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内田百閒「ノラや」を読んで/本の話

 内田百閒の「ノラや」を読んだ。ちなみに百閒の読みは「ヒャッケン」らしい。私は心の中でずっと「ヒャクブン」って読んでいた。この記事を書く前に著者のウィキペディアを読んでヒャッケンだと知ったけど、まだヒャクブン読みしていた期間の方が長いのでヒャッケン読みに慣れない。しかもキーボードで打つ分にはヒャクブンだろうがヒャッケンだろうが、正しく百閒と変換されるので支障がない。支障がないからいつまで経っても頭が整理されない。そんな小さな混乱はあるが、鉄は熱いうちに打てなので感想を書く。

 「ノラや」の著者内田百閒は1889年5月19日生まれの小説家・随筆家。

 私は1989年生まれなので、ちょうど私の100年前に内田百聞は生まれたということだ。ちょっとびっくりした。だって100年前って結構昔のように思うけれど、「ノラや」の内容は全然昔じゃないから。

「ノラや」の初版は1980年3月10日で、内田百聞が可愛がっていた猫のノラがある日帰ってこなくなり、以後悲しみの涙に暮れる日々が赤裸々に綴られた随筆です。
 話の大筋は猫がいなくなったというだけのシンプルなものですが、同情を誘いつつもどこか漂う哀愁と滑稽さが面白くて、ページを捲る手が止まることはありませんでした。これが言葉の妙というやつでしょうか。ここが面白いっていうのを一言で説明できないけど、読むのが楽しいと感じる本。 
 平易な文章で特別でもないストーリーが時系列で綴られていく。感情が揺さぶられるような事件も起きないし、驚くような展開もなし、巧妙な伏線回収もない。なのに面白い。だから不思議。読ませる文章ってこういうののことを言うのだろうと思いました。
 そして、可愛がっていた動物を失った人間の悲哀はいつの時代も不変なんだということも思いました。昔自分も飼っていた犬を亡くして、しばらくの間は油断するとすぐに泣いてしまう様な日々だった記憶が蘇ってきて、途中読みながら胸が苦しくなったりもして、内田百聞の気持ちが痛いほど分かる。どうしようもない大きな悲しみが不意に襲ってくる生活の辛さと言ったらない。
 しかも、私の場合は死んだとはっきりしているけれど、ノラは帰ってくる可能性もあるわけで、それを待つ日々の辛さは想像に難くない。いつか帰ってくるかもしれない、きっと帰ってくるに違いない、いやどうか帰ってきてほしいと願いながらも、淡々と季節が過ぎていく生活はかなり堪えるだろう。
 読み進めるうちに、どうかノラよ帰ってきておくれ、と願わずにはいられなかった。

 読むきっかけは、noteでエッセイを有料化するにあたって、勉強に何か読みたいとググって、おすすめされてたからなんですが、普通に面白く読んじゃて、分析も何もできてないんですけど、ていうかそもそも文学部卒でもなんでもない私が分析できるか疑問ですが、でも上手い文章ってやっぱいいなぁって思ったので読めてよかったです。

 
 内田百閒は、ノラがいる間は、ノラのために毎日魚屋から鯵の筒きりを仕入れ、上等な牛乳を常備してみたり、寿司をとって握りの玉子焼を与えてみたり、いなくなった後は、ノラを探すために新聞広告を掲載したり、複数回に渡って折込チラシを撒いたりするのだけど、きっとこれは結構な額と思われる。東京帝国大学卒業のスーパーエリートなので、さぞ裕福な暮らしをしていたのだろうと推察していたけど、ウィキペディアによると、どうやら終生お金には苦労して常に借金もしていたらい。意外だった。
 
 興味が湧いたので、後日別記事で、内田百閒の人柄とノラの為に投じた金額を現代の金額に換算してみるつもり。

ヒャッケン読み、ちょっとだけ馴染んできた。

2/12追記
百閒先生がノラに貢いだ金額計算してみました。↓


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