眠れない女
小さい頃から、睡眠が下手だった。
どんなに頑張っても入眠ができず、布団の端をいじり倒しながら「羊を数えると眠れる」という大人の嘘に涙を流した。全然眠れないじゃない。そんなもので眠れるなら苦労はしないよ。頭の中は眠れないことへの恐怖でいっぱいだった。一生眠れないんじゃないか。今この時間、眠れていないのは世界で私一人なんじゃないか。眠れない子供の布団の端は擦り切れそうだった。
あまりの眠れなさに、毎晩眠る前に「神様、仏様、内閣総理大臣、助さん格さん、誰でもいいです。眠らせてください」と心の中でお祈りしてから眠っていた。
本気、だった。
本気で「助さん」ことあおい輝彦と結婚しようと思っていた。
あおい輝彦との出会いは、夕方の「水戸黄門」再放送でのことだ。
茶目っけがあって、時に真面目な格さんに戒められる助さん。
女心がわかって、優しい助さん。
キリッとした顔も笑った顔もチャーミングな助さん。
大体放送開始から45分くらいで「控えおろう」を言う助さん。
私にとっては、誰よりも正義の味方であり、水戸光圀公よりも尊く、しかも歌もうまい助さんは、スーパースターだった。
友達には、KinKi Kidsの光一くんが好きだと言っていたが、心の中にいたのはあおい輝彦だった。掌サイズの光一くんの下敷きを片手に好きな曲は「硝子の少年」だと言いつつ、あおい輝彦の「あゝ人生に涙あり」を求めていた。結婚したかった。あおい輝彦と、結婚したかった。
恋心を燃え滾らせていた幼い私が、「あおい輝彦は結婚している」と知ったのは、出会いから数ヶ月後のことだった。
当時インターネットもなかったため、あおい輝彦情報は「水戸黄門」でしか得られていなかった。
あおい輝彦の年齢もそれまでの出演作も経歴も一切知り得ることはなかったウブな子供の私にとって、ワイドショーか何かで見た「あおい輝彦が結婚している」と言う事実は深く胸をえぐる出来事だった。
「あおい輝彦は結婚している」
初めての、失恋だった。
ちなみに私の初恋は幼稚園にいた双子の男の子のどちらかだったのだが、どちらだったかよくわかっていない程度の恋だった。当時から私は本当に適当だった。
まあいい、そんなことより「あおい輝彦妻帯者」という事実と私の恋心である。
あの涼やかな目で見つめられ、
澄んだ声で愛をつむぎ、
「控えおろう」している人が、いる。
たまらなくショックだった。
あおい輝彦は、私のあおい輝彦ではなかった。
泣けなかった。たまらなくショックだったが、泣けなかった。
あおい輝彦を好きだと誰にも言えていなかったからだ。年の差があるから、と私は心の中で秘密の恋をしていたのだ。秘密の恋を失った私は、周りの人を心配させてしまってはいけないと、泣く事もできず、ただひたすらに心の傷を埋めようとした。
飛猿で。
そう、「水戸黄門」で飛猿を演じていた野村将希のカッコよさに気づいてしまったのだ。自分でもよくわからないが、気づくと水戸黄門で受けた傷を水戸黄門で癒す手法をとっていた。
簡単にいうと、水戸黄門がひたすら好きだったのかもしれない。なんでこんな面白いドラマがこの世の中にあるんだろうと思っていた。毎回そんなにストーリーは変わらないし、正直どんなストーリーだったか1話も思い出せないのだが、なぜか水戸黄門に熱狂していた。小学校から帰って早く水戸黄門がみたかった。本当はVHSに録画していて欲しかった。
もう今は水戸黄門を見ることはない。
求めることもないが、いつだって正義が勝つ水戸黄門は私の心の支えだった。
助さん、格さん、飛猿、本当にありがとう。
心の中でそう呟く。
水戸黄門は卒業したけれど、今も私はうまく眠れない。
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