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《世界史》ジョージ5世と第一次世界大戦

こんにちは。
Ayaです。
今日は第一次世界大戦に直面したジョージ5世についてです。

ジョージ5世(1865〜1936)

ジョージ5世は1865年エドワード7世とアレクサンドラの次男として誕生します。次男だったので、海軍に仕官し、叔父アルフレートの後見を受けます。叔父の娘マリーと恋仲になり、ヴィクトリア女王から結婚の許可を得ます。しかし、2人の母親ーアレクサンドラとマリヤは犬猿の仲だったので、反対され断念します。マリーは結局ルーマニア王家に嫁ぎます。

ジョージ5世(右)とニコライ2世(左)
母同士が姉妹で従兄弟にあたり、そっくりで入れ替わっても気づかれないことが多々あったという。


失恋したジョージ5世でしたが、兄アルバートの死によって立場が変わります。兄アルバートの王太子の地位と、婚約者メアリー・オブ・テックとの結婚を引き継ぐことになります。こんな馴れ初めでしたが、メアリーとは互いに尊重しあい、五男一女をもうけます。

ジョージ5世の兄 アルバート
後継者として養育されたが、切り裂きジャックの容疑者に挙げられるなど素行が悪かった。メアリーと婚約後、急死する。

メアリーの実家は貧しく、ヴィクトリア女王の保護のもとでなんとか生活している家でした。そんな家でしたが、メアリーは保守的な考え方を持っていたため、ヴィクトリア女王には気に入られましたが、教育方針で姑アレクサンドラと対立することはしばしばありました。

ジョージ5世妃メアリーと子供たち
メアリーは宝石好きで知られ、貴族から取り上げることもあったらしい。ロシア皇室からも取り上げている。

1910年に父エドワード7世が崩御して、即位します。その戴冠式には日本から東伏見宮依仁親王が参加しています。同年にはインドでインド皇帝として戴冠しています。
彼が直面したのは第一次世界大戦でした。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は父方の従兄、ロシア皇帝ニコライ2世は母方の従弟にあたるため、『いとこたちの戦争』と言われます。当時、祖父アルフレートの実家からサクス=コバーク=ゴーダ家と名乗っていましたが、反独感情に配慮し、居城ウィンザー城からウィンザー朝に改名しました。親戚にもドイツ風の爵位を名乗るものが多かったため、改名させています。
ロシア革命後、ニコライ2世一家はイギリスへの亡命を希望していました。母の命令で叔母を戦艦で取り戻したジョージ5世ですが、社会主義革命がイギリスに広がるのを危惧し、断ってしまいます。自国を守るためには仕方のない判断でしたが、ニコライ2世一家の運命を決定することとなります。
第一次世界大戦は1918年に終結しますが、ヨーロッパ各地の王朝が崩壊を迎えます。ロマノフ家を救えなかったジョージ5世ですが、各地の元王族たちの救出に乗り出します。救われた元王族たちのなかには、当時1歳のエリザベス2世の夫エディンバラ公フィリップもいました。
1921年には当時皇太子だった昭和天皇を歓迎し、立憲君主制のあり方を丁寧に解説しました。この解説に感銘を受けた昭和天皇は、イギリスの立憲君主制を目標としたと言われています。

欧州歴訪中の皇太子裕仁親王(昭和天皇)とジョージ5世


第一次世界大戦を切り抜けたジョージ5世でしたが、悩みがありました。長男エドワードの女性関係です。エドワード以外の息子たちは良家の娘たちと結婚していましたが、肝心のエドワードはいつまでも結婚しませんでした。その上、エドワードは年上の人妻を好む傾向にあり、晩年にはエドワード本人との仲も悪化していました。彼は『自分が死ねば、1年以内にエドワードは破滅するだろう』、『長男には結婚も跡継ぎをもうけることも望まないし、バーディー(ジョージ6世)とリリベッド(エリザベス2世)と王冠の間に何の邪魔も入らないことを祈っている』と語っています。この予感は的中することとなります。
1936年、ジョージ5世は崩御します。享年70歳。のちに主治医が家族の同意を得て、苦しまないようにモルヒネやコカインを大量投与したと告白しています。この告白については崩御の報を大衆紙(主に夕刊)ではなく高級紙(主に朝刊)に報じさせるための工作ではないかと言われていますが、真相は不明です。
この年は3人の国王が立つ異例の一年となります。

短いですが、話の流れ的に今日はここまでです。
次回は有名な王冠をかけた恋です!

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