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コミュ力は爆発力じゃないよね

先日、数年ぶりに会った方に

「君はコミュ力がずば抜けてる!誰とでも盛り上がれるから(どこに行っても、どこに連れて行っても)大丈夫だね!」

と褒められた。仮にAさんとしよう。

Aさんに言わせればコミュニケーション能力とは「他者の懐に入り込んで、その場やその相手をとにかく盛り上げられる」その能力なんだろう。

私はそのお褒めの言葉からずっとモヤモヤを抱えている。


コミュニケーション能力にはたくさんの意味があると思う。

私は大学時代のほとんどをコミュニケーションに捧げてきたように思う。

  • 背景が異なる多様な外国人や同級生との「コミュニケーション」

  • バイト先での店長や先輩との「コミュニケーション」

  • ボランティアの企画で協働するメンバーとの「コミュニケーション」

  • リーダーとして企画運営する上での「コミュニケーション」

  • 『女の子』と会話をしにきた人との「コミュニケーション」

  • 就活生としての「コミュニケーション」

  • 調査者としてフィールドワークで行う「コミュニケーション」

多様な「コミュニケーション」を経て、今私が思うコミュニケーション能力とは「想像力」である。
かつての私はその場が楽しくなればいい、笑いさえ起こればいい、その場さえ良ければいいと勢いと自己紹介、自分語りだけでコミュニケーションを達成したような気になっていた。
その時の私が冒頭のような褒められ方をしたら、ただただ喜んでいただろう。

大学生を六年間過ごしてみて、本当にコミュ力がある人とは他者の状況や背景に気を配って会話を進められる人や、その人が話したい言葉を引き出し、良い場を作ったと思わせられたり、話せてよかった、うまく話せたと思わせられる人なのだと思うようになった。

不登校支援に携わるBさんは私にはコミュニケーション能力の塊のように思えた。
支援をしたい子どもとゲームを通じて、その子が「自分の世界」の外と交流し対話をしてもいいと思えるところまで連れ出し、そのまま自分たちのコミュニティに接続し続けてもらえる関係性を築いていること。
取材しにきた取材者に、情報を提供するだけでなく、むしろ気持ちよく話させて勉強になったと、取材者が利益を与えた構図に差し替えて取材を終わらせていたこと。
そういったどんな人であっても心理的安全性をつくり、気持ちよく会話をできるようにする人こそコミュニケーション能力が高い人だと思う。

私が思うコミュニケーション能力はとても静かなものだ。
静かに、丁寧に、相手がどんなものを抱え、どんな道を歩み、どんな思いで今に向かって歩いてきているのかに思いを馳せられること、その結果相手を尊重し良い場を作れることがコミュニケーション能力だと思う。


「限界女子大生」を終えて、この4月から社会人となる。
きっとコミュニケーション能力も存分に求められるだろう。
仕事の全体像、先輩や上司の意図や発言背景、取引先の抱える問題やここまでの経緯、そういったものへ「想像力」を持って働きたい。

一方で、私はここでどう振るまえば相手が喜んでくれるか、に焦点を絞りすぎて自分の尊厳や将来の後輩の尊厳を削ることが多い。そんなことのないように、気をつけて生きて行きたいとも思う。

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