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ここのところ毎年憂うつだった年末年始が穏やかに過ごせた理由

Hello 2023!
新しい一年が始まりましたね。ここのnoteで出会って下さった皆さまの健康と、ご多幸をお祈りいたします。
今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

さて、表題の件。
心穏やかに平和に過ごせて、本当に嬉しかったからここに書き記す。

私がここのところ年末年始が憂うつだったのは、以下の理由による。
①生活リズムが憂うつ
②親戚zoomが憂うつ

詳しく述べる。

①生活リズムが憂うつ

私の家族は休日となると、睡眠時間が伸びる。
平日フルで働いている夫は休日の朝こそゆっくりしたいだろう、と思うから特に何とも思わない(もっと子どもたちが小さくて、私も慢性的に睡眠不足だった時期はカリカリしていたけど)。
モヤモヤしてしまうのは、子どもたちに対してだ。

11歳の長男は8時頃には起きているようだが、そのまま布団の中で本を読みふけって起きてこない。5歳の次男は、力強く寝続けるタイプだ。多分起こされない限り、9時半を過ぎても寝られるだろう。

かの水木しげる先生は、何よりも睡眠を大事にされていた。
水木家では、寝ている子どもを起こすことも禁じられていたという。
ではなぜ、私はそう思えないのかしら。
こんなときは、自分の思いを全て書き出すにかぎる。

・子どもなのに朝いつまでも寝ているなんて。良い生活リズムがつかないんじゃないか。
・朝は家族団らんのためにも、そろって食べた方がいいんじゃないか。
・食べる時間がバラバラだと、用意も片付けも大変。
・朝9時過ぎに食べ終わっても、12時にはまた『お昼何?』って聞かれる。
こっちは洗濯物を干し、食材の買出しにも行かなくてはならないのに。

下に行くにつれ、憤懣やるかたない感じが増しましになってる(笑)
今度は「本当に?」を付けてみる。

・子どもなのに朝いつまでも寝ているなんて。良い生活リズムがつかないんじゃないか。
→本当のところ、私が恐れているのは尿意の我慢し過ぎによるおもらしだけな気もする。でも実際、やらかされたことは一回も無い(どんな膀胱…?)
→夫のおかげで、子どもたちは夜は9時には布団の部屋に入り、9時半消灯。小学生の長男も、習い事などある日はそれに合わせて起きて出かけていくし、別にそれでいいんじゃないか

・朝は家族団らんのためにも、そろって食べた方がいいんじゃないか。
→そろったところで各々朝はボンヤリとしていて、基本黙々と食べている。食べ終わりくらいから会話が膨らむ傾向があることから考察するに、家族団らんは腹も満たされて、ご機嫌な状態から発生するのでは(ただ無理に集合させても、団らんになるわけでは無い)。

・食べる時間がバラバラだと、用意も片付けも大変。
ご自分でやってもらえばよろしい(5歳の次男は別として、長男はもうトーストにチーズ、ハムをのっけて焼くことができる)併せて自分を責めないこと

そう、私は家族に対して『やって疲れる』『やらなくて自分を責める』のセットだったから、どこにも落としどころがなく(出た、閉塞感)、いつもどことなくしんどかったのだ…!

そんな時参考になったのが、この水谷さるころさんの記事に登場する、ノダDのご実家。

「居心地のよい家は自由度が高い」。
朝ごはんは食べるものが用意してあって、各自が各々食べて片付けるシステム。義両親の生活リズムは決まっているが、その他の人はその人のペースでいてよい。

水谷さるころ「家事と育児と男と女(82)」より

そうね、私頼まれてもいないのに家族のペースに合わせに行って、モヤモヤしていた。食パン、ハム、チーズ、用意しておくだけでも十分立派じゃないか。

・朝9時過ぎに食べ終わっても、12時にはまた『お昼何?』って聞かれる。
こっちは洗濯物を干し、食材の買出しにも行かなくてはならないのに。
家族のペースに合わせるから、午前中が短く、家事だけで終わるのが忙しなくて、嫌だったんだ…!

ということで、この年末年始は自分が起きたい時間に起きて、自分のリズムで生活をしようと心がけた。

(元旦にお腹が空き過ぎて、家族と新年の挨拶を交わす前に雑煮の餅にかぶりついてしまったのは、反省する)

洗濯物を干し終わった頃に、また洗濯かごに着替え終わったパジャマが山盛り入れられていても、『今日洗う分は完了させたよ』と己に言い聞かせるようにした。

人間生活はちゃんとやればやろうとするほど、忙しすぎてくじける。
くじけないためには、自分のキャパとリズムだいじ…!


②親戚zoomが憂うつ

コロナ禍により、私の実家に帰省することが出来なくなっている。
なのでこのところは、私の実家(両親、きょうだい)と年に一度は、とオンラインで顔を合わせる機会を作ってもらっている。

そのオンラインで顔を合わせる時間が。
私にとっては本当に本当に、ストレスで…!

なぜならば。
息子たちがやたらと興奮して、ギャーギャー騒ぐせいで、私は会話ができず、かといってその場を退出することも出来ないのだ。
皆の優しさから、『せっかく顔を合わして話せているんだから、もう少し』と言ってもらえるから。
でもね。きょうだいのところの甥や姪は大人しく、キチンと座って受け答えをしているのに、うちの息子たちときたら…!

別にこれは、親として恥ずかしいから辛いって話じゃない。
私が一番望んでいないかたちでの参加になってしまっているから、辛いのだ。

息子たちは先生方の話を聞く限り、小学校や保育園ではきちんと先生の言う事を聞けるし、社会性を発動させているらしい。
だのになぜ。
家に帰るなり、その社会性をかなぐり捨てるように(私の主観だけど)野生に還ってしまうのか。本当コレ、ずっと悩んでいて、方々に相談してきたことでもある。

息子たちは、野生に還った姿を外では見せない。
だから、彼らの社会性ある姿を見て判断して、出されるコメントは「家ではリラックスできているんやね、甘えられてていいんじゃないの」みたいな感じになるのだ。

だけど、親としてこれは聞いてもらわないと、という言葉すら耳に届かないくらい野生なのは、アウトだと思う。

親戚づきあいは大事にしておきたい(私も、息子たちも)。
だけど息子たちは興奮して騒ぎまくり、会話もできない。

そして夫が言った。
「多分、あやちゃんのご両親はそこまで会いたがってないと思うよ」
その通りだ。きっと彼らは正月に家族たちを繋いで顔を合わせられたら満足で(うちの息子たちがギャーギャー騒ぐだけでもそれで良し)、この状況を色々工夫してまで、私と会ったり喋ったりしたがっては、いない。

私には、この状況が辛い。
孤独すら感じる。

大げさ?

いいえ、私は我慢したくもないし、あきらめさせられるのも嫌。

じゃあどうする?
これをずっと考え続けていた。

父方の祖母が。
晩年(といっても祖母は大変長寿だったので、晩年といっても100歳超えたあたり)、老人っぽく気難しくなって、小さな息子たちの顔を見せに行きたい、と電話をかけても『アンタ誰や』みたいな対応をされるようになったのが辛かった。

だけど、私は可能な限り、彼女にひ孫を見せに行った。
顔を合わせれば、彼女は孫にも、ひ孫にも優しいおばあちゃんだった。

自己満足だったかもしれない。
だけど彼女が亡くなって、『私は孫としての自分を誇りに思う』と思った。

私は自分の実家(両親、きょうだい)に対しても、誇りに思えるというか、自分のことを好きでいられる自分でいたい。

だから、挨拶はしよう、と決めた。

親戚づきあいを大事にしたい、という気持ちの表明を。
会話はしない。出来ると思わない。
あらかじめ挨拶を決めておいて、私たちはそれを述べさせてもらう。
そして、サッと退出する。

これを決められたとき、私は心が晴れる想いがした。

(実際は、私が家族の前で「来年お正月にママの親戚とzoomするときは、各々挨拶を言うようにします!」というわずかな時間も息子たちは騒いだ。騒いだが、夫がすごい迫力で「今は聞け!」と一蹴してくれた。
夫も、わずかな時間すらママの話を聞けない息子たちの野生ぶりに、『さすがにこれはアカン』と思ったらしい)

そして実際、ほぼこの通りにできた。
私は親戚づきあいとして大事にしたい、という気持ちの表明を、することができたのだと思う。


というわけで、今回の年末年始は本当に心穏やかに過ごせた。
だけどついうっかり(※)ギックリ背中になり、今はさらに中耳炎になってしまって(ちょこっとひいた鼻風邪の菌が、耳に入ったんだって)右耳がエアコンの室外機と隣接しているみたいになってしまっているから、まだ新年のスタートを切れてる感じはしない。

2023年のnote書初めでした。

※ついうっかりギックリ背中

ひどい鼻風邪をひき、外出も控えてる次男に
くるりん
もういっかーい!ーよしよし
くるりん
これな。

ありがとうございます!自分も楽しく、見る人も楽しませる、よい絵を描く糧にさせていただきます!