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《世界史》代理戦争

こんにちは。
Ayaです。
アメリカ史第5回は代理戦争です。
1945年太平洋戦争終結から1989年マルタ会議まで、米ソは互いに牽制し合い直接戦争することを避ける『冷戦』と言われる時代でした。それは両国が大量の核兵器を保有しており、もし戦争を始めたら核戦争となると予測していたからできた自重でした。しかし、両国は世界各地に自分たちの思想に基づく国家をつくることで、自分たちの権勢を誇るようになります。そのうち自分の思想に近い政権を援助するようになり、他国で代理戦争を繰り替えるようになります。本稿では有名な朝鮮戦争とベトナム戦争を取り上げます。

朝鮮戦争(1950〜1953)

1945年の日本の敗北で、その支配を受けていたアジア各地の国々は独立を取り戻しました。1910年の朝鮮併合から日本の支配下にあった朝鮮半島も独立を果たすはずでした。しかし、米ソの対立が深まり、北緯38度線で分断され占領されることとなりました。
1948年アメリカの後ろ盾で李承晩が大韓民国成立を宣言すると、対抗策としてソ連の支援を受けた金日成が朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言します。
金日成はスターリンにすぐ侵攻の許可を求めましたが、アメリカとの直接対決を望まなかったスターリンはなかなか許可を出しませんでした。金日成は中華人民共和国の毛沢東の援助も取り付け、やっとスターリンの許可を得ます。
1950年6月25日、準備を万端に整えた金日成は大韓民国領に急襲します。状況を楽観していた大韓民国政府とアメリカ側は衝撃を受けました。大韓民国側は初戦で敗北し、済州島まで追い詰められます。アメリカとソ連だけでなく、中華人民共和国の人民解放軍まで参戦することとなりました。アメリカ軍は沖縄が最前線の基地となり、日本の経済は戦時特需で復活することとなりました。しかし、アメリカ側は苦戦し、GHQ最高司令官マッカーサーは焦り、核攻撃を主張したとされ解任されました。なんとか1953年休戦がなされましたが、未だ休戦中であり、まだ紛争は解決していません。

自宅を破壊され、たちつくす女性とこども


ベトナム戦争(1964〜1975)

朝鮮戦争で間接的に戦火を交えた米ソ両国ですが、再び交えることとなります。今度の現場はベトナムでした。
日本軍によって独立を認められたベトナムでしたが、日本が敗戦すると、元宗主国のフランスが奪還に動き出します。ベトナム労働党を率いていたホー・チ・ミンは住民たちを組織してゲリラ部隊を結成し、ジャングルで息を潜めながら抵抗します。フランスから派遣されたフランス側は士気が低く、ディエンビエンフーの戦いで敗北し、撤退を決めます。ホー・チ・ミンは共産主義政権の樹立を宣言しますが、この事態をアジアの共産化につながると判断したアメリカは介入をきめます。
1955年アメリカはゴ・ディン・ジェムを首班としたベトナム共和国(南ベトナム)を傀儡政権として樹立させます。この対抗で、ホー・チ・ミンは共産主義政権のベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させます。しかし、熱心なカトリック教徒だったゴ・ディン・ジェムは弟のヌーに命じて仏教徒を弾圧したりしたため国際社会から非難を浴びました。アメリカ側もゴ・ディン・ジェム政権を見限り、クーデターを黙認したため、ゴ・ディン・ジェムとその一派はクーデターを起こされ処刑されました。
このように南ベトナムの政局が安定しない中、ホー・チ・ミンは南ベトナム解放戦線(ベトコン)を結成します。彼らはジャングルの奥地で訓練を行い、南ベトナムを取り戻すことを目指していたのです。
アメリカ政府は当初南ベトナムに軍事顧問団を送るなど間接的な支援に留まっていましたが、次第にいくら支援しても強化にならない南ベトナム軍に失望していきます。そんなとき、トンキン湾事件が起こりました。
1964年8月2日と8月4日に、トンキン湾を航行していたアメリカ軍の駆逐艦が何者かの魚雷攻撃を受けたのです。この事態を受けて、ジョンソン大統領は北ベトナムへの宣戦布告を決定します。たしかに最初の攻撃はアメリカ軍を南ベトナム軍と勘違いした北ベトナム軍による攻撃でしたが、2回目の攻撃は戦争を正当化するためのアメリカ政府と軍による自作自演ではないかと近年では言われています。
介入当初、アメリカと北ベトナムの軍備の差は激しく、圧倒的に有利でした。ホー・チ・ミンは正面衝突では負けるとわかっていたので、いままでのゲリラ戦法を強化していきます。アメリカ軍はベトコンによるゲリラ戦法に苦しめられ、暗礁に乗り上げます。このことを受けたジョンソン大統領は北ベトナムへの空爆(北爆)を開始しましたが、なかなか打開策とはなりませんでした。ベトコンが身を潜めていたジャングルの葉を枯らす枯葉剤が散布されましたが、その影響で奇形児がうまれたり、ベトコンのスパイと疑われた人々が虐殺されました。1968年にはソンミ村という集落で500人以上の住民が虐殺された事件が起こり、アメリカ国内でも反戦の声が上がりました。この動きにはマスコミの技術発達も関係していました。テレビ技術が発達し、撮影した日中にアメリカ本国ですぐ放送されるようになったのです。人々はあまりに残酷な戦争の実態を嫌悪しました。さらに当初徴兵対象だった黒人などの有色人種では兵力がたりなくなり、徴兵が免除されていた大学生たちにまで及ぶようになると、学生運動や黒人差別撤廃運動とも結びついて、反戦の勢いは増していきます。1967年には最大の反戦運動がワシントンD.C.で行われ、ジョンソン大統領は北爆の停止を余儀なくされます。ジョンソン大統領は責任をとって次の大統領選挙への不出馬を宣言します。

ベトナム反戦運動のペンタゴン行進
ベトナム反戦運動は世界中の大学生に広がり、世界各地の学生運動で取り上げることとなる。

当時野党だった共和党はリチャード・ニクソンを擁立し、第37代大統領に就任させます。ニクソンはアメリカ軍の『名誉ある撤退』と過激化しつつあった反戦運動に対して『法と秩序の回復』を公約としていました。彼が支持層としたのは、労働者階級の白人層でした。現地に派遣されている大多数の下級兵士はこの階級出身で、彼らは反戦運動の中心となっている兵役を拒否した大学生やヒッピーに対して不満を持っていたのです。しかし、ニクソンはなかなか『名誉ある撤退』を実行できませんでした。

ジョン・レノンと妻オノ・ヨーコ
ヒッピーは既存の価値観を否定するカウンターカルチャーの一種で、元ビートルズのジョン・レノンもその担い手とされている。彼はベトナム反戦を『イマジン』に託した。1980年熱狂的なファンに刺殺された。

一方、長年北ベトナムを支援してきた中ソ両国の対立も深刻なものとなっていました。このことに憂慮していたホー・チ・ミンは祖国統一を見ることなく、1969年亡くなりました。
建国当初からの指導者を失った北ベトナムでしたが、南ベトナムを支援しているとして隣国のカンボジアやラオスにも侵攻します。この侵攻と中華人民共和国との協調路線に舵を切ったニクソン大統領は北爆を再開しますが、国際的な非難を浴びたためすぐ中止します。1974年ニクソン大統領がウォーターゲート事件で失脚・退陣すると、アメリカ政府は身内のことで忙しく、介入してくることはないと判断した北ベトナムは南ベトナムへの侵攻を開始します。すでに疲弊していた南ベトナム軍はアメリカからの軍事支援も打ち切られ敗北、1975年南ベトナムの首都だったサイゴンが陥落しました。

サイゴンの大統領官邸に乗り込むベトコン

アメリカ軍は着の身着のまま南ベトナムから撤退しましたが、追い縋る地元民を蹴り落とす映像は衝撃を与えました。ベトコンに虐殺されるという噂が流れ、弾圧から逃れた人々はボードで密航しました。この人々は『ボードピープル』と呼ばれ、世界各地で難民として生きていくこととなります。

南ベトナムから逃れてきたボードピープル

11年間も介入しながら何も得なかった戦争はアメリカ軍にとって初めての敗北でした。戦死者は97万人、負傷者は130万人にも及び、PTSDに苦しめられた帰還兵も多かったのです。
しかし、ベトナム側の犠牲も甚大でした。ベトコンと疑われ村一つ処刑されたり、家を焼かれ路頭に迷う人々もいました。南ベトナムの住民たちが恐れていたのはベトコンではなく、アメリカ軍でした。

ナパーム弾から逃れる子供たち
この写真はピューリッツァ賞を受賞した。右の裸の少女は後年アメリカに逃れている。
捕虜を殺害するアメリカ兵
捕虜を殺害する瞬間を捉えた写真。この写真は衝撃的に報道され、アメリカ社会にベトナム戦争の正当性への疑問を与えた。

アメリカの正義のために、多くの人々が命を落としたことを忘れてはなりません。

『代理戦争』、終わりました。ベトナム戦争は『マスコミが終わらせた戦争』と言われています。マスコミの報道が過熱し、戦争の正当性への疑念や戦争への嫌悪をアメリカ国民に植え付けたからです。この教訓を踏まえてアメリカ政府は報道の規制を始めましたが、規制しすぎると第二次世界大戦中のプロパガンダになりかねず、規制の加減が問題になっています。また近年では合成技術を使用したフェイクニュースが巧妙に作成され、SNSで発信・拡散されるなど別の問題もおきています。
次回は『冷戦の終結』を取り上げます。アメリカ史ですが、冷戦の終結にはソ連側の事情のほうが影響を与えているので、ソ連側をとりあげることになるとおもいます。なのでまた註釈がつくと思いますが、お付き合いください。

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