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《世界史》女帝マリア・テレジア

こんにちは。
Ayaです。
今日は"女帝"と呼ばれたマリア・テレジアについてまとめます。

マリア・テレジア(1717〜1780)

マリア・テレジアは1717年カール6世の長女として生まれます。父カール6世は息子の誕生を望んでいたので、彼女には帝王学を授けませんでした。
結婚問題は生まれてすぐから発生していましたが、候補は2人にしぼられました。プロイセンのフリードリヒ王子とロレーヌ公国のフランツ・シュテファン公子です。フリードリヒ王子はプロテスタントだったので、結局フランツ・シュテファン公子に決定しました。このフリードリヒ王子がのちにマリア・テレジアを苦しませるフリードリヒ2世となります。
幼い頃からの知り合いであるフランツ・シュテファンとは両思いで、2人は1736年結婚します。父カール6世は男孫の誕生にかけていましたが、マリア・テレジアは立て続けに女子を出産し、失意の中カール6世は亡くなります。1740年ハプスブルグ家の家督を相続します。

若い頃のマリア・テレジア


ハプスブルグ家はサリカ法を適用させていたため、特例としてマリア・テレジアの継承権が認められていました。しかし、父カール6世が崩御すると、そんな約束は握りつぶされてしまいます。プロイセンのフリードリヒ2世がシュレージエンに攻め込んだことで、オーストリア継承戦争が勃発します。マリア・テレジアは当時第4子妊娠中で、父から政治的教育を受けていなかったので、軽く見られたのです。マリア・テレジアは必死に防戦します。生まれたばかりの第4子ヨーゼフを抱き、ハンガリーに助けを求めます。決然としたその態度はハンガリーの人々を奮い立たせ、参戦を取り付けます。オーストリア継承戦争は8年にも及びますが、勝利します。神聖ローマ帝国皇帝位は夫のフランツ・シュテファンが継承し、マリア・テレジアは皇后でしたが、実権は彼女が握っており、『女帝』と言われる所以です。
マリア・テレジアは外交関係の見直しにうってでます。スペイン継承戦争で対立していたフランスと同盟を組み、さらにロシアを加入させたのです。ポンパドゥール夫人の回でもふれましたが、これは『外交革命』と言われるものです。マリア・テレジアの娘マリア・アントニア(マリー・アントワネット)の運命を変える出来事でした。
この成果は七年戦争で、フリードリヒ2世を追い詰めたことで発揮されましたが、ロシアの世代交代で不燃で終わってしまいます。とはいえ、フリードリヒ2世を'シュレージエン泥棒'と蛇蝎の如く嫌った彼女の執念は果たされたのです。

プロイセンのフリードリヒ2世
マリア・テレジアの元婚約者候補で、宿命の敵。皮肉なことに息子ヨーゼフ2世は彼に傾倒していた。

マリア・テレジアは多忙の中でも妊娠・出産にもあけくれ、16人の子どもが夫妻の間には誕生しました。成人したのは11人ですが、当時の医療事情を考えると驚異的です。子どもたちについてまとめます。

マリア・テレジア


(1)マリア・アンナ・ヨーゼファ・アントニア
幼少時から体が弱く、結婚は無理と判断。修道院の院長にすえます。
(2)ヨーゼフ2世
待望の男子として誕生。マリア・テレジアの晩年には共同統治者となりますが、フリードリヒ2世を敬愛しており、意見が対立することもしばしばでした。2人の妻を持ちますが、子どもに恵まれず、1790年崩御。弟のレオポルトが継承します。
(3)マリア・クリスティーナ
マリア・テレジア鍾愛の娘で、愛称はミミ。彼女だけ恋愛結婚を許され、格下のザクセン選帝侯子と結婚。その上新居まで与えられました。母の死後は兄から冷遇されました。
(4)マリア・エリザベート
姉妹で一番の美貌で、ルイ15世との結婚も検討されていましたが、天然痘で容姿が崩れ、姉マリア・アンナとともに修道院へ入ります。
(5)マリア・アマーリア
姉クリスティーナと同じく恋愛結婚を求めましたが、パナマ公国に嫁がされます。このことで母を恨み、パナマでは遊び呆けていたため、母から勘当されます。晩年は甥のフランツ2世の庇護下でプラハで過ごします。
(6)レオポルト2世
トスカーナ大公として25年過ごした後、兄の崩御によって即位します。カルロス3世の娘と結婚しており、16人もの子どもに恵まれていました。しかし、わずか2年後崩御、息子のフランツ2世が皇帝位を継承します。
(7)マリア・ヨーゼファ
ナポリ王国王子と婚約していましたが、急死してしまいます。
(8)マリア・カロリーナ
姉の代わりにナポリ王国王子と結婚しました。姉妹のなかではもっとも母に似て聡明で、夫の即位後は政治的に活躍し、こどももたくさん出産しました。
(9)フェルディナンド・カール・アントン
モデナ公国の後継者に指名されていましたが、ナポレオンによるイタリア侵攻で頓挫しました。そのまま亡くなりましたが、ウィーン会議で息子がモデナ公国を継承することになります。
(10)マリア・アントニア
言わずと知れたマリー・アントワネット。彼女のことは次回取り上げるので、割愛します。
(11)マクシミリアン・フランツ
末子。男兄弟では唯一聖職者となり、ケルン大司教となりました。
多くの子どもに恵まれ、夫婦仲の良かったマリア・テレジアですが、夫フランツ・シュテファンはときどき浮気しており、それを見逃していたようです。とはいえ、フランツは現在のシェーンブルン宮殿を建設するなど文化面で功績を残します。

夫フランツ・シュテファン
シェーンブルン宮殿
ルイ14世のヴェルサイユ宮殿を模倣して建設。フランツ・シュテファンは外壁を金色にしたかったが、財政的に困難でマリア・テレジアが黄色にすることを提案したという逸話から、この色は『テレジア・イエロー』と呼ばれている。


1765年に夫フランツ・シュテファンがなくなると、息子のヨーゼフ2世と共同統治します。しかし、政治的意見の対立からうまく行きませんでした。末娘マリー・アントワネットになかなか男子が生まれず、心配しながら1780年崩御しました。享年63歳。

マリア・テレジア、まとめました。多産の女性統治者としてはヴィクトリア女王もあげられますが、2人の生きた時代と君主としての役割の大きさも違うので、マリア・テレジアのエネルギッシュさが伝わってきます。しかし、子どもたちの婚姻政策をみると、母親としての愛情よりも政治家としての利益が見えて来ます。もし、マリア・ヨーゼファが予定通りナポリに嫁いでいたら、一番聡明だったマリア・カロリーナがルイ16世と結婚していた可能性が高いです。そうすると、マリー・アントワネットも悲劇の王妃とならずにすみ、フランス革命も違った展開になっていたかもしれませんね。

しかし、夫フランツ・シュテファンの浮気を知ってても黙っていたなんて、ご先祖フアナとの違い‥。超家つき娘の矜持ということでしょうか、こちらもこちらで怖い‥。
次回は娘のマリー・アントワネットについてまとめます。






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