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《美術史》印象派と女性たち

こんにちは。
Ayaです。
今回は印象派に関わった女性たちについてまとめてみたいと思います。先日まとめたラファエル前派に比べればドロドロ感は少ないですが、こちらも悲しいお話ばかりです。
まずは、画家として活躍した女性から。

ベルト・モリゾ(1841~1895)

女性の印象派画家と言えば、メアリー・カサットと今回取り上げるベルト・モリゾがあげられます。
モリゾは1841年官吏の娘として生まれました。モリゾ家は先祖をたどるとフラゴナール(ロココ美術の代表的画家)に行き着く家系で、両親はモリゾとその姉に教養として絵画を学ばせます。上流階級の令嬢としての習い事でしたが、モリゾ姉妹は夢中になります。父は当時としては革新的な考え方のひとで、二人をコロー(バルビゾン派の有名画家)に師事させます。そのうち、姉は結婚・出産で絵画を諦めますが、モリゾはそのまま活動を継続します。
そんなとき、マネと運命の出会いを果たします。


マネ『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』
モリゾとマネの関係は師弟関係を超えて、恋愛関係と噂されるほど親密だった。

マネの才能にほれ込んだモリゾでしたが、マネからの評価は芳しくありませんでした。彼はモリゾより自身の弟子エヴァ・ゴンザレスを評価していたからです。

マネ『草上の昼食』
男性は正装しているが女性は全裸のため、当時論争の的となった作品。『印象派の父』と言われるマネだが自身は一度も印象派展には参加せず、アカデミーでの評価を望んでいた。

エヴァ・ゴンザレス(1849~1883)

エヴァは1849年スペイン系のモナコのブルジョワとベルギー人音楽家との間に生まれました。彼女は当時から芸術家社会ではエリートとされ、マネにとって唯一の女性弟子となりました。マネの技法を忠実に学び、モリゾのようにアレンジしないで作品に取り込んでいた点を評価していたのでしょう。また活発な性格も、内向的なモリゾと相性が良くなかったのです。(姉に愚痴の手紙を送っています)

エヴァ・ゴンザレス『眠り』
エヴァのモデルは妹が務めることが多かった。師マネとともに印象派展には不参加。結婚するが、出産時に34歳で死去。マネの死から6日後のことであった。

モリゾにとって悩みはまだありました。当時は未婚の女性に対する風当たりが強く、とても独身で画家を続けていける状況ではなかったのです。彼女は結局マネの弟ウジェーヌと結婚、1874年には娘ジュリーを出産します。夫は彼女の芸術活動を支え、モリゾは家庭を描いた作品で評価されるようになります。しかし生前は上流階級の夫人の趣味としての評価しか受けられませんでした。1895年死去、享年54歳。

ベルト・モリゾ『ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘』
ジュリーは母だけでなく、他の印象派画家のモデルも務めた。母の死後、ジュリーはルノワールやドガの後見をうけることとなる。(父はすでに死去)1900年ドガの弟子と結婚、1966年死去。

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841~1919)と女性たち

印象派の画家たちはブルジョワ出身が多いですが、ルノワールは労働者階級の出身でした。
ルノワールは1841年貧しい仕立て屋の家に生まれます。13歳で絵付け職人の見習いになりますが、奉公先が倒産し、画家を目指すようになります。この時20歳でした。
長い下積み生活の後、肖像画家として活躍しますが、独自の柔らかな表現を確立していきます。晩年にはリュウマチを患い絵筆を握れなくなりますが、手に布を巻き付けて制作を続けたといわれています。1919年死去、享年78歳。
彼の人生において重要な役割を果たした女性は2人います。後に妻となるアリーヌ・シャリゴと画家となるシュザンヌ・ヴァラドンです。二人をモデルとする『田舎のダンス』と『都会のダンス』があります。
『田舎のダンス』はアリーヌをモデルとしています。庶民的な田舎娘を演じています。二人は当時交際中でのちに結婚します。二人の間には映画監督ジャン・ルノワールをはじめ多くの子女が生まれました。家庭生活もよく作品に描かれました。

ルノワール『田舎のダンス』

一方、『都会のダンス』のモデルはシュザンヌ・ヴァラドンです。都会的で洗練された女性を演じています。彼女は恋多き女性で、『都会のダンス』制作の1年後未婚のまま出産します。この子はのちに画家ユトリロとなりますが、その父親候補にルノワールも挙げられています。
その後シュザンヌ自身も絵画制作に取り組み、画家となります。しかし、息子の友人と関係を持つなど生涯奔放な生活をおくりました。

ルノワール『都会のダンス』

クロード・モネ(1840~1926)と二人の妻

クロード・モネはブルジョワの家庭に生まれますが、画家として活動し始めると親から援助を絶たれ、極貧の生活を送るようになります。モデルのカミーユと恋愛関係になり、結婚しようとしますが、出身階級の違いから反対されたからでした。(モデルは娼婦同然の卑しい職業とされていた)
二人はモネの自殺未遂なども乗り越え、1870年結婚します。しかし、極貧生活は続くのでした。長年のストレスからか、カミーユは体調を崩します。

クロード・モネ『散歩、日傘をさす女性』
カミーユと長男がモデルを務めている。カミーユは多くの作品でモデルを務めた。

さらに悪いことは続きます。モネのパトロンだったオシュデ氏が破産し、妻とこどもを連れてモネ宅に居候を始めるのです。妻のアリスはその前からモネと親しくしていて、前年に生まれた子はモネの子ではと言われた女性でした。そんな彼女の看病をうけるようになったカミーユ。この奇妙な家庭はオシュデ氏が逃げ出したことで悪化します。モネとアリスはさらに親しくなっていくなか、1879年カミーユは亡くなります。まだ32歳の若さでした。
モネはそんなカミーユの遺体を描きます。彼女への哀悼ではなく、遺体の肌の色に魅せられて描いたのです。彼は後に、

”永久に別れることになる人の最後のイメージを残しておきたいと思うことは、ごく自然なことでしょう。しかしながら、深い愛情を覚えていた顔立ちを描きとめようという考えが浮かぶ前に、まず色彩のショックに対して体が自ずとざわめき始めました。そして私の意思に反して、自分でも無意識のうちに描いていた。描かずにはいられなかった。”

友人クレマンソーへの手紙

と書いています。彼はこの作品を生涯手元に置き続けました。そして、この後の作品からは人物の顔を描かなくなったのです。

クロード・モネ『死の床のカミーユ』

その後アリスと再婚し、モネは成功します。豊かな生活を送ったアリスはカミーユに嫉妬し続けたといわれています。カミーユはモネにとって生涯忘れえぬひととなったのです。
モネは1926年ジヴェルニーで死去しました。享年86歳。

印象派と女性たち、まとめ終わりました。ラファエル前派よりドロドロではないですが、モネとカミーユのエピソードは『地獄変』のような狂気を感じます。
余談ですが、マネと間違われて名前を売ったモネですが、マネに金銭的援助をたびたび受けていました。『印象派の父』なんて言われてるけど、自分は印象派じゃなかったマネ、いいやつやんってことで今回は閉めたいと思います(笑)。

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