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《美術史》ピカソと女性たち


こんにちは。
Ayaです。
先日までヒトラーについて5回とりあげてきましたが、同時代の有名人について取り上げようと思います。まずはパブロ・ピカソです!

パブロ・ピカソ(1881〜1973)

パブロ・ピカソは1881年スペインのアンダルシア地方に生まれます。父親は美術教師で、ピカソの才能に幼い時から気がついていて、自らは絵を描くのをやめ、ピカソの指導に専念しました。

若い頃のピカソ
1911年の『モナ・リザ』盗難事件では有力容疑者として取り調べを受けた。


1897年にはアカデミーに入学しますが、アカデミーの古い体制に失望し退学、パリに移ります。
 『青の時代』、『バラ色の時代』と画風を変化させていきますが、確かなデッサン力で名声を確立していきます。

『アビニョンの娘たち』
『バラ色の時代』の大作にして、ピカソを象徴するキュビズムを本格的に取り入れた作品。

そんな彼の代表作といえば、なんと言っても『ゲルニカ』でしょう。

『ゲルニカ』

ピカソの故郷スペインは1936年から内戦に陥っていました。フランシスコ・フランコ将軍が共和国に反乱を起こし、これに怒った国民の多くが共和国側のゲリラに志願しました。想定よりも強い抵抗にあったフランコ将軍は一計を案じます。共和国政府に左派が多かったことから、ナチス・ドイツの助けを求めたのです。ナチス側は最新兵器の実験場として受け合います。悪名高い『コンドル軍団』でゲルニカなど多くの都市を空襲しました。

フランコ将軍
ナチス・ドイツの援助を受けたが、第二次世界大戦では中立にまわるなどしたたかな外交を行った。1975年に死去するまで独裁政権を維持していた。

共和国政府から依頼され、ピカソは『ゲルニカ』に着手します。ピカソ自身は自由主義者で知られていたので、フランコ将軍側への怒りもあったでしょう。多くの女性とのスキャンダル(後述)ですでに引退状態だったピカソですが、わずか2ヶ月で『ゲルニカ』を描き上げます。

『ゲルニカ』作成中のピカソ

残酷な空爆を描いたピカソの思いは虚しく、内乱はフランコ側の勝利で終わります。
せめてもの抵抗としてピカソは遺言で「スペインに真の平和が訪れるまで『ゲルニカ』の返還は許さない」としました。そのため、スペインに返還されたのは1981年でした。
いまでも『ゲルニカ』は反戦のイメージとして利用されています。国連安保理会場のロビーでは『ゲルニカ』のタペストリーが飾られています。

『ゲルニカ』タペストリー前にたつウクライナ大使


ピカソと女性たち

次々と画風を変えていったピカソですが、私生活では数多くの女性たちと浮名を流しました。この項では彼と交際した有名な女性たちについてまとめます。
ピカソは1918年ロシア貴族出身のバレリーナ・オリガと結婚します。オリガから「自分を描くときは自分とわかるように描いてほしい」と言われたピカソはすでに確立していたキュビズムを封印し、新古典主義の画風に変わります。

最初の妻 オルガ

2人の間には息子が生まれますが、オルガは気位の高い女性で、ピカソとの関係も悪化します。
そんなとき、17歳のマリー・テレーズと出会います。彼女との関係は街中で、ピカソの「君の肖像画を書かせてください。私はピカソです」というピカソらしいナンパからでした。彼女の容姿や肉体を完璧な美と称えたピカソはマリー・テレーズと同棲しはじめます。オルガと離婚することも検討しましたが、莫大な慰謝料を取られる可能性があるということになり、オリガの死まで別居を継続します。マリー・テレーズはなんどもモデルを務めていますが、新しい女性が現れます。

『夢』
第一の愛人マリー・テレーズがモデル。

2人目の愛人はドラ・マールです。彼女はマン・レイの影響を受けて写真家として活動していました。ピカソはその才気に惚れて愛人とします。ピカソの勧めで絵も描きましたが、『ゲルニカ』制作中の写真撮影も手がけています。しかし、第一の愛人マリー・テレーズとも関係を継続していたため、ピカソのアトリエで鉢合わせするとつかみ合いのケンカをしていたというエピソードがあります。(ピカソ自身が2人をけしかけたというクズのエピソードも)さらに新しい女性が登場したこともあり、ドラは耐えきれなくなりピカソのもとを去ります。

『泣く女』
第二の愛人ドラがモデル。実際彼女はよく泣いたとピカソが記している。

第三の愛人はフランソワーズです。彼女はもともと画学生で、ドラと一緒にいたピカソに声をかけたのがきっかけ。今までの気が強い女性たちとは違い、彼女のおしとやかな性格をピカソは愛したと言われています。ピカソと同棲しこどもまでもうけましたが、日頃の女性関係の激しさやピカソ自身の傲慢な性格に嫌気がさし、彼女の方から別れました。別れたときの彼女のセリフ、『あなたのような歴史的記念碑とは、これ以上生活したくない』は名言(迷言)でしょう。

『花』
第三の愛人フランソワーズがモデル。100歳を超えているが存命で、画家として活動している。

当時72歳のピカソにとってはじめての失恋だったらしく、ショックで南仏の古城で引き篭もります。
こんなピカソを支えたのが、第四の愛人にして2番目の妻ジャクリーヌです。
ピカソと出会ったとき、彼女は26歳でしたが、すでに離婚経験があり、子持ちでした。1965年に最初の妻オルガが亡くなると、ピカソは彼女と再婚します。
彼女はピカソのアトリエや作品を管理しており、マスコミから『門番』としてピカソを守りました。ピカソは彼女に子どもように甘え切っていたそうです。彼女に看取られながら、1973年ピカソは亡くなります。享年91歳。

『腕を組むジャクリーヌ』


ピカソを看取ったジャクリーヌですが、愛人たちと遺児たちとの遺産相続争いに巻き込まれます。なんとか解決したものの、ピカソのいない寂しさに耐えきれず、自殺してしまいます。ちなみに第一の愛人マリー・テレーズも自殺、第二の愛人ドラは精神病院で亡くなると行った具合に、ピカソに関わった女性たちは不幸な最期を遂げています。

『ピカソと女性たち』、まとめ終わりました〜。シーレのことをゲスと紹介しましたが、ピカソまでなると呆れて何も言えないです笑ピカソと関わった女性たちはみんな不幸ですね。それだけピカソの存在感が大きかったということでしょうか‥。
次回は『ココ・シャネル』についてです!

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