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もの悲しくなるとき


新しさや若さ、美しさだけをもって人やものが称賛されることは、結構あると思う。そういう場面に出くわしたとき、私は、否定こそしないものの、もの悲しく感じる。

ピカピカ輝くマンションも、持て囃される若さゆえの体力も、顔やスタイルの美しさも、時間の経過とともに少しずつ変化してゆく。今の状態のみを切り取って、何かが称えられているとき、それ以外のものは疎外されているのだ。古くなっていること、若くないこと、美しくないこと。本来は自然に、当然に在るはずのそれらが、居心地の悪い立場に追いやられてしまう。


確かに水道管などのインフラ設備などは、経年劣化により破損などのリスクが高まる。
しかし、年月が経つことによってもたらされるのは、悪いことばかりではない。

人やものは、生きる時間を重ねることにより、姿かたちや内面に変化があらわれていく。年月とともに変わっていくことは、全ての生物に共通する事象であって、本来それを「老い」や「劣化」といった負のニュアンスを込めた言葉に収斂させるのは、正しいことではないように思う。

歳を重ねることは、恐れることでもなければ、馬鹿にすることでもない。人間は、知識や経験を蓄積しながら、自身を絶えず更新して生きることができる。また、他の生き物と違って、思ったこと考えたこと感じたことを、言語化しようと足掻くことができる。人の魅力や生き様が、単に外見だけで決まるわけがない。ちなみに、私には、ある人の外見だけをやたらと褒める文化がまかり通っていることに会得がいかない。清潔感があるだとか、おしゃれだとか、自分で後天的に努力して身に付けたものについては伝えることがあってもいいだろうが、顔をストレートに褒めるのって、失礼ではないだろうかとすら思う。


いま限定的に美しいものや新しいものに対して「称賛するべきだ」と思い込むことは、そうでないものを蔑ろにするということでもある。世界の美しい顔ランキングとかいう謎の順位付けと、女芸人を「ブス」と揶揄することを許容する価値観は地続きだ。

現代日本における、家の新築信仰もそうだ。50年、100年先を見据えて作られた建築物は、経年により木の風合いが味わい深くなり、新築にはない風格を漂わせている。京都の町並みも、奈良の寺社仏閣も、数えきれない先人たちが後世に残すために行動してきたからこそ、いまがある。今の建築物などは、果たして何年後までその姿を残せるだろうか。


素晴らしい、と公言されがちな若さや、美や、新しさ。長期的な視点で捉えたり、視界を少し広げたりしたときに、それは自明のことのように、無批判に口にしてもよいものなのかどうか。


何だかもの悲しくなるとき、でした。

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