見出し画像

《世界史》良王アンリ4世

こんにちは。
Ayaです。
1589年アンリ3世が暗殺され、義理の弟アンリ4世が後継者となります。しかし、彼はユーグノーだったため、人々の支持を得られませんでした。仕方なく彼はカトリックに改宗し、即位します(アンリ4世)。信教の自由を認めるナント勅令を発布するなど、荒廃していたフランスを立て直しに奮戦し、『良王』と言われます。今回は彼の女性関係についてまとめます。

アンリ4世(1553〜1610)

アンリ4世は1553年ブルボン家当主とナバラ女王の間に生まれます。母のナバラ女王ジャンヌ・ダルブレは熱心なユーグノーで、アンリもユーグノーとして育てられます。
ユーグノー戦争では叔父コンデ公の戦死後、ユーグノーの旗印とされます。母ジャンヌがカトリーヌ・ド・メディシスと会合し、カトリーヌの娘マルグリットとの婚約を成立させます。母2人とも宗派対立を落ち着かせたいとの思いでした。

母ジャンヌ・ダルブレ
カトリーヌとの会合後、急死する。カトリーヌに毒殺されたのではと噂された。

しかし、マルグリットとの結婚式はサン=バルテルミの虐殺を招きます。
カトリーヌとしては、アンリとマルグリットのこどもをアンリ3世の後継者としたかったのでしょうが、それもできませんでした。夫婦仲は最悪で、お互いに愛人をもち長年別居状態でした。アンリは即位後、マルグリットと離婚します。

アンリ4世
度重なる改宗から『宙返りのアンリ』と揶揄されるが、長年の内戦で荒廃した王国を建て直す。


人々は王はある女性と再婚するつもりではないかと噂します。その女性こそ、ガブリエル・デストレでした。

ガブリエル・デストレ(1571〜1599)

ガブリエル・デストレは1571年生まれで、21歳の時アンリの愛人となります。アンリは他にも愛人がいましたが、最も彼女を寵愛しました。ガブリエルは現実的な女性で、アンリの即位にはカトリックに改宗するほかないと進言したといわれています。
その影響の強さからアンリの再婚相手に擬されたのは当然でしょう。アンリもガブリエルとの再婚をローマ教皇と交渉しますが、その最中ガブリエルは死産の上急死します。あまりに突然の死に毒殺が噂されました。アンリは嘆き悲しみ、王妃として弔らいました。

フォンテーヌブロー派『ガブリエル・デストレとその妹』
右の女性がガブリエル。左の女性は妹で、乳首を摘んでいるのは妊娠を暗示しているという。


最愛のガブリエルを失ったアンリ4世でしたが、再婚相手としてマリー・ド・メディシスを選びます。マリーはメディチ家出身で、カトリーヌ・ド・メディシスの遠縁です。

マリー・ド・メディシス(1575〜1642)

マリーは1575年イタリアのトスカーナで生まれます。1600年27歳でアンリ4世と結婚します。アンリ4世がマリーを選んだのは、大量の持参金目当てといわれています。その上マリーはアンリの好みの美人ではなく、結婚しても女遊びは治りませんでした。マリーはフランス語も話せず、孤独な生活を送りますが、ストレスで贅沢三昧をして、持参金を使い切ってしまいます。
とはいえ、1601年待望の男子ルイを出産し、アンリとの仲も回復して、5子もうけます。アンリも自身の不在時の摂政にマリーを任じます。

『サン=ドニの戴冠』
ルーベンス『マリー・ド・メディシスの生涯』のなかの1作品。のちにダヴィッドが『ナポレオンの戴冠』の参考にしたといわれている。

度々の危機を乗り越えてきたアンリ4世でしたが、1610年熱狂的なカトリック教徒に刺殺されます。かつて王位を争った二人のアンリとともに暗殺者の手にたおれたのです。享年57歳。
まだ8歳だったルイが即位し(ルイ13世)、母マリーが摂政となります。しかし、この母子は壮絶な対立を繰り広げることとなります。

今日はここまでとします。アンリ4世と離婚したマルグリットですが、後妻マリーの子どもたちを可愛がり、財産を継承させています。なぜか元夫アンリとも友人関係を続けていて、マリーを嫉妬させていました。
次回はマリー・ド・メディシスとルイ13世の壮絶な親子喧嘩です!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?