見出し画像

「科学を短歌によむ」

地質学者である諏訪兼位先生の「科学を短歌によむ」を読みました。諏訪先生の歌と、いろんな科学者の歌、歌の背景が収録されている本です。

染色体ふたつにわかれゆく午後はカーミンの紅はつか滲みぬ【三好みどり/歌集「律速」】

こういういかにも<<科学!>>な場面の歌がたくさん読めるのかなと思って手に取ったんだけど、実は全体のごくわずかで、科学者が自然や日常を詠んだ歌がほとんどでした(ちょっと物足りなかった)。気になった歌をここにいくつかメモしておこうと思います。


砂漠砂は回転楕円体なりき走査顕微鏡下の素顔うつくし【諏訪兼位】

諏訪先生の歌はたくさん載っていたのだけど、これが一番響きました。新聞の歌壇に採歌されて、佐々木幸綱先生に「聞きなれない単語をちりばめて独特の雰囲気をつくっている」と評されたと書いてあるけど、走査顕微鏡を使ったことがある身からすると、独特ではなくてこれはリアルです。「砂漠」という雄大で果てしなく大きいスケールから、「砂」の目に見えない世界の極小スケールに落ちていくそのロマン~!美しいっ!ってなる。果ての見えない砂漠の写真から、ぐぐーっと砂粒にフォーカスが寄って行ってその粒の「素顔」まで見えていくその引き込み感。走査型電子顕微鏡はモノの細かい「表面」が見れる顕微鏡なので、素顔という言葉のチョイスも大納得のそれ。顕微鏡から覗き見る物体の素顔…透過型電子顕微鏡だとまた全然違う歌になるな~とかまで考えました(超楽しい)


百余り文献をタイプに打ちており読み読みてわれの加うるわずか【永田和宏/歌集「やぐるま」】

研究の成果は論文で表現します。一つの論文を出すには、その先人たち百余りの論文も読みます。一本論文書くだけですんごい大変なのに、自分はこの知のほんの一部なんだという、なんともいえない無力感。書いている一本に向き合っているときはそれが世界のすべてなんだけど、分野全体を客観的にふと見たときに自分がぎゅっと小さくなるちっぽけ感。でも、ちっぽけだけど、唯一無二最先端の一部になれるんです。


おもいきや東の国にわれ生(あ)れてうつつに今日の日にあはんとは【湯川秀樹/歌集「深山木」】

タキシード晴れがましければカクテルの杯をかさねてまぎらさんとす【湯川秀樹/歌集「深山木」】

この2首はノーベル賞受賞式の際に詠まれた歌です。このシーンをこの目線で詠みうる人は今でも30人くらいしかいない。しかも1首目は日本人で初めてノーベル賞を取った湯川先生だけにしか読めない歌ですね。でも2首目は普通に緊張しているおじさん(失礼)の姿を想像してしまうような歌で、そんな2首の並びに科学者の人柄というものを感じたりします。


肉体の死にやや遅れ億の死の進みつつありTubercule bacilus(ツベルクルバチルス)【永田和宏/歌集「無限軌道」】

「ツベルクル」という響きから結核だなって説明されなくても分かる。宿主が死ねば寄生していた億単位の細菌たちも死ぬ。人間を殺してしまったら自分たちも死ぬのになんで細菌は人間を殺すんだろうか。


普段はSPOONというアプリで声のおしゃべりで発信をしているのですが、短歌は文字も大事なのでこの内容はしゃべりでは表現しづらいなと思いまして、記憶にないくらい前に取得して眠らせていたnoteのアカウントを引っ張り出しました。やっぱり文章でリズムをつくるのは難しいですなあ…。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?