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「レースから降りたい」と思ったら

ネガティブモードの日、何もかも嫌になって、頭に浮かぶ言葉がある。

「レースから降りたい」

レース。一体何の?

例えば、成果を出し続けなければいけないこと。
そのために、成長し続けなければいけないこと。
年相応に稼ぎ、良しとされる社会生活を送ること。

足りない何かを補うため、手に入れるために追いかける、レース。
参加したくないレースを走らされている、という感覚。

そういえば、最近はそう思うことが減った。
定期的にネガティブモードになるので手帳に記録していたのだが、月1回くらいはあったのが、ここ2ヶ月ほどは無い。

今までと、状況は何も変わらない。
変わりつつあるのは、私の「ものの捉え方」なのだと思う。

以前は足りないものや無いものを見て、自己否定をしていた。
できる人と比べて、なりたい自分と比べて、そうはなれない自分が嫌で。
逃げたい、やめたい、楽になりたい。
叶わないなら、もう目指したくない。

根底には、私のこんな価値観があったと思う。
成果を出し続けなければいけない(成果を出せてない自分は社会人失格だ)
成長し続けなければいけない(また同じ失敗をしている自分は価値がない)
努力し続けなければいけない(怠けてはいけない、だってなりたい自分になれてないのだから)

これらは別に悪いものではない。今も持っている価値観だ。
けれど「こうあるべき」が強すぎると、そこに到らない自分を否定してしまうことになる。

今は、もう少し等身大の自分を受け入れることができている。
「できない自分を受け入れる」ことが長らくできなかったのだけど、そして今も十分ではないかもしれないけど、でも「今の自分は、ここなんだな」と自分に対して優しく思う事ができるようになった。

この変化は、「習慣化の学校」で思考習慣を学んだことが大きい。
多様な自分がいていいんだ、と許せたし、他者も多様で面白いな、と思えた。それでいい、と。
また、仲間たちに私の強みを教えてもらって、少しずつ自分を認められるようになった。
これは、所属するコミュニティをいくつか持つことの効果のひとつだ。
学校や会社、家庭では何か嫌なことがあったり、うまくいかないことがあっても、習い事や趣味の活動、学習グループなど別のコミュニティでは自分らしくいられれば、簡単に折れることはない(自分を支える柱の本数が多いイメージ)

そもそも、私はレースに参加していたのだろうか。
自分を受け入れられるようになると、不思議と「もっと~しなければならない」という感覚がなくなってきた。
これは向上心が無いとか、妥協したとか諦めたというのとはまた違う。

今の自分を受け入れた上で、そこから常に出発する、そんな感じだ。
以前は目指すものからの減点方式で辛かったが、今は、加点方式?というのも何か違う。常に「今は0」の基準を高めていくイメージが近いかもしれない。
それは、良いところも悪いところも含めて自分を認めた上で、否定のエネルギーではなく、自分をもっと高めていくことができると自分を信じることができている状態。

もうひとつ思うのは、以前は自分の根源的な欲求に基づいていないことを無理にやろうとしていたから「走らされている」感を持っていたのだとも思う。
他人軸、世間一般で言われている「価値」に沿うことを求めていた。
一方で自分がやりたいこと、思わずやってしまうことに対しては、自然に努力もできるし、苦にならない。
それは辛いことが無い、という意味ではない。しんどいことも意味付けができるから頑張れる、に近い。


私はレースから降りたのかもしれない。
さて、どこに歩いて行こうか。


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