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アザラシの羽衣③【創作大賞2023-恋愛小説部門】

1話:

https://note.com/ayanekozumu/n/n00f4c77f5860

2話:

https://note.com/ayanekozumu/n/nf965736b0ddc


3話本編

 三人で寝た日以降、私たちは極力家にいるようにした。どうしても外出が必要な時は三人一緒。それでも充分楽しく、毎日部屋には笑顔が溢れていた。
 小学生の割に大人っぽいようで大人しくない空は、実は可愛いものに目がないこと。魚たちの絵だけじゃなくどんな動物の絵も上手なこと。萌は料理研究として家で仕事ができるから、通勤時間がない分凝った料理を作ってくれること。そしてその料理がどれも美味しいこと。でも最近は暑さが厳しいから凝った煮込み料理が作れなくて膨れていること。
 職場の控室。萌が作ってくれたお昼ご飯の豚バラとナスの揚げびたしうどんを味わう。豚バラは脂っぽくなく舌の上に甘みを残し、じゅわりとだしを吸い込んだナスが蕩けるように甘みを包んでいく。でも一本一本歯ごたえを感じるうどんが甘みを絡めて料理の味を引き締める。
 うどんの一本一本を噛みしめ、汁の一滴まで平らげてからようやく、私は鞄からスマホを取り出した。ちょうどタイミングよく後輩入ってくる。首を傾けながら自分の肩を叩く姿は年配の支配人の姿と被って見えたが、そこは温情で黙っておいた。後輩は私の前に座る。
「先輩。今日は何を見てるんですか」
「今日の萌と空のお昼ご飯と空の力作の絵」
「鉄の女もご飯食べるんですね」
「そこから?」
 私は自然な仕草で後輩にスマホを見せた。萌と空は、私の仕事の送り迎えも来てくれるようになった。私が式場に入るまで、手を振ってくれる二人が愛おしい。その現場に居合わせたから、後輩も空と萌を見かけると挨拶して軽く世間話する程度には、仲良くしてくれる。
 私はそこから調子に乗って、後輩に萌と空を惚気ることが増えた。こちらが惚気話だと自覚しているにも関わらず、後輩は嫌な顔一つしない。なんならたまに後輩から「見せてください」と言ってくれるもんだから、本当にできた後輩だ。
「こっちが空の描いた絵。それでこっちが萌の作った料理の写真」
 萌は自分の仕事に誇りを持っているから、お昼も作り置きせず毎回イチから作っているらしい。空と二人して「頑張りすぎなくていい」と伝えるけれど、萌にとって料理はストレス発散だからこそ頑張るのだそうだ。空に切ってもらったというトマトが乗った、トマトとツナのさっぱりうどんは青々しいシソも散らされてあり、ガラス器に盛られて見た目からして涼しそうだ。
 空はこの前みたサメ映画の読書感想画だろう。画面から飛び出るほどの大きいサメの迫力たるや、将来は絵でお仕事できるに違いない。
 写真を捲るたびに、後輩は感嘆の声を上げた。「へぇ! へぇ!」と声が上ずり、上ずったまま続ける。
「めっちゃ素敵なご家族!」
 大きな音を立てて扉が開き、駆け込むように同期が入ってきた。その慌てぶりに私も後輩も、思わず椅子から立ち上がる。同期は膝に手を突きながら、荒い声のまま私を手招きした。
「沙重に会いたいって、お客様が来て、支配人に詰め寄ってる。至急って、めちゃくちゃ焦らせてくるんだけど、たぶん、この前通達された、お客様だよね?」
 後輩が眉を寄せる。
「どんな感じの人ですか?」
「ウェーブしてる髪に白い歯が特徴的な、サーファーっぽさのあるお客様」
 あーと二人して声が漏れ、「そのお客様です」とテンション低く私は言葉を返した。結婚式以降、あの花婿は懲りずに何回も結婚式場に顔を出した。そもそも結婚式は関係者以外立ち入り禁止であるため、過去花婿だったとしても受付で追い返され奥には入り込めない。あの花婿は時に私の帰りの時間を狙って玄関で待ち伏せていることもあったが、警備員に声をかけてもらっている間になんとか帰ることができた。何とか躱し続け、皆にお願いし、迷惑を掛けながらも逃げ続けてきたが、花婿も我慢の限界なのだろう。今までにないほど、荒っぽい力技で私を引き出そうとしている。
 もう、私が相手しなければいけないかもしれないと思いながらも、頭に思い浮かぶのは萌と空の顔だった。萌と空にはこの話をしていなかった。きっと、心配させるだろう。そんな私の肩を、後輩が掴んで無理やり座らせた。二人の顔も消え去り何度も瞬きをする私をよそに、後輩は腕まくりをしている。
「その人は私が相手しますよ。そんな幸せ気分に浸ってる先輩に泥を塗るなんてかわいそうじゃないですか」
 そして後輩は私をビシッと指さした。
「ついに私の独り立ちの日ですね。可愛い後輩の勇士を、先輩は裏方に回って花束でも作って見届けてください」
 「よっしゃ!」と意気込み後輩は飛び出していった。あまりにも頼もしすぎる背中に、口を開けて私と同期が見送る。先に口を開けていることに気づいた同期が小さく咳払いし我に帰れば、同期は頬に手を当てながら私の顔を覗き込んだ。同期の目は笑っている。
「いい後輩に育ったね」
「……私が育てられてるのかもしれない」
 同期は声を出して朗らかに笑うも、すぐに表情を引き締めた。
「お客様とはいえストーカーみたいになってるけど、警察に届け出た方がいいんじゃない?」
「後輩に任せてみよう。それに、ここの式場で結婚したら不倫されるなんてうわさが流れたらまずいから」
 少しずつ事件は起こるけれど、私は何も心配していなかった。家族も仲間も、頼もしくて眩しい。

 萌と空が私の家に来てから、もうすぐ二か月になる。萌と空の私物も増えてきた。空の画材道具は食卓テーブルの引き出しに入っている。洗濯物は毎日三人分並ぶ。食器は萌が買いそろえている。今では二人専用のマグカップがある。萌のマグカップは薄いピンクで上品なもの。空のマグカップは魚たちが泳いでいる青色のもの。モノトーンだった部屋に、色が塗られていく。
 そのマグカップに飲み物を注ぐ。私はコーヒー、萌はカフェオレ、空はミルク。鮮やかなマグカップなのに入れられるのは結局落ち着いた色合いの飲み物で、でも私たちにはこれで十分。ゆっくりと味わってから、おそろいのパジャマを着て眠りにつくのだ。今やもう、毎日三人で寝ている。真ん中はローテーションだ。
 だから私たちは寝る時間を楽しみにしている。毎日気持ちよく寝るために、精一杯生きている。夢は最近、見ていない。

 空がお風呂から出たタイミングでマグカップを手渡した。マグカップを光が反射して、本物の魚のように鱗が光る。
「本日の牛乳でございます」
「お風呂上がりの牛乳は最高ですね」
 空は受け取ると食卓テーブルにつき、のどを潤した。
 私が仕事の日は、寝る前に私から話す時間を作るようにしていた。夜ご飯も三人一緒に食べるが、話したがりの萌と空の聞き役に回ることが多い。今日のご飯の御供は、遠くの海にある水族館に行きたいという遊びのお誘いだった。二人して計画したのだろう、いつもより断然テンション高く、マシンガンかの如く得意げに計画を披露する空をお風呂に入れて、空の気持ちを湯気とともにほぐして、ようやく会話のキャッチボールが可能になる。
 萌は締め切りが近いと言って、寝室に籠り考案したレシピを清書している。徹夜せず一緒に寝る代わりに、寝る直前までレシピの文字起こしをしていたいらしい。私はケトルを沸かして空の正面に座った。
「お客様は何をされていたんですか」
「今日はお絵描きは休憩して、ちゃんと勉強してました」
「お、えらい」
 空はマグカップ越しに私を見つめた。大きく首を傾げている。
「えらいですか?勉強するのは当たり前のことでは?」
「当たり前を当たり前だからって当たり前にできるとは限らないんだよ。でも勉強は自分の進む道を広くしてくれるから。できるだけ苦痛じゃない方法を考えて、当たり前に勉強できるといいね」
 空は今度は逆側に首を傾げる。私も当たり前を連呼しすぎて少しこんがらがってきた。
「例えば?」
「私は本を読むことは好きだったから、教科書を読みまくってた。教科書を読んでる間は勉強してるとは思わなかったな。でも逆に、書くことは勉強の代名詞みたいで全くしなかったよ」
「なるほど。私とは真逆ですね」
「真逆でもいいんだよ。空ちゃんにとって、その勉強方法が当たり前であればいいんだから」
 空は大きく頷くと、マグカップのふちを親指で拭った。その姿が萌と重なった。萌は化粧をしていてもしていなくても、飲み口を指で拭う。私も空も、何度も見慣れた姿だ。
 空は何度か親指の動きを見つめてから、再び私に視線を合わせた。
「勉強をして広くなった道で、沙重ちゃんはウエディングプランナーを選んだってことですか?」
「そうだよ。好きな人が花嫁さんになるのが夢でね。そのお手伝いをしたかったの」

 萌と離れた日。私の心臓から死にそうなほど血が流れても、地球は回るのだと痛感した、あの日。私は鉄仮面のまま中学生らしく振舞った。親にも先生にも、同じ小学生出身のクラスメイトからも気づかれず、ただ静々と生活した。なぜ休まなかったのか、引きこもりにならなかったのか、それは今でもわからない。ただ流れる血を眺めるよりかは、その奥の割れ目をえぐりたかった。起きて、学校に行き、図書館で過ごし、家に帰り、勉強をして、寝る。夢の中で萌に会って、起きて絶望する。また、学校に行く。
 そんな時、今私が勤める結婚式場が完成したのだ。私がその結婚式場を見に行こうと思ったのは、なんでだっただろう。明確な理由は思い出せないが、たぶん、そのころには心臓から流れる赤が髪の毛のように細くなり、萌と笑いあった日々を思い出していたころだ。明確な理由なんて必要なかったのかもしれない。私はその結婚式場を見に行った。
 その日は晴れていたから、花嫁と花婿が式場の玄関から出て、参列者からお花を投げられながらおめでとうと祝われていた。黄色、赤、オレンジ、ピンク、太陽を吸収して柔らかく灯される花びら。その間を縫うように、飛び回る蝶。今ではフラワーシャワーという演出だと知っているけれど、その時見た私はそんな知識もなく、おとぎ話を見ているみたいだと思った。
 花嫁が着ていたのは刺繍がたっぷりあしらわれたプリンセスラインのドレスだった。縫い付けられたビーズの一つ一つが太陽の光を反射して眩しいのに、それ以上に白い歯を見せて、目を細めて笑う花嫁に釘付けになってしまう。やっぱり、ウエディングドレスとアザラシの毛並みは似ても似つかなかい。今飛び回っている蝶々のように優雅だと思うだけだ。だけど、花嫁さんが花婿に向ける表情と、アザラシがこちらを見つめた表情は、重なるものがあった。私は花嫁さんから目が離せなかった。
 花嫁さんはまるでおとぎ話に出てくるお姫様のようだった。堂々と背筋を伸ばし、自信に満ち溢れ胸を張る。顔には悩みの欠片が一つもない代わりに、ドレスのビーズが一つ一つ希望や幸せで光った。この世のモノとは思えないほど美しいドレスの仕立てに、これが天の羽衣かと古典の教科書を思い返した。
 かぐや姫は天の羽衣を身に纏うと、一切の悩みなく月へと帰った。
 花嫁と私は住む世界が違うと感じた。花嫁は私とは違う世界に飛び立ったあとだった。
 私が絶望していた間、いったい何組が羽衣を身に纏い、違う世界へ旅立ったのだろう。私が絶望している間にも、人々は悩みなく幸せになるのだ。
「私、お嫁さんになるのが夢なの」
 萌も、幸せになるのだろうか。私が絶望している間にも、ウェディングドレスを着れば悩みがなくなり幸せになるのだろうか。そうなってくれたらと、いつの間にか握りしめていた拳を解いた。私にその手伝いができないだろうか。いつか、萌があちら側の世界に飛び立つその時に、あの子の悩みをなくし、幸せのお手伝いができたなら。

 ケトルが沸き、「カチッ」とスイッチが切れた音がする。私は席を立つと自分の分のコーヒーを用意した。
「水族館で萌ちゃんが花嫁さんになりたいって話してくれましたもんね」
 そうそうと頷きかけたところで、私は空の言葉に固まった。コーヒーを注ぐ前でよかった。本当に良かった。
「待って、一言も私の好きな人が萌だとは言ってないんだけど!」
「見てたらわかります」
 空はまるで大人のように牛乳を一口飲んだ。最近は萌と私に指摘され、大好きな牛乳でもごくごくと喉を鳴らして飲まなくなった。髭がつかなくなった空を見るのは、成長を実感して嬉しいような、もっと子供でいてほしいような、不思議な気分になる。きっと空のお母さんも同じ気持ちで指摘できなかったのだろう。
 しかし空の答えのようで答えじゃない答えを聞きながら、私は気まずさをコーヒーとともに飲み干した。可笑しいな。鉄の女のはずなんだけどな。
 「沙重ちゃん」空の呼びかけに顔を向けると、空はコップを置いて姿勢を正した。両手を膝の上に置き背筋を伸ばす姿に、私も向き合って居住まいを正す。空は唇を袖で拭った。ついていない髭を拭った。
「萌ちゃんは、私の父母がいなくなったとき、真っ先に駆けつけてくれました。現実を受け止められなくて私が泣けなかった分、萌ちゃんがいっぱい泣いてくれました。でも泣きながら、いろんな手続きを私の代わりにしてくれたんです。泣きながら、何も食べずにいた私の面倒を見てくれたんです」
 私はコーヒーを置いた。そして姿勢を正した。
「萌ちゃんが家を片付けてくれていた時、家を空けないといけないって言われました。なんでか理由は教えてくれなかったけど、遠くに逃げなきゃいけないって。萌ちゃんは真っ先に沙重ちゃんのところにいきました」
 私は小さく頷き、先を促す。ちゃんと聞いてるよ。空の表情が少し綻んだ。
「沙重ちゃんは私たちが急に押しかけても、理由を聞かずにホットミルクをくれて、水族館に連れて行ってくれました。沙重ちゃんが大好きです」
 私もだよ。私がそう思ったタイミングで、空は子供のように無邪気に笑った。私の表情は変わっていない。でもいつの間にか、萌と同じぐらい、空も私の感情の変化に気づくのが上手くなっていた。 
「沙重ちゃんと初めて会った日。ずっと泣けていなかったのに、萌ちゃんと一緒に寝たら泣けました。泣いてる私をずっと抱きしめてくれた萌ちゃんも大好きです」
 空は再び表情を引き締め、姿勢を正した。
「萌ちゃん、明日は勝負の日だって言ってました。だからその勝負が終わったら、遠出しようって。どこでも好きなところに行こうって。行けるようになるよって。お家にも帰れるよって」
 空が言葉を切った。壁に隔てて聞こえるはずのない、萌がタブレットに線を描く音がする。
「戦ってくるねって、笑って言ってました。私には、萌ちゃんが何と戦ってるのか、わかりません」
 指先が濡れた気がした。三人で寝た最初の日。萌の涙を拭った感覚は、頭を撫でた感覚は、まだ私の指に残っている。
「沙重ちゃんは、私たちがこの家に来た最初の日に、言いたくないことは言わなくていいって言ってくれましたよね。私は言いたいので言います」
 空は大きく深呼吸した。その拍子に、雨粒が零れた。
「萌ちゃんを守りたいんです。でもきっと、私に詳細は打ち明けてくれないから、」
 空は頭を下げなかった。頭を下げずに、涙を零しながら、私の目を真正面から見つめた。
「萌ちゃんの話を、聴いてもらえませんか」

 漸く空が白み始め、光が差し込み、始発電車が動き出したころ。萌は音もなく布団から置き、手短に身支度をし、何も言わず部屋を出た。
「萌」
 玄関で靴を履いていた萌を、呼び止める。萌は肩を揺らすとゆっくりこちらを振り返った。
「おはよう、沙重。ちょっと、行ってくるね」
「どこに行くの。空ちゃんが心配してる」
 萌は口を開いて、何も言わずに閉じた。それが私のスイッチを押した。「カチッ」と響いた私の心の中のスイッチはやけに軽いプラスチックの音がした。
「私、言ったよね。萌のこと守らせてって。あの男がまだ近くにいるかもしれないのに出かけるんだ? 守らせてくれないんだ?」
 萌はただ私の言葉を受け止める。シンと雪が降った日の朝のように張りつめた萌の雰囲気のまま、萌はじっと私を見つめてくる。私の言葉に動揺することもなく、焦って否定の言葉を投げかけるでもない。うっすらと蝶の羽が浮かび上がって、だから、私の言葉は止まらない。
「あの日からずっとずっとずっとずっと! 守れなかったことを後悔してる!」
 久しぶりに大きな声を出した。声が震えて、変に語尾が上がった。語尾が上がるのとは逆に私の視線は落ち、萌の靴をただ見つめた。萌の顔は見えない。萌の足が靴を脱ぐと、私に近づいた。視界に萌の体が占める割合が増えて、私の手を取った。いつの間にか拳を握りしめていた私の手を、萌はそっと包み込んだ。昔話をするように、萌は静かに口を開いた。
「お姉ちゃんね、ストーカーがいたの」
 唐突すぎて、意味が分からなかった。肩が上がり呼吸が乱れていた私は話す勢いを失くした。そんな私を無視して、萌は続けた。
 萌のお姉さんの妊娠が発覚し、夫婦は一軒家に引っ越した。空が生まれて数年、幸せに暮らしていた。そこは所謂都市開発地域で、次々と新しい住人が移り住んだ。いつの間にかお姉さんたちが地域住民の中で先輩になっていたそんな時、ある女が隣のマンションに引っ越してきた。その女はお姉さんと同い年のようだった。
「お姉ちゃんたちは最初、誰にでもするように、お隣さんに優しくルールを教えたんだって。ゴミ出しの仕方とか、町内会のルールとか。でもそのお隣さんは一人暮らしが初めてだったから、もっといろんなことを話したらしいの。美味しく料理を作るコツとか、洗濯の仕方とか。時には趣味の話や家族の話もしたみたいなんだよね。お義兄さんは営業だから毎日車の運転が大変そうだとか、空ちゃんは絵を描くのが好きだから絵画教室に通わせたいとか、双子みたいにそっくりな妹がいるとか。そしたらね、なぜかポストに結婚指輪とか、卑猥な下着とか、コスプレ服とか、未使用の妊娠検査薬を入れられる、変な嫌がらせをされるようになったんだって」
 私は想像して絶句した。ポストを開けた瞬間に、がらがらと雪崩出る卑猥な下着、際どいスカート丈のコスプレ服、そして結婚指輪に妊娠検査薬。雪崩落ちてきた品物は積もりに積もって足を抜くことができない。意図も理解できない好意はただの意志を持ったヘドロで、糸を引いて粘着き、身を捩っても絡んでなかなか離れない。
 お姉さんがそういった嫌がらせを受けていたことにも絶句したが、この話の結末がどこに向かうかわからない。声を挟むタイミングもわからない。声を出すこともできない。
 萌は話しながら握りしめていた私の手をゆっくりと開いた。力が抜けた手で、私は萌と指を絡ませた。私の鉄仮面とは違い、いつもの騒がしさが鳴りを潜めた萌の表情は、誰にも汚されていない積雪のようだ。
「次第にね、無言電話や嫌がらせ電話が来るようになったんだって。話しかけると無言なのに、お姉ちゃんが無言でいると、早く別れろとだけ言われて、電話が切れるの。女の人の声だったから、お姉ちゃんはお義兄さんの不倫を疑ったの。でもお義兄さんは定時で帰って家事を率先してやってくれるし、休みの日は空ちゃんと遊ぶ、本当にいい旦那さんなんだよね」
 萌の手が私の指の輪郭をなぞる。産毛をなぞるかのようなその微かな動きはくすぐったく、乾いていて不快感も粘着きもない。私はされるがままになっている。萌の声音も、表情も、変わらない。
「ついにね、お隣さん。お姉ちゃんの格好をまねするようになったの。服装だけじゃない。髪の長さも、色も、肌の色も化粧で全部全部一緒。全部一緒になった時、お隣さんはお姉ちゃんになんていったと思う?」
 萌が強く、私の手を握った。萌は私の顔を見て、眉を下げて笑った。
「お姉ちゃん、だって」
 鳥肌が立った。心臓が止まった。
 私の頭の中で、顔が塗りつぶされた女がお姉さんに詰め寄る。お姉さんは小学生の格好のまま、女はお姉さんと同じ格好をしている。女は顔が塗りつぶされているのに、なぜか三日月のように笑う口元は真っ赤に塗られて存在を表していた。その口元がパラパラ漫画のように不自然に動き、言う。「お・ネ・エ・ちゃ・ん」と。萌の声で。
 想像が次第に晴れ、真っ赤に染まった視界から目の前の萌に視線が定まる。思い出したかのように徐々に鼓動がフェードインしてくる。
「お隣さんは次第にエスカレートしていった。留守番電話にお姉ちゃんと一つになりたいけどなれないから双子で我慢するとか。お姉ちゃんの赤ちゃんが欲しいからお義兄さんを襲うつもりだとか。でもやっぱりお義兄さんは邪魔だとか」
 萌の笑い顔が崩れていく。口がへの字に曲がり、目に涙が浮かぶ。泣かせたくないのに、ようやくいつもの表情がコロコロ変わる萌らしくなって、私は手を握り返した。萌はつっかえつっかえ言葉を続けた。
「お姉ちゃんたちは自損事故だったの。お姉ちゃんはお義兄さんの営業車に乗って、私の家に避難するつもりだったの。でもドライブレコーダーに、ブレーキが壊れた、止まらないって音声が残されてた」
 萌は時折深呼吸をしていたが、決して涙を零さなかった。私はたまらず肩に手を伸ばし、呼吸に合わせて撫でた。私は無言で肩を撫でることしかできなかった。時計の秒針が何周も働き、しばらくして萌の肩の震えは収まった。萌は俯き、一度だけ萌は眼を瞑った。しばらくの間、大げさに深呼吸する萌の呼吸音が玄関に響く。俯いたまま眼を開けた萌は、涙を零さなかった。言葉がスムーズに流れる。
「営業車は一日の終わりに点検する決まりがあるんだって。その記録では、車に異常はなかった。遺品整理したときに、ストーカー被害に悩まされてるって、お姉ちゃんの日記を見つけた。警察にはすぐ届け出た。車に残ってた不自然な傷とか、いっぱいいっぱい証拠を集めて、近所の人に聞き取りをして、警察の人と情報連携して、監視カメラを調べてもらったりしてた。してるところで、昨日、あの女はお姉ちゃんの家に不法侵入して捕まったの」
 萌が顔を上げたとき、あまりにも強い視線にたじろいだ。包丁を目の前に突き付けられた思いがした。
「ストーカーの存在に気づいたときに、真っ先に空ちゃんを守らなくちゃと思ったの。そのときに真っ先に思い浮かんだのが、沙重のことで」
 萌が俯くと同時に、語尾は俯き消えた。だけど、「だから、逃げてきたのだ」と、言われなくても伝わった。ようやくすべてが繋がった気がした。空に留守番を強いていたこと。防犯ブザーを持たせていたこと。過保護でもなんでもない。空はお姉さんの忘れ形見だ。空に何かが起こったとき、私か萌のどちらかがすぐ動けるように。どうしても私と萌の目が届かないときでも、空が自分の身を守れるように。萌は小学生の時のように、空を守る方法を考えていたのだ。守る側の私にも告げない、肝心なことを本当に言わない萌に怒らないといけないのはわかっている。それでも今だけは、萌の頬に手を添えて顔をあげさせた。萌の言葉がまた、しっかりと紡がれる。
「ようやく昨日、ストーカーを逮捕できた。ようやく、お姉ちゃんの仇をとる準備ができた」
「何するの」
 そっと囁く私に、萌は微笑み首を横に振った。
「被害届を出してくるだけ。これで芋づる式に取り調べができる。公的なやり方で、罪を償わせる」
 「空ちゃんにはこんな手続き知らなくていいんだから」と萌は笑ったが、その笑顔の種類は初めて見た。お母さんが遠くから我が子を見つめるような、遠い国に恋人を置いてきた戦士のような。目を細める笑い方。
 萌はずっと、私と会う前から戦っていたのだ。空にも私にも、何も言わずに、弱音も吐かずに、戦っていたのだ。
「よく、頑張ったね」
 繋いでいた手を引き、萌を抱きしめた。萌は素直に私の背中に腕を回した。私の方が抱きしめる強さが強い。でもこの細い腕には、誰よりも強い力が宿っているのを知っている。萌は私の胸元に瞼をこすりつけた。かすかに服が濡れ、水滴が肌を撫でる感触がした。
「沙重はずっと守ってくれてたよ。沙重が私と空ちゃんを何も言わず、何も聞かずに一緒に生活してくれたから、今の私があるんだよ」
 何もない背中に回していた手を挙げて、頭を撫でる。ふとくすぐったい吐息が服越しにあたった。笑ってくれたのだと思う。
「沙重がいなかったら、たぶんまた無茶な守り方をしてた。自分を囮にしてストーカーをおびき出すぐらいしてたかもしれない。沙重が出してくれたカフェオレのおかげで、心が休まったの。沙重が何も聞かずに受け入れてくれたから、その信頼を損なっちゃいけないって思ったの。沙重のそばにいたから、無茶なことはしないって思えたの」
 萌が腕の力を緩め、ゆっくりと離れた。体が離れ、腕が離れ、萌と距離が空く。体温が離れる。だけど私は何も心配していなかった。
「絶対、帰ってくるから。沙重も、空も、私自身も、私が守るから。待ってて」
 意志の強い瞳を宿した萌は、もう綺麗な笑い方をしない。萌は飛びたたない。最後に指先が絡まり、外れた。それが分かっただけで、十分だった。

 萌を駅まで送り届け、足早に自宅に帰った。空は起きて、食卓テーブルに座って待っていた。いや、空は最初から起きていた。そして私たちの話を聞いていたのだ。
 テーブルの上にはラップされたサラダとヨーグルトと、メモが残されている。「簡単なものでごめん! パンと一緒に食べてね」という文字とハートマークが飛んでいる。大きなハートマークが二つと、小さなハートマークが一つ。
 戦う時ぐらい、自分のことを優先していいのに。そのメモを拾い上げ、空に声かけた。
「空ちゃん。ちょっと相談したいことがあるんだけど」
 空は不思議そうに首を傾げたものの、「どうぞ」とコーヒーが注がれたマグカップを手渡してくれた。

 時計の針が真上から大きくずれたころ、駅の改札口前で、空と手を繋ぎ、今か今かと萌を待つ。今日、私たちの手には傘がない。改札口まで、太陽の光が見守っている。だけど、お迎えに天気なんて関係ない。空は懸命に背伸びして、改札を抜ける一人一人の顔をチェックしていた。
 一番に見つけたのは空だった。「萌ちゃん!」と大声で呼び、私と繋いだままの手を大きく振る。空の声に気づいて顔を上げた萌が小走りで近づいてくる。もどかし気に改札に切符を通し、小走りの勢いのまま私たちに抱き着いた。私はしっかりと受け止めた。
「ちゃんと、手続してきた! ちゃんと、お願いしてきたよ!」
 よくやったと萌を抱きしめ頭を撫でる。空も萌にしがみつき、何度も頷いた。
「おかえりなさい」
「ただいま!」
 私と空の声が重なった。大きく響く声に何事かと周りの人が一瞬こちらを振り返る。ただ抱き合っている私たちにただのお迎えかと納得しては、足を止めることなく再び自分たちの家へ急ぐ。
 漸く腕の力を緩ませた萌は、小学生の子供みたいに、無邪気に大きな口を開けて笑った。
 
 私たちの手にはマグカップがある。私はコーヒー、萌はカフェオレ、空はミルク。並び順も変わらない。私の正面に、萌がいて、斜め前に空がいる。萌はカフェオレを手にしながらも口づけることはなく、警察署で聞いた今後のことを語った。
 これから取り調べが始める。警察はストーカー女が車に細工している防犯カメラの映像を入手したらしい。他にも萌が集めた証拠の数や質が良く、刑事事件として扱えるとのことだった。萌は被害届を提出した。ストーカー女の裁判手続きが始まる。
 萌は空の顔を覗き込んだ。
「これで空ちゃんは好きな時に外に出られるし、好きなだけ学校に行けるよ」
「嬉しいです。でも私はここに引越しします。沙重ちゃんの許可は取ってます」
 淀みなく言い切る空に萌が固まる。え、と小さく声を零して動き出したと思ったら、私と空の顔を交互に見つめた。ようやく私に視線を定めたところで、私も言い切った。
「萌、結婚しよう」
 萌は目を見開いた。周りから音がなくなって、永遠とも思える時間、私は胸の鼓動を数えた。いつもより少し早くて、熱い。でもそんな鼓動の音より、私は萌の声を欲した。
 誰も何も言わなかった。萌は目を見開いたまま、瞳を揺らして揺らして、考え込んでいた。萌の手を空が掴んだ。萌は自分の手を握る空の手を見つめ、そして私を見た。笑みはない。表情が抜けたように、ただ目を大きく丸くしている。
 萌はそっと囁いた。力が抜けたような、眠る前の囁き声に近かった。
「私とじゃ、子供を持てないよ?」
「空ちゃんがいるじゃん」
「私は、沙重の花嫁姿も見たいのに」
「二人とも花嫁でいいじゃん。私はパンツスタイルでもいいし」
 即座に言い切る私に萌は口を噤む。再び始まる、無言の時間。心臓の音だけが聞こえる。こめかみに汗が伝う。萌の肩が軽く上下する。萌が悩んでいる間、私は無言で耐え忍ばなきゃいけないのかもしれない。萌を焦らせたらいけないのかもしれない。でも。
 うんって、言ってくれなきゃ困る。
「ずっとずっと、結婚式場で働きながら、他人の花嫁に萌の顔を当てはめてた。私なら萌にどのウエディングドレス着てほしいか、どのウエディングドレスが萌に似合うか、ずっと考えてた」
「……そういう看板あるよね。ほら、観光名所にある、顏嵌めパネルみたいなやつ」
 私から視線を反らしながら返す萌に「現実逃避しないでください」と空が口をはさむ。困惑したように、助けを求めるように萌が空を見つめるが、空は一度頷くだけだ。これで何度目か。おずおずと視線を戻した萌と視線を絡ませる。いくら萌から視線が逸らされても、何度萌が視線を反らしても、私は絶対に逸らしてやらない。
「私、あの男に汚されたのに、私も家族になっていいの?」
「当たり前じゃん。それに、萌は綺麗だよ」
「沙重の方が綺麗だよ~!」
 萌はテーブルを叩いて立ち上がり、私に身を乗り出す。萌は駄々っ子のように急に声を大きくした。突然の大声に耳を抑えた空は肩を震わせている。私は思わず後ろにのけ反った。今はそんなことで張り合う必要ないのに、萌の瞳はあくまでも真剣だ。空は驚いたのを誤魔化すように席を立つと、アザラシを持ってきた。萌は第四の瞳に突然我に返り、重力に従い椅子に座り直した。
「沙重ちゃんの告白にノーなんて言わせませんから。このアザラシが人質です」
 アザラシがいつもより紅潮している萌の頬をつつく。
「また水族館に行って、アザラシを見てる萌を空と見守りたい。今日も川の字で寝て、夢の中でも二人に会いたい。肝心なことを言わない萌を空と一緒に叱って、空の成長を萌と分かち合いたい」
 それでも萌は視線を俯かせ彷徨わせてる。
「うんって言ってくれなきゃ、困るんだけど」
 つい、言葉が弱弱しく震えて消えた。萌は私の言葉をとらえるように勢いよく顔を上げた。萌は口を開けて、それでも閉じる。
「家族になろうよ、私たち」
 一回、深く呼吸をした。
「私のお嫁さんになって、萌」
 手を伸ばす。一瞬の間。萌はテーブル越しに、私に抱き着いてきた。大きくテーブルが揺れたが、マグカップは奇跡的に倒れなかった。うんって言ってくれなかったけど、腕の力強さに免じて、しばらくわんわん泣かせておいた。

 萌の涙腺が落ち着き、頬はなく目がウサギのように真っ赤になった後。空がアザラシとジンベイザメでさんざん萌をからかう中、私は萌を手招きした。
「なーに?」
 若干鼻声で声もかすれているけど、機嫌よさそうに近づいてくる萌の手を取り、私は萌の手のひらにあるものを乗せた。
「私がいなくても、萌のことを守れるように。萌が安心して戦えるように。やっぱり最近何かと物騒だし、絶対に持ち歩いてほしいと思って」
 萌がまじまじと見つめる視線の先、手のひらの上には、卵型のキーホルダーがある。空と色違いの、アザラシのように真っ白な防犯ブザー。すぐに使えるように、空とセッティング済みだ。
「本当は大人っぽい防犯ブザーにしたかったんだけど、意外と防犯ブザーが売ってなくて」
 最近では名刺入れの形に似た防犯ブザーがあるらしい。でも萌が帰ってくるまでの間では見つけ出せず、空が見つけてきたのがこの防犯ブザーなのだ。このお揃いを空が喜んだので、逆に大人っぽい防犯ブザーが見つからなくてよかったと思っている。
 萌の目が再び潤む。もう泣かせたくない私は慌てて両手で頬を挟み、親指で目の下をなぞった。そんな過保護さに萌は目を細めると、キーホルダーを恭しく胸の前で抱きしめた。自分の子供のように。
「ありがとう。大事にする」
 目を伏せても萌は泣かなかった。額を重ねて至近距離で見つめると、萌が私をとらえた。潤む水面に私がぼやけて映っている。私の目には萌の瞳だけがぼやけて映っている。でも空気の揺れで、萌が笑ったのが分かった。
 突然、太ももに何かが突っ込んできた。空が私たちの間に狭そうに入り込んでくる。私たちは一旦離れてどうしたの?と尋ねても、空は返事することなく無理やり私たちの間に収まり、萌の手から防犯ブザーを取った。そしてそのまま萌の手を取り、キーリングを萌の左手の薬指にはめた。広げられた指からぶら下がる防犯ブザーと空を、私たちは不思議そうに交互に見つめた。
「結婚指輪です」
 あまりにもマセている空の発言に、萌は音を立てて頬を赤くした。ゆでだこみたいに真っ赤になった萌は、「もう!」と何かを言いながら空の肩を軽く叩いている。二回も三回も叩かれながらも、空は得意げな表情をして「痛いです」と文句をいった。人に見せびらかしたいのに、人に見せられないほど、見せたくないほど、幸せはこの部屋に溶けていた。
 ピンポーンと間延びした音が鳴る。久しぶりに聞く音に自宅のインターホンの音だと気づかなかったが、萌はすぐ動いた。私よりも家にいる時間が長い分、聴く頻度も高いのだろう。私が出ようかと声をかけたが、萌は後ろ手に手を振っただけだった。
「いいよいいよ、出ちゃう。奥さんみたいで素敵だし」
 もう一度なるインターホンに、萌は「はいはーい」と歌うように答えながら扉を開けた。私は可愛らしいなとその後姿を眺めていた。
「……え?」
 小さな呟きを残して、萌そのまま倒れんだ。糸が消えた操り人形のように膝から崩れ落ちた。何が起きたのか全くわからなかった。
 萌の向こう側、体育教師の男がたっていた。男は包丁を持っていた。包丁は、なぜか赤い。萌の胸元の服が、雨が染み込む地面のように、じわじわと床を赤で汚す。萌はその胸元に両手を伸ばし、思いきり防犯ブザーのキーリングを引っ張った。
 警告音が鳴る。男は萌に馬乗りになった。萌を刺した。男は私の顔を見た。忌々し気に顔を歪めた。萌は動かない。男は萌の体を何度も刺した。警告音が鳴り響く。男は聞こえないかのように萌を刺した。刺した。刺した。警告音が私の背中を押す。
 私は無我夢中で男を殴り、包丁を蹴り飛ばした。頭が痛くなるような耳障りな音。近所の人が出てきた。男は取り押さえられた。外が騒がしい。誰かが叫んでいる。そんなことはどうでもいい。萌に駆け寄った。不規則な呼吸音。「救急車!!」
 萌は胸と下腹部を重点的に刺されていた。必死でお腹の傷口を抑えようとするも、手が足りなかった。たくさん血が出てる場所を抑えて、それでもあふれ出る赤。足りない。足りない。駆け寄る音。小さな手が胸元を抑える。手を赤が汚す。でも足りない。早く、萌、早く、誰か。
「萌! 萌!」
 キーリングは萌の左手の薬指にハマっていた。どこかに行った防犯ブザーは、ずっと警告音を鳴り響かせていた。

 萌は、死んだ。
 男は、駅で会ったあの日から、ずっと私たちを探していたらしい。しかし家を探し出せず、最近は毎日毎日駅を見張っていたという。そして今日、再び萌を見つけた。萌が電車に乗ってからも、男はずっと後をつけていた。萌が警察署に行ったことで、男はもう一度、萌に自分の人生をめちゃくちゃにされると思い込んだ。ただ萌と警察という単語を繋げただけで、男は自分の人生がめちゃくちゃにされると思い込んだのだ。
 萌が帰ってきても後をつけて、私たち三人が合流しても、男は襲うのを我慢した。我慢して我慢して、私たちの家を突き止めてようやく男は、ホームセンターに寄り、包丁を買った。
 男は萌の胸と下腹部を執拗に刺した。不快で粘着質なその感情を、私は絶対に許さない。

 警察署の霊安室で萌と対面した私と空は、しばらく声も出せなかった。この部屋は薄暗く、そして骨の芯まで冷やしてくる。吐く息は無色だ。カチカチと歯が鳴る音が聞こえる。空と手を握って耐えた。
 萌は一点を除いて寝ているようだった。目を閉じているさまはいつも三人で寝ているときのそれと同じなのに、いつも紅潮していた頬は、内側から発光するかのように青白かった。
「別に萌が白くならなくてもいいじゃんね」
 小声で呟いた言葉に、我に返った。私は自分が何を口走っているのかわからなかった。空が私の顔を見たが、なんでもないと首を横に振った。私が話さない代わりに、空が口を開いた。
「私の母は、ストーカーの危険性をわかっていたのかもしれません。父も母もいつか危ない目に合うかもしれないと、いなくなる数日前に私に打ち明けてくれました。だから、言いたいことを全部言えたんです」
 空は私の手を強く握った。強く強く握りしめた。まだ萌の血で赤く染まっている空の手と、私の手。
「人がいなくなる時は、必ず覚悟ができるものではないんですね」
 そうだねと、舌の上で動かした言葉は胸がつっかえ音にならなかった。そうだね。私が萌と離れたときも、覚悟なんてできてなかったよ。私は空の手を同じ力で握り返した。
 二人してただ萌を見つめる。萌は寝ているようで、まるで私たちの方が幽霊になったみたいだ。萌は私たちの存在に気づいて、起きてくれない。地球が何回転しても、私たちがいくら絶望しても、萌はもう、起きてくれない。
 今日からまた始まるのだ。既に私の心臓は血が流れている。血が流れ、心臓を覆い、傷口は見えない。呼吸もできない。呼吸もできないから、痛みも感じない。いや、違う。痛いことが普通になっている。寝て、起きて、ご飯を食べて、仕事をして、どこかのタイミングで少しずつ血が排出される。呼吸をするとともに、傷口をひっかき続けるような痛みがずっとする。お腹も頭も眼もすべてに痛みが走るのに、周りの人たちは笑ってて。私たちと住む世界が違う人たちは、何も変わらず笑っていて。
 今日は何人の花嫁が笑ったのだろう。そう考えたらなぜか、胸の赤色が減った。
 私と同じ世界に住んでいる、小さい手を握りなおした。
「空ちゃん、準備しよっか」
「黒い服、持ってないです」
 空は不安そうに呟いた。
「父と母の結婚式では、萌ちゃんが黒いワンピースを葬儀屋さんで借りてくれました」
 私は首を横に振った。何度も何度も首を横に振ることで、心の中の赤が流れ出ていった。なのに、なぜか痛くない。自分が何をすべきかわかったから。そちらに気を取られているから。
「私たちは、白い服を着よう。萌も、できるだけふわふわの、アザラシみたいにふわふわな服を着せよう」
 いいんですかと呟く空の言葉に、食い気味に私は被せた。「いいの」
「絶対、悲しい思い出なんかに塗りつぶさせない」
 赤にも黒にも、奪わせない。私は屈み、空と目を合わせた。かすかに震える肩を掴み、頭を撫でる。
「これは結婚式だから。萌と私の結婚式。空ちゃんにいてほしい。ダメかな?」
 空は音が出そうなほど首を横に振った。横に振ってくれた。
 言葉もなく、私と空は萌の寝てる姿を見つめた。

 葬式も告別式も、雲一つもない青空だった。式には私と空だけが参加した。萌のご両親、つまり空の祖父母は既に他界していた。さすがに本物のウエディングドレスは用意できなかったが、萌がお気に入りの白いワンピースで代用した。ふわふわのフリルがたっぷりとあしらわれた、Aラインの白色のワンピース。私と萌が再会していた時に来ていたワンピースだ。天の羽衣と呼ぶには少しファンシーかもしれないけれど、アザラシのようにふわふわで、萌の少女らしさと相まって、私も一番好きな服だ。空は萌とおそろいのワンピースに身を包み、天使のように愛らしい。私は白のスーツスタイル。火葬場のスタッフさんは私たちのことをじろじろ見ることなく、何事もなかったかのように進行してくれた。血を流し続ける胸に、その優しさは沁みた。
 空は気丈にも泣かなかった。「結婚式なんだから笑顔が溢れてるに決まってるでしょう」と、ぎこちなく微笑んでみせた。萌が寂しくないように、棺にはアザラシのぬいぐるみと防犯ブザーと私の髪の毛の束を入れた。空はアザラシを棺に入れるまでに、ジンベイザメとアザラシの手を繋ぎながら、とことん空で泳がせた。でも防犯ブザーは、空の手で私の元まで返された。
「これは結婚指輪なんだから、沙重ちゃんがちゃんと持っててください」
 その小さな卵型のキーホルダーは、空の体温が移り温かかった。

 萌とお別れの瞬間、違う世界へ羽ばたく萌を見送るため、私たちは外に出た。煙が出始める。煙に乗って、蝶の羽を付けた萌が空に昇っていく。
 雲が一つもないにもかかわらず、今晴れていたのが嘘のように、雨がぽつぽつと降り始めた。景色にノイズが混じる程度には、雨は存在感を増した。雨は煙にも襲い掛かり、萌の煙を乱した。私は何度も目を瞬いた。煙とともに昇りはじめたはずの萌の姿が見えない。何度目を凝らしても蝶の羽は見えない。萌は飛び立たんじゃなかったのか。いや、でも萌はもうここにはいない。違う世界に飛び立ったはずだ。本物のウエディングドレスじゃないから、天の羽衣じゃないから、飛び立てなかったのだろうか。どこに行ったのかと勢いよく周りを見回して、空に名前を呼ばれ下を向く。
 雨の中でも空の声は聞こえた。傘を持ってきてなかった私たちは、されるがまま雨に打たれていた。私は空を抱き寄せた。空の目はウサギの目のように真っ赤になっていた。雨が降ってよかったと思った。今は空の涙を拭ってあげる余裕はなかった。でも、私がこの子の泣ける場所でよかったと心から思った。
 私の肩甲骨まであった髪は顎までの長さになった。雨でへばりつく髪の毛が鬱陶しいのに、あまりの軽さに慣れなくて、何度も何度も髪の毛を手で透いてしまう。そんな私を見て、空は「似合ってますよ」と私の手を握ってくれた。

 煙はずっとかき消されている。私たちは見えない煙の行方を追った。もう見失ってしまった羽を、それでもどうしても目で追っていた。もしかしたら私たちは、全く違う方向を見ているかもしれなかった。雨は、火葬が終わるまで続いた。
 
 その日、私と空は布団に倒れこみ、泥のように寝た。夢の中で、私は真っ暗な世界にいた。上も下も右も左も真っ暗なのに、閉塞感はない。あたりを見回して、真後ろを見た瞬間に飛びあがった。萌は白いワンピースを着て笑ってた。私は声を上げて驚いたはずなのに、私は口を開けても声が出ず、喉を抑えた。そんな私の様子を萌は笑ってた。根が生えたように萌はじっと動かなかった。羽は、見えなかった。

 地球は回る。私たちの関係に忌引きは適用されず、萌が死んでから三日目には通常の生活に戻った。萌がいない、歪で普通な生活。
 空は私の家から通える学校に転校したが、休日に私から離れたり、一人で留守番することを怖がり嫌がった。私の靴や車の鍵を隠したり、出勤時間になるとしがみついて離れなくなる。今まで聞き分けのよかった空自身、なぜこんな行動をしてしまうのか、空自身混乱しているようだった。だから職場に頼み込み、空の学校が休みの日は結婚式場のエントランスにいてもらった。空はジンベイザメを片時も離さず、エントランスで大人しく絵を描いている。エントランスには必ず人の目があるから、何が起きてもすぐに対応してもらえる。後輩には事情を説明したら、進んで空に声をかけてくれるようになった。最初はいい顔をしなかった支配人も、空が誰にでも丁寧に話しかけお客様に会場を案内したり、出る幕がなければ大人しく絵を描く愛らしさに、お菓子をくれるようになった。
 私は最近後輩のフォローに回っていたこともあり、職場の皆の気遣いもあって、しばらく受付の仕事を任されるようになった。受付からはエントランスの空がよく見える。
 受付の仕事のメインは、来場された花嫁花婿を担当のウエディングプランナーに引継ぎ、そしてお客様に会場を案内すること。時折電話での問い合わせに答えながら、現在進行中の結婚式には参加せず、次に予定される結婚式のために、ウエルカムボードなど受付の飾りつけを始める。
 ここ最近は気持ちのいい秋晴れが続き、訪れる人は主役も来賓も問わず、誰もかれもが晴れやかな笑みを浮かべている。天気予報ではこれから先数日も雨が降らないらしい。過ごしやすい気温で天気のいい日が多い秋口も、結婚式の予約は多い。あわただしい日々がまた始まろうとしている。だから私は、ウエディングプランナーとして、気持ちよく式が進行するように、受付からでも軌道修正を掛ける。
「あ、いたいた。おねーさん久しぶり。ほら、覚えてる?挙式の時にご飯でもって誘った花婿」
 次の式開始まであと十分。エントランスにいるお客様が式場に向かえるよう、受付から離れようとした私の前に、男が立った。
 ウェーブの髪、甘いマスクに、白く光る歯。声を掛けられても、私はそいつを人間だと認識できなかった。認識できなかったから、何の反応もできなかった。ぼんやりと視線で形をなぞる。見ているようで見えていない。人型に似た物体のナニカを見つめる。
「すげーブスに説教されて鬱陶しかったから控えてみたけど。やっぱお姉さんに会いたくてさ」
 何も反応しない私を気に留めることもなく、ナニカは受付台に腕を乗せて身を乗り出した。やめろ、汚れる。
 エントランスで絵を描いていた空が顔を上げて、私の様子を伺っている。
「てか、髪切ったんだ。黒髪の艶髪も色っぽくてよかったけど、今のショートもお姉さんの線の細さが出て最高」
 次第にナニカの声も不鮮明になる。ゴミに群がるハエの音のような不快な声が周りを飛び跳ねる。ちかちか、ちかちか。ただの白い光の点滅は赤い絵の具が混じるように、赤い光の点滅に変わった。目の奥が痛い。
「あ、今既婚者なのに軽い奴って思ったでしょ?俺の奥さんにはもちろん本気だけど、でもお姉さんにも本気よ?俺。いつも気を引き締めてるお姉さんのこと、笑顔にさせたいからって邪魔が入っても何回もここに来たわけだし。お姉さんの頭をさ、よーしよしよしって撫でまわして、猫可愛がりしたくて」
 赤い光の点滅の隙間で、なんとかしっかりしなければと頭を働かせる。頭が痛くなるほど必死で目の前を見ていた。それなのに、現実逃避を助長するかのように、脳は少ない理性を総動員させて、目の前の現実とは違う映像を映し出した。急に、男の声が鮮明に聞こえた。
「相手の欲望のために利用される、二番手」
 赤。呪い。男。萌。
 私は思いっきりキーリングを引っ張った。ねばりついて離れない頭の中を声をかき消す警告音に、胸の中が空く思いがした。突然鳴り響く警告音に、周りが一斉にこちらを振り向いた。後輩が式場から走ってくる。ナニカは目を見開いていた。
 私は防犯ブザーを引き抜いた状態で、ナニカに笑って見せた。綺麗に弧をかいて、歯を見せて笑った。
「死ね」
 私は防犯ブザーを男に向かって叩きつけた。力が入りすぎた防犯ブザーは男の顔の横を通り過ぎ、遠くの人混みの中に落ちた。落ちた先では女性の悲鳴が上がり、蜘蛛の子を散らすように人混みが割れた。押し合いへし合い、誰かが足を踏んだだの、同僚たちの謝罪の声だの、落ち着いてくださいとひときわ張り上げられた声だのが、休みなく生じる。
 キーリングを持ったままの私は、防犯ブザーとは反対方向に走り出した。後ろで誰かが私の名前を呼んでいる。脳内ではちらちらと、ナニカが目を見開き固まっていたことを思い出していた。そんな包丁で刺して笑いたくなるような顔を覚えていたくなくて、私はスピードを上げる。
 私は肩で息をしたまま玄関に出た。澄んだ秋の空は天色で、横に伸びた雲が一つだけある。雲から目が離せなくて、髪を結びなおそうと手をあげる。しかし手が空を切り、そもそも今は髪を結んでいないことに気が付いた。行き場所を失くした手が力なく体の横に降ろされる。だらりと、意志も体温も失ったその手を、小さな手が握った。
「ちゃんと、自分を守ってえらいです」
 空がジンベイザメのぬいぐるみを片手に、私の手を握りしめてくれた。私は空の手に引かれるまま屈みこんだ。空と目線を合わせると、空は瞳に涙の膜を張りながら、懸命に笑った。
「いい子いい子」
 小さな手が、私の頭を優しく撫でた。次第に手は勢いを増し、私の髪の毛がくしゃくしゃになるほど撫でる。空の持つジンベイザメの手が、私の肩に触れた。小さな手に撫でられるたびに、大きな手の感触が重なった。
 私は撫でられる手の勢いに押されて、顔を俯かせた。いまだ握りしめられたままの手をじっと見つめる。私の左の指先にはキーリングが引っかかている。あの騒ぎの中、キーリングは投げ捨てなかったのかと見つめた。小さな手がキーリングを包むように握りしめてくれる。ふと、大きな手の感触が重なった気がした。萌と、手を重ねて話し合ったのはいつのことだったか。
 空の手の動きが徐々に緩やかになり、そのまま止まった。
「あの雲、アザラシみたいですね」
 空は雲を指さす。横に伸びたその雲は、確かに萌と見つめ合っていた、ふわふわで真っ白な毛に包まれたアザラシに似ていた。
「左側が顔で、右側がしっぽですね。ふわふわしてます」
 空の指さす方向にあわせて目を左右に動かす。萌は子供アザラシを見て「ウエディングドレスみたい」と言ったのだっけ。ふと手の甲に、雨粒が当たった。
 私は目を見開いた。耳の奥に残っていた警告音がクリアになっていく。萌が最後に着た服は、アザラシのようにふわふわのフリルがたっぷりとあしらわれた、白色のワンピースだ。そのワンピースが天の羽衣だとして、萌に羽は生えるだろうか。蝶になるだろうか。
「きっとこの子たちも幸せな結婚をするんだね」
 遠い昔、水族館で聞いた萌の声が再生される。幸せそうなアザラシの表情を思い出す。
 結婚式の時、萌は花嫁としてあの場にいてくれたのだ。そして天の羽衣を着た萌は、蝶ではなくアザラシになったのではないだろうか。萌は飛び立ってなんかなかった。ふと感じる、萌の手の感触がその証拠だ。
 萌はあの結婚式を、幸せな結婚だと、思ってくれたのだろうか。
 私は、生まれて初めて泣いた。

#創作大賞2023

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