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無意味なアウトプットは決して無駄ではない

毎日まいにちnoteを書き続けているわたし。気づけばその日数は気づけば2100日を超えている辺り、よくもまぁこんなに続けられているなぁと自分で思う。最近は、なんとなく「これが書きたい!」と思い浮かぶものがなくって、とりあえずその時々に思いついたものをアウトプットし続ける日々。

そんなとき、こんな記事を読んだ。

アウトプットを継続させるには、無意味だと思えるようなインプットだって必要。そして、自分の思考のためになる「無意味なアウトプット」だって必要だという記事。

これを読んで、なんだかホッとした自分がいた。わたしは毎日まいにち、懲りずに「無意味なアウトプット」を続けている。特に何か有益なことを述べているわけでもなく、かといえばめちゃくちゃ面白いことを述べているわけでもなく。とにかく自己満で無意味なアウトプットだよなぁと、日々noteを書きながら思っている。でも、ま、これはわたしのnoteのアカウントなのだから、有益でなくても面白くなくても問題ないよな、と自分に言い聞かせながら。

でも、こうして無意味なアウトプットを続けることで、鍛えられている感じはものすごくある。わたしはこうして毎日noteを更新することを筋トレだと思っている。文章を書く筋肉を鍛える作業。自分の日々の思考を自分で見つめる筋力を鍛える作業。日々自分の頭で考え、それを自分の言葉でアウトプットする。その内容がたとえ無意味だったとしても、それを毎日繰り返していることで何かしらの実力になっているのだと自分でも感じている。同じことを5年以上も毎日続けてきたことで、文章を書いて、それを公開することに対するハードルがかなり低くなった。そして、自分の思考の癖も自分で気づくことができるようになった。楽しいことがあった日はそれを忘れたくなくて書くし、悲しいことがあった日は心を落ち着けたくてまた書くし、はらわたが煮えくり返りそうになったときも書いて昇華させるし、思考を深めたければとりあえず書いてみるし。とにかく書いて書いて書いてきた5年間。日々書いてきたからこそ、今のわたしがあるのだと思う。わたしの生活にはなくてはならないものなのだと思う。

「無意味なアウトプット」も大事。無意味でも、全然無駄じゃない。アウトプットという行為自体に、価値があるのだと思う。

そんなことを考えながら、わたしは今日もアウトプットを続ける。


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