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たくさんの言葉を知っているということ

学生の頃、国語便覧を眺めるのが好きだった。

特に、ことわざ、慣用句、四字熟語のページを、退屈な中学の授業中にずっと眺めていた。

日本語にはたくさんの美しい表現があって、多様な表現があって、わたしが知っている言葉たちは、その中のほんの一握りなんだということを、国語便覧を眺めながらよく思っていた。

まだ自分のものにできていない言葉たちを眺めては、いつか大人になったらこんな言葉を操れる人になるんだろうか、こういう言葉を普通に使える日は来るんだろうかと、人生で一度も口に出したことのない四字熟語や慣用句を眺めながら思った。

高校に進学して、そんな難しい言葉をさも当たり前のように使っている人たちに出会った。同級生たちだ。

大阪の東の方にあるガラの悪い公立中学から、大阪市内にある偏差値70弱の府内有数の高校に進学したわたしは、周りの人たちのレベルの高さに胸が高鳴った。

今まで国語便覧でしか見ていなかった言葉を口に出しても、通じる人たちがそこにいた。地元じゃ絶対「それなんて意味?」って聞き返されるような難しい言葉を普通に操る人たちがそこにはいた。

言葉のレベル感が合った人たちばかりに囲まれていた高校の3年間は、本当に本当に楽しかった。

そんな当時から、ずっと思っていることがある。

たくさんの言葉を知っている方が、自分の気持ちを理解できる。

高校の同級生のみんなは、考え方がすごく大人だなと感じる人が多かった。それはひとえに、たくさんの言葉を知っていたから。言葉を知っているから、自分がどんなことを考えているのか、自分が今感じている感情はどのようなものなのか、ちゃんと説明ができた。説明が出来るから、解決策が導き出せた。

たくさんの言葉の引き出しがあれば、自分が今なぜもやもやしているのかが分かる。何に対してどんな感情を抱いているのか、ちゃんと言葉にできる。言葉にできるということは、客観的に自分を冷静に見つめられるということに繋がると思っている。

もちろん、言葉を知りすぎているがゆえに、考え込んでしまうこともある。

でも、言葉を知っているからこそ、伝えられる感情がたくさんある。

今がどれだけ楽しいのか、あなたのことがどのくらい好きなのか、どうしてこれがここまで大切だと思うのか。自分が伝えたい気持ちを、ちゃんと伝えられるようにするためには、たくさんの言葉を知っておいた方が良いと、わたしは思う。

だからわたしは大人になった今でも本を読む。新しい言葉に触れ、その言葉を使って文章を書く。

言葉の引き出しを増やす作業は、地道だけど面白い。

そう思えるのは、日本語という世界でも難易度の高い言語を扱っている我々特有の面白さなのかもしれない。


そんなわけで、今日もおつかれさまでした。


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