかった。ラジオのボリュームを絞っても、三十分のドライブもあっという間に過ぎていく。
 車を降りるや否や、空は私と萌と手を繋ぎぐんぐんと突き進む。入場券を買う際、窓口のお姉さんに真っ先に声をかけたのも空だし、入場ゲートをいち早くくぐったのも空だった。だけど、入場ゲートをくぐってすぐの、巨大水槽の前で空は立ち止まった。
 私たちは海の中にいた。首を大きく振ってようやく建物の壁が視界に現れる、目の前の巨大ガラスの向こう側、一面が海だった。手のひらほどの色鮮やかな魚や、軍隊のように整列するイワシの群れ。ゆったりと泳ぎ続けるマグロにサメ。カメはこちらに向かって手を振っているし、エイは私たちを見て笑ってる。底には彫刻のようにサンゴが存在感を示しており、その間を恥ずかしがり屋のウツボが見え隠れしている。
 目が足りない。体は動かないのに、首だけを扇風機のように動かしてしまう。他のお客さんも同様だった。入場ゲートを駆け足で潜り抜けたのにもかかわらず、パタリと巨大水槽の前で止まり、目が次々にスポットライトを変えていく。
「見てください!」
 空が指さした水槽の奥から、巨大な影がどんどん近づいてくる。だけど不思議と、圧迫感はない。見上げたジンベイザメはガラスまで近づくと、緩やかなカーブを描き、ガラスに沿ってそのまだら模様を楽しませてくれた。まるで空を飛んでいるようだった。
 こんなに多種多様な生き物が、巨大な一つの水槽に収まっている。あまりにも魚たちが悠々自適に泳ぐものだから、逆に私たちが魚から観察されてる気分になる。閉じ込められているのは、私たち。広い世界で自由なのは、魚たち。ガラスの向こう側に一つの星の姿があった。
 一体いつまでこの巨大水槽の前にいたのだろう。一秒たつごとに星の雰囲気が変わり、片時も目が離せない。次々と星の状況が変わっていく。脳が処理に追われている。
 夢中だった私と空の目の前に立ち、強制的に視界を占領したのは萌だった。
「空ちゃん、アザラシも見に行こうよ。もしここが気に入ったらまた戻ってきたらいいから、ね?」
 どことなく落ち着かない様子の萌と、魔法が解けたように瞬きを繰り返す空。二人を見て、私は空の手をしっかりと握りなおした。いつの間にか空とは指先でしかつなげていなかった。私は誤魔化すように、萌をあの出来事でからかう。
「アザラシを見るのもいいけど、今回のミッションは隅から隅まで見ることなんだから、ちゃんとペンギンも見に行かないとね」
 萌は何度か瞬きすると、私の肩を痛いほど掴んで鼻先が触れ合うぐらい近づいた。地味に痛い。
「覚えててくれたんだ!?」
「さすがにあのペンギンを素通りするのは忘れられないよ」
 漸く手を離した萌は、何度も何度も前髪を手で整え表情を隠したけど、上がった口角は隠しきれていなかった。

 実は、萌と私この水族館に来たのは初めてではない。初めてこの水族館を訪れたのは、小学校の遠足でだった。でもこの巨大水槽よりも、クラス皆で見たイルカショーよりも、鮮明に覚えている思い出がある。
 自由行動の時間。今の空のように、萌は私の前を風を切るように歩いていた。学校から「走らないように」と耳にタコができるほど注意されていたため、走ってはいない、気がする……という難しいスピードの早歩きではあったが、確かに萌は歩いていた。一体何回その手を繋ごうかと思っただろう。色っぽい意味ではなく、ただただ子供が迷子にならないか、心配する母親の心境だった。
 萌はそのスピードのまま次々と展示をチラ見していく。ベルーガとイルカの水槽、日本の川を模した展示、特別展示のクラゲ水槽、チンアナゴコーナー。そして、この水族館の目玉展示の一つである、三十メートルものペンギン水槽。
 ただ床と垂直に立ちぼーっとするペンギン。軽く胸を反らしてぱたぱたと小さな腕を振りながら飛び立とうとするペンギン。海の中を自分の庭だと誇らしげにはしゃぎまわるペンギン。その水槽の前には学校中の女子が集まっていたのではないかと錯覚するほど、小学生がガラスに引っ付いていた。黄色い声がガラスにぶつかり跳ね返る。
「可愛い~」
 黄色い声をチラ見する、萌。
 歩くスピードが変わらない、萌。
 ペンギン水槽の入り口から出口までの時間、わずか十秒。
 さすがにペンギン水槽の出口で萌の肩を掴んで慌てて止めた。
「待って待って。ペンギン素通りするの?」
「あ、ごめん。沙重はペンギンみたかった?じゃあもどろっか」
「いや、あまり興味はないけど」
 あっけからんとした返事に戻りかけた萌を慌てて止めながら私は呟いた。正直一人競歩をしている萌を見ている方が面白いなんて、水族館側に申し訳なく口が裂けても言えない。そう?と首を傾げる萌はようやくスピードを落とし、次のコーナーへ進んだ。
 そこにはふわふわでもふもふの、愛らしい動物がいた。萌は約束を破り、駆け足でガラスにへばりついた。突然の俊足に一瞬で萌を見失い入り口で固まった私をよそに、萌は目を輝かせて、私を手招きする。
「アザラシ。ほら、可愛いでしょ! 白いのは子供のアザラシでね、この水族館には赤ちゃんアザラシがいるんだよ」
「詳しいんだ」
 ガラスに近づくも、残念ながら萌からアザラシの距離は遠い。ペンギンには及ばないが、この水槽の前にも多くの人が覗き込んでいた。萌は上手く隙間を見つけ入り込んでいるが、私がそこに加わるとやはり狭い。見知らぬお客様と肩が触れ合わないように、微妙に立ち位置を変えながら萌と肩を引っ付ける。
 灰色のアザラシは目を細めてのんびりしているが、白いもふもふはぴょんぴょんと飛び跳ねてるだけなのに、なぜか楽しそうだった。白いアザラシは萌から遠ざかり、なんならアザラシの顔も見えないが、萌にとっては取るに足りないことらしい。萌はガラスに鼻先を押し付けんばかりの勢いを両手で必死に食い止めながら、それでもガラスから至近距離でアザラシをガン見していた。しゃべるたびにガラスが白く曇る。
「私ね、白くてふわふわのアザラシが好きなの。ウエディングドレス見たいでしょ!」
 私は首を傾げてアザラシを見た。どう首をひねってもウエディングドレスには見えなかった。よくてふわふわのタオルだ。そのタオルが、奥側の水槽の探検を終えて、のそのそとこちらに移動してくる。ようやく私たちに顔を向けてくれた。その表情を見て私も萌も声が漏れた。ただただ純潔のその体に、潤んだ瞳、微笑んだような口角、すべてのパーツが完璧すぎて、愛らしい表情。子供アザラシは確かに競歩したくなるほどの可愛らしさだった。
「きっとこの子たちも幸せな結婚をするんだね」
 うっとりと夢見がちな声が隣から聞こえる。アザラシが萌に気づき、近寄ってきた。萌はさらに笑みを深め、ガラスを指先でひっかいた。萌はまるで手招きするように、アザラシは手招きに乗るように、近づいてくる。
「私、お嫁さんになるのが夢なの」
 正直、この時の萌の言いたいことは半分もわからなかった。それでも、ふわふわで真っ白な毛に包まれたアザラシが幸せそうな表情を浮かべているのは確かだ。
 目を潤ませ、笑顔のまま子供アザラシが萌の前まで来た。萌の目にも、アザラシの目にも、お互いが映っている。萌の隣にいる私も思わず触れられそうで、ガラスに気づかず手をぶつけた。痛さに手を振る仕草をしながら、そっと隣を盗み見る。
 顔を輝かせてアザラシを見る萌は、アザラシよりも純潔なんじゃなかろうか。飽きることなくアザラシを見つめる萌の横顔。アザラシのように猫目を大きく潤ませて、唇は綻び、アザラシと目を合わせる為に屈んでる。今日来ている萌の服は、真っ白なAラインのワンピースだった。
 花嫁みたいだと、私は萌を見て思った。アザラシではなく、私は萌を見て花嫁みたいだと思った。守りたくなるほど、萌は可愛らしかった。そう思った瞬間、ぐわっと熱い何かが胸まで迫ってきて、たまらず胸元の服を握りしめた。その胸の高鳴りは収まることを知らなかったけど、正体がわかっている私はただその熱さを受け入れた。萌と一緒にいて、身も心も焼かれるほど熱くなるのは初めてのことではなかった。
 私はこの時にはもう、萌のことが愛おしくて仕方がなかった。
 私たちは飽きることなく子供アザラシを見つめた。子供アザラシを見つめながら萌は「守りたいな」と呟いた。担任の教師がもうそろそろで集合時間だぞと声を掛けるまで、私たちは飽きることなくアザラシを見つめたのだった。

 私の気持ちは伏せ昔の萌を事細かに話すと、空は興味深げに頷いてくれた。萌は恥ずかしさのあまり片手で顔を隠している。それでもちゃんと空の手を繋いだままである。その律義さに萌らしさを感じた。空はそんな萌を無視して先に進んだ。
「それじゃあ、アザラシのコーナーはちょっと長めに時間を取りましょうか」
「いや! 大丈夫! 今日はペンギンもちゃんとみるから!」
「萌も大人になるもんだね」
 二人して萌をからかえば「もうちょっとやめてよ~」と情けない声が食い気味に覆い被さる。照れ隠しか萌が私の肩を何度も叩いてくるも、痛い痛いと軽くあしらいながら先に進む。
 それでもやっぱり、白い子供アザラシに釘付けになる萌を見て、空と顔を見合わせた。小声で「小学生のころと変わらない」と空に教えたら、空は萌を急かすことなく、一緒にアザラシを見つめてくれた。水槽の前にいる人が次々と入れ替わる中、私たちはただひたすらアザラシを見守った。ペンギンコーナーは他の人より少し早めに退散した。
 萌は売店で白いアザラシのぬいぐるみを、空はジンベイザメのぬいぐるみを買った。素敵な笑顔が見れたお礼に、私がお金を出した。「大事にするんだよ」と声をかけるまでもなく、空はジンベイザメを落とさず、かといって握りつぶさない絶妙な力加減で抱きしめた。萌には「ありがとう」とアザラシごと抱き着かれた。
 水族館に出ると、空は萌と私の間で、ジンベイザメとアザラシをずっと泳がせていた。私たちの周りを蝶々が誘うように飛ぶけれど、私たちの目はジンベイザメとアザラシに注がれていた。もう空と私たちは手は繋いでいなかったけれど、空は私と萌の歩調を決して乱さなかった。車に乗っても家に帰っても、ジンベイザメとアザラシはずっと空を泳いだ。

 心地よい疲労感に包まれたこの日も、私は夢を見た。雲の上で空と萌が鬼ごっこをするみたいにお互いを追いかけまわしていた。二人が駆け回るのに合わせて、羽がひらひらきらきら揺れる。その周りをジンベイザメとアザラシが応援するように跳ねる。次第に二人のスピードが落ちたと思ったら、二人は羽に手をかけた。
「飛ぶ時以外邪魔だもんね」
「ねー」
 羽の根元に手を伸ばし、発泡スチロールを曲げるかのように、軽い音を立ててパキパキと翼を根元から折っていく。躊躇のない萌と空を見て、私はつい「取り外し可能なんだ」と呟いた。その声を聴いて顔を上げた二人は「常識だよ」と顔を見合わせて笑った。その場に羽を放り捨てた二人は代わりに私の手を取った。先ほどよりも軽くなった二人の足取りにつられ、なぜか私も走り出した。私の背中を確認しても、何もなかった。

2話:

https://note.com/ayanekozumu/n/nf965736b0ddc

3話:

https://note.com/ayanekozumu/n/nd49f12dc6862

#創作大賞2023 #恋愛小説部門

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