見出し画像

《世界史》ルイ14世と女性たち

こんにちは。
Ayaです。
太陽王ルイ14世ですが、数多くの女性と関わりました。今日はその女性たちとの関係についてまとめます。

''初恋の女性"マリー・マンシーニ(1639〜1715)

ルイ14世が若い頃、苦労していたのは前回のとおりです。その頃の恋人がこのマリーで、彼女は宰相マザランの姪でした。イタリア生まれのマザランの姪たちは『マザリネット』と呼ばれ、フランス女性とは違う美貌で知られており、マザランはフランスの高位貴族と結婚させるつもりで呼び寄せられていました。
しかし身分違いですのでこのまま愛人にするならよかったのですが、若きルイ14世は彼女と結婚するつもりでいました。これは母アンヌやマザランの想定外で、マリーはナポリへ嫁にだされて2人は引き離され、太陽王の初恋は終わります。

初恋の女性マリー・マンシーニ
若い頃の恋人なので、プラトニックな関係と言われている。ナポリの貴族と結婚させられ、死ぬまでルイ14世と再会できなかった。

王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ(1638〜1683)

初恋に敗れたルイ14世ですが、1659年王妃マリー・テレーズを迎えます。彼女はフェリペ4世と最初の妻イザベルの娘で、ルイ14世にとっては父方・母方ともに従妹にあたります。母アンヌのスペインとの関係を維持したい考えからの結婚でした。
マリー・テレーズは結婚してからも流行遅れのスペインの衣装を愛用し、宮廷の人々からは冷笑されていました。また彼女は『私の情熱は王とショコラ』と公言していましたが、大人しくフランス語も上手にならなかったので、すでに多くの愛妾を抱えていたルイ14世にとってつまらない相手でしかありませんでした。たくさんの子どもを出産しましたが、育ったのは長男ルイ(後のグラン・ドンファーン)のみでした。
1683年亡くなります。ルイ14世は彼女の死を知り、『王妃が余に悲しみを与えたのはこれがはじめてだ』との感想を漏らしています。
結婚当時莫大な持参金が支払われるはずでしたが、実家スペインの財政は苦しく支払われませんでした。1700年異母弟カルロス2世が亡くなると、この持参金未払いを理由に孫のフィリップを送り込み、スペイン継承戦争を始めます。

王妃マリー・テレーズ
地味な性格でルイ14世を魅了することはなかった。夫の愛妾たちを嫌うことはあまりなかったが、傲慢なモンテスパン夫人は嫌っていた。

"無欲な女性"ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール(1644〜1710)

結婚後最初の愛人がルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールです。最初弟オルレアン公フィリップの妃アンリエットと不倫関係にありましたが、アンリエットはチャールズ2世の妹であり、国際問題になりかねませんでした。アンリエットは自分の侍女ルイーズをルイ14世の恋人に仕立て上げて自分との関係を誤魔化そうと画策しました。しかし、当のルイ14世がこの偽りの恋人に本気で恋をしてしまい、愛人にしました。この2人の間には6人の子どもが生まれ、2人成人しています。
ルイーズは信仰深い女性で、自分とルイ14世の関係は王妃マリー・テレーズを苦しめているという罪悪感に苦しみ、なんどか修道院に逃げ込んでいます。その度にルイ14世自身が連れ帰る騒ぎを起こしていますが、彼女は金銭や一族の繁栄を求めず、王の愛だけを求めていたので、宮廷人の評判も良かったようです。しかし、新しい女性の影がありました。

ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール
美貌で知られたが、敬虔な性格で王妃からも『すみれのような方』と称賛されていた。

モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス(1641〜1707)

モンテスパン夫人は名門貴族の出身で、王妃マリー・テレーズの侍女として出仕していました。美貌の野心家だった彼女はなんとしてもルイ14世の心を射止めたいと、当時の愛妾ルイーズに近づきます。そして、ルイーズが出産で宮中を離れていた1666年ルイ14世の愛人となります。
豊満な美貌とユーモアな会話でルイ14世を魅了しましたが、他の女性に対する軽蔑や嫉妬心が強い性格でした。元上司で王妃マリー・テレーズも『王妃は無知なお人好し』と発言し、ルイ14世を激怒させますが、寵愛は変わりませんでした。前の愛妾ルイーズにはさらに酷い仕打ちをします。彼女を使用人のようにこき使い、戒律の厳しいカルメル会修道院への入会を決意させます。
1674年にルイーズが宮中をさり修道院に入ると、モンテスパン夫人の栄華は頂点に達します。実は夫がいたのですが、多額の示談金で離婚を成立させ、領地に追いやります。王妃よりも豪華な生活を送り、ファッションや賭博に興じます。ルイ14世との間には7人も子どもをもうけますが、度重なる出産で容姿の衰えが目立ち始めます。そんなとき、新たな女性が登場します。

モンテスパン夫人フランソワーズ
豊満な美女であったが、次第に傲慢な性格があらわになってくる。

フォンタンジュ公爵夫人マリー・アンジェリク(1661〜1681)

フォンタンジュ夫人は元々王弟オルレアン公フィリップの後妻に仕えていた女官で、その若さと美貌でルイ14世の心を射止めます。
この頃自慢の美貌を失っていたモンテスパン夫人は危機感を覚えます。寵愛を取り戻そうと必死なモンテスパン夫人はある人物を頼ります。黒魔術や堕胎、毒殺を請け負っていたラ・ヴォワザンという女性でした。モンテスパン夫人は彼女の主宰する黒魔術の儀式に出席します。
この儀式のおかげか、フォンタンジュ夫人は子どもを妊娠しましたが、死産の上亡くなります。まだ20歳の若さでした。宮中の人々は黒魔術の儀式については知りませんでしたが、モンテスパン夫人の嫉妬は有名だったので、モンテスパン夫人が彼女を毒殺したのではと噂しました。

フォンタンジュ夫人
絶世の美女だったが、頭脳明晰ではなく、『頭からっぽ』と陰口叩かれた。王の狩猟に同行中彼女が落とした帽子の代わりにリボンで髪の乱れを直したところその髪型が流行し、"フォンタンジュ"という名前がつけられた。


ライバルのフォンタンジュ夫人が急死し、安堵するモンテスパン夫人でしたが、事態が急変します。魔術師ラ・ヴォワゾンが逮捕されたのです。ヴォワゾンは拷問の上さまざまな悪事を自白しました。顧客のなかにはモンテスパン夫人だけでなく、他の有名貴族もいて、ルイ14世はあまりの事態の大きさに捜査を中止します。ヴォワゾンだけを火刑に処し、一件落着としました。モンテスパン夫人の日頃の傲慢な態度に嫌気がさしていたルイ14世は完全に彼女に愛想をつかします。王の愛情を失ったモンテスパン夫人は1686年に宮中をさり、修道院に入ります。ルイ14世は気が変わってモンテスパン夫人が帰ってこないように、彼女が使っていた部屋を別の人間に与えました。

"無冠の王妃"マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ(1638〜1719)

さまざまな女性と関係したルイ14世ですが、最後に彼の愛を得たのはマントノン夫人でした。
マントノン夫人は1638年父親が獄中生活を送るなか生まれました。獄中で生まれたという説もありますが、たしかなことは分かりません。1651年には有名な詩人スカロンと結婚し、スカロン夫人としてサロンに出入りします。そのサロンでモンテスパン夫人と出会い、夫の死後彼女に仕えます。
モンテスパン夫人がルイ14世の子どもを出産すると、その養育係に任じられます。子どもが熱を出すと、献身的に看病する彼女の姿はルイ14世の心を打ちました(実母モンテスパン夫人は賭博に興じていて子どもたちを顧みませんでした)。モンテスパン夫人の毒殺事件への関与で完全に彼女への愛をなくしたルイ14世は肉体関係を拒否されたにも関わらず、余暇はスカロン夫人と過ごしました。流石に肉体関係が皆無だったとは信じられませんが、スカロン夫人はマントノン公爵位を与えられます。さらに1683年に王妃マリー・テレーズが逝去すると、ルイ14世と極秘結婚します。勿論身分の違う貴賤婚でしたが、彼女のルイ14世へ影響力が強かったので、他の貴族も軽んじませんでした。いつしか『無冠の王妃』と呼ばれるようになります。

無冠の王妃 マントノン夫人
美貌ではなかったが、最晩年のルイ14世の愛を受け、極秘結婚までした。敬虔なカトリック信者であり、ルイ14世の宗教政策(ナント勅令の廃止)に影響を与えたと言われている。

最愛の伴侶を得たルイ14世でしたが、さすがに老いには勝てず、1715年崩御します。享年76歳でした。
すでに息子のグラン・ドンファーンと孫のプチ・ドンファーンは世をさっており、曾孫のルイ(ルイ15世)が後継者となります。
マントノン夫人は王の崩御前に宮中を退出し、1719年亡くなります。

ルイ14世の愛妾たち、まとめました!やっぱりキャラが濃いのはモンテスパン夫人ですね!モンテスパン夫人は事件後、追い出した先輩のルイーズを訪ねて、どうしたら敬虔な生活を送れるのか聞いたそうです。過去のいざこざがあったにも関わらず、ルイーズは親切に答えたのだそうです。人間できてますね、ルイーズさん。
マントノン夫人は若い頃苦労した経験からか、教育について取り組んでいたそうです。
さて、太陽王ルイ14世は、5歳の曾孫ルイを残して世を去ります。彼もまたルイ15世として、59年ほど君臨することとなります。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?