猫又になってもいいからね。
私の実家には、長いこと二匹の猫が住んでいた。
ほやほやの子猫だった11年前、大阪城公園にいたところを親子ともども保護されて、結果的に我が家にやってくることになった姉妹猫だ。深いセピア色(形容が難しい柄なのだ)をしたシャープな姉猫と、お日様色の丸っこい妹猫。きちんとペットを飼うのは初めてのことだったから、私と妹は、それはもう舞い上がるような心持ちで、猫たちを家に迎える日を待ち望んだ。セピア色の方はキキ、お日様色の方はララ、と名付けられた。かくして二匹は家族として迎え入れられた。
それから「猫が家にいる状況、おもろい」の期間を経て、キキとララはすぐ私たちの生活に馴染んだ。二匹の小屋は妹の部屋に置かれていたから、妹との会合は、必然的に、彼女の部屋で行われることになった。
キキは私に、ララは妹によく懐いた。ララも手懐けたくて色んなアプローチを仕掛けたものの、手に傷が増えるばかりだった。甘えたがりなのに臆病すぎて攻撃を繰り出すララと仲良くなるのは至難の業だった。
キキとララは、全くの対等な関係というわけではなかった。高所に上れる、という猫にとっては重要な強みを持つキキは、そうでないララよりも若干(かなりだったかも)立場が強かった。別にこちらからすれば、上れても上れなくても可愛いことに変わりはなかったのだけれど。喧嘩でも、ララがキキに勝つところを見たことがなかった。一方、強気な態度とは裏腹に、ララを病院に連れて行こうとすると全力で阻止しようとしたり、ララを優しく毛繕いしてやったりもした。キキは気が強かったが、庇護欲も強かった。
冒頭に「二匹の猫が住んでいた」と書いたのは、今年の1月に、ララが亡くなってしまったからだ。前兆がないではなかったが、あまりにも突然の出来事だった。亡くなるときには、妹と母が立ち会ってくれた。会社を定時で退社して、急いで実家に向かった。生前と同じ姿かたちをしたララちゃんが横たわっていた。お日様色をしたふわふわの毛も、耳の何とも言えない柔らかさも、そのままだった。見た目は子供のときとほぼ変わらないのに、身体はちゃんと歳を取ってしまっていたことに、いつまでも納得がいかなかった。
ララがいなくなってから、キキにも変化があった。妹が家にいないと分かると、しきりににゃーにゃー鳴いて落ち着かない。妹の部屋移動の後を毎度ついてまわる。ずっと一緒だったララが突然いなくなってしまったから、妹もそうなるんじゃないかと疑っているのかもしれない。今度こそ見失わないように、視界に入れて安心したいのかもしれない。言葉が通じたらな、とこれまでで一番切実に思った。
いつからか、理由なんてないくらいに、猫という存在そのものが愛おしい。野良猫が出現するスポットをうろうろする不審者になったり、岩合光昭さんの「いい子だねー」に激しく同意したり、猫に出会うシーンを期待しながら生きているところがある。何だか生き疲れるようなときには、あぁ猫になりたい、とさえ思う。猫という存在は、もう、それだけで尊い。
それでも、小さくて、温かくて、気儘で、どうしようもなく可愛い、あの二匹を超える猫に会うことはないだろう。人間スケールの部屋の片隅で、ぴったりと寄り添って眠るキキとララ。ひょんなことからやって来た、公園生まれの姉妹猫。まだ長くない私の人生のうち、短くない年月を共に過ごし、生活を豊かにしてくれた猫たち。こんなことを書いておきながら、いつか猫と暮らすときが来たなら、同じ慈しみをもって接するのかもしれないけれど。
一匹になってしまったキキは、今のところ健やかに、毎日のびのび暮らしている。レタスとかの葉野菜に今さら興味を持ち始め、しゃくしゃく齧る。妹が帰宅すると、家のどこにいても一目散に迎えに向かう。ソファに置かれたクッションの中腹にあたる変な場所に座り込んで、撫でられるのをじっと待っている。気づけば窓際に座り、外を静かに見つめている。
ずっとこのまま生きてくれないかな、とありふれたことを思う。
猫又になってもいいからね。