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《世界史》ソ連建国の父 レーニン

こんにちは。
Ayaです。
今日から2回に分けて、ソ連の指導者レーニンとスターリンについてまとめます。また註釈ばかりになるかと思いますが、ご容赦ください。

ウラジミール・レーニン(1870〜1924)

ウラジミール・レーニンは1870年ロシア帝国の教師の家庭に生まれます。父は元農奴の下級階級出身でしたが、教師なり、最終的には貴族の称号も得た苦労人でした。両親は熱心な皇帝崇拝者でしたが、兄アレクサンドルが大学でテロ組織に所属してしまいます。アレクサンドルの組織は皇帝暗殺を計画していると逮捕され、1887年アレクサンドルは処刑されてしまいます。兄と父の度重なる死にショックをうけたレーニンでしたが、成長すると兄と同じような過激派組織で活動を始めます。この活動中に逮捕され、大学は退学、領地に追放されます。この追放中にマルクス=エンゲルス共著の『共産党宣言』に感銘を受け、ロシア語訳を開始します。息子の思想の先鋭化を恐れた母の尽力で、大学卒業資格を得ます。
サンクトペテルブルクに移ると、マルクス主義の政治組織社会民主党に参加、教師で後の妻ナデジア・クルプツカヤと交際を始めます。党の幹部にのぼりつめますが、再び逮捕されます。刑期をおえるとスイスに亡命します。バイエルン政府を恐れたレーニンはロンドンに渡り、レフ・トロツキーと出会います。

トロツキー
のちにスターリンと対立し、暗殺される。

ロンドンでの会議に出席しますが、党幹部のマルトフと対立するようになります。次第に党は分裂し、レーニン側を『ボリシェヴィキ(多数派)』、マルトフ側を『メンシェヴィキ(少数派)』と呼ぶようになります。
1905年にはスターリンと初めて面会し、血の日曜日事件からの革命に乗じて、彼に銀行強盗をやらせました。一度サンクトペテルブルクに戻りますが、また官警に追われるようになり、スイスに舞い戻ります。第一次世界大戦が勃発すると、『帝国主義的戦争』と批難、各国の組織に内乱を起こして戦争を止めるように命じます。
1917年二月革命でニコライ2世が退位し、臨時政府が成立します。この臨時政府は脆弱なもので、ロシアを戦線から離脱させたいドイツ政府は一計を案じます。レーニンを密かに送り込み、臨時政府を打倒させ、ドイツ側に有利な講和条約を結ばせようというのです。レーニンと思惑が一致し、ドイツ領内を封印列車で渡り、レーニンはペトログラード(サンクトペテルブルクの改名)に降り立ちます。臨時政府は帝国主義的であると批判し、『四月テーゼ』を発表します。次第に指示を集め、スローガン『すべての権力をソビエトへ』も定着しつつありましたが、臨時政府から弾圧され、レーニンは逃亡、ボリシェヴィキのほとんどが逮捕されました。臨時政府内の内乱が起こると、首相ケレンスキーは一転してソビエトとの連携を試みます。レーニンもペトログラードに戻り、1917年10月武装蜂起します。臨時政府の閣僚は逮捕され、ケレンスキーもアメリカへ亡命します。いわゆる『十月革命』です。

冬宮への突入(再現劇)

権力を把握したレーニンらボリシェヴィキは行政政府・人民委員会を設置、レーニンは議長となります。しかし、まだ国民の支持は十分に得られておらず、憲法制定議会の議員選挙では大敗します。レーニンらはこれを反革命的であると批判し、憲法制定議会は解散させられます。
レーニンは各種改革も断行していきます。農地の国有化を通して農民を集団化させる『土地に関する布告』や反革命的な言説を『革命的良心』で辞めさせることを求めたものです。また労働時間を1日8時間に定め、こどもの普通教育も実施しました。女性の権利も世界で初めて認められ、男女同権の理念定着を図りました。政府は首都をペトログラードからモスクワへ移します。1918年党名を『ロシア共産党』に改名し、暦もグレゴリオ暦に切り替えます。
同年ドイツと『ブレスト=リトルスク条約』を結びました。ソビエト側に領土を割譲させるなどドイツ側は当初の目的通り有利な条約でしたが、結局ドイツでも革命がおきます。ソビエト側はブレスト=リトルスク条約は無効だとしました。
このように革命を断行していたレーニンでしたが、すでに反革命分子に対する弾圧も始まっていました。1917年には秘密警察チェーカー(後のKGBの前身組織)を創設します。次第にレーニンたちと意見を異にする者たちが現れると、チェーカーらに『赤色テロ』をさせたり、強制収容所に送るようになります。強制収容所に送られた者は強制労働に従事させられたり、処刑されたのです。
こんな弾圧を行なっていたこともあり、ロシア国内は内戦状態となります。ボリシェヴィキの赤軍、反ボリシェヴィキの白軍によるものです。白軍の『錦の御旗』になりかねない元皇帝ニコライ2世一家を暗殺しました。ニコライ2世の皇后アレキサンドラはドイツの出身で、ドイツを刺激したくなかったため、『ニコライ2世と皇太子は処刑したが、皇后と娘たちは生存している』とデマを流します。
第一次世界大戦の西部戦線が終結すると、レーニンはヨーロッパ諸国で革命が起きるのは時間の問題だとして、1919年国際共産主義組織『コミンテルン』を設立します。初代議長には別の人物が据えられましたが、レーニンの影響力は絶大なものでした。
1921年から旱魃により、ロシアは記録的な飢饉に襲われます。この飢饉をさらに悪化させたのが、ソビエト政府による徴発と穀物輸出でした。この惨劇を見た探検家ナンセンは初の難民高等弁務官に就任し、難民の定義やその保護を発信するほとでした。

ナンセン
冒険家にして国際政治家。南極探検が有名だが、初の難民高等弁務官として難民の定義づけや周知に尽力したため、『難民の父』と呼ばれている。

結局レーニンは農地の国有化の一部を見直して、1921年NEP(新経済政策)を提出しました。食糧状態は少し改善しましたが、根本的な解決とはなりませんでした。
この頃から、レーニンは体調不良に悩まされます。度重なる暗殺未遂によるケガの影響ではと言われています。レーニンが不在時は、スターリンが代理として政務を行うようになりますが、二人の仲は次第に悪化していきます。スターリンの故郷グルジア(現ジョージア)を巡って完全に対立し、レーニンは遺書で『スターリンは党の指導者として不適格』として、後継者にトロツキーを選びます。これがのちなのスターリンとトロツキーの対立のもととなります。
1924年レーニンは亡くなります。享年53歳。

建国の父であり、後任のスターリンに比べ苛烈な支配を行わなかったこともあり、スターリン批判後も尊敬されていたレーニン。ソ連崩壊によって国内各地に建てられた彼の胸像は倒され、彼の支配下での弾圧も明らかになってきています。

『ソ連建国の父 レーニン』、まとめ終わりました。レーニンの懸念通り、彼の死後スターリンは本性を表し、トロツキーを追放し、実権を手にすることとなるのです。次回はスターリンについてです。

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