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《世界史》冷戦の終結

こんにちは。
Ayaです。
今日の投稿は『冷戦の終結』です。アメリカ史というシリーズで書いてきましたが、冷戦の終結にはソ連側の事情のほうが影響を与えているので、8割ぐらいソ連の内容になると思います汗。なので、また註釈がつくかと思いますが、ご容赦ください。
時代を巻き戻して、スターリンの死後実権を握ったフルシチョフについてからまとめます。

ニキータ・フルシチョフ(1894〜1971)

ニキータ・フルシチョフは1894年ロシア帝国のクルスク県に生まれます。その後ウクライナのドンバス地方に移り、学校卒業後は工場に勤務していました。労働運動に関わっていたことから1918年ロシア共産党に入党、実績を積み、ペトロフスコ・マリインスク地区書記長となります。このころスターリンの側近に見出され、モスクワ地下鉄開通事業を任せられます。この実績が評価されて、中央委員に任命されます。スターリンの大粛清の際はスターリンを称賛し、みずからも粛清を行い、生き残ります。第二次世界大戦が勃発すると、ウクライナの産業を東部に疎開させ、中将と同等の政治委員として南部でナチス・ドイツと戦いました。
1953年スターリンが亡くなると、ベリヤによってマレンコフが首相に祭り上げられましたが、ベリヤの権力掌握を嫌った指導部から反発を受け、マレンコフは権限のほとんどをフルシチョフに譲らざるおえませんでした。フルシチョフはベリヤを粛清し、党中央委員会委員長に就任、マレンコフを辞職させ自分の息がかかったブルガーニンを首相に据えることで独裁政権を樹立します。

フルシチョフ
失脚後執筆した自伝は編集者から本物かと疑われた。本当に本人か確認するため赤い帽子を被って写真を撮るように依頼、これを知ったフルシチョフは嬉々として帽子を被って写真を撮影した。


クリミア半島の管轄をソ連からウクライナに移したり、1962年には『スターリン批判』を行い、衝撃を与えます。スターリン時代の粛清を暴露し、民主化に舵を切りました。
この大胆な施策はアメリカとの関係の変化をもたらしました。ソ連の指導者として初のアメリカ訪問を実施し、いわゆる『雪どけ』の状態まで両国の関係は良化しました。
その一方で、宇宙開発事業に乗り出し、1961年には有人宇宙飛行を実現させます。このことはアメリカ側に衝撃を与え、『スプートニク・ショック』と言われました。

初の有人飛行に成功したガガーリン
1961年スプートニク号で初の有人飛行に成功し、『地球は青かった』の名言で知られる。このことはアメリカ側に衝撃を与え、アポロ計画を実行させることとなる。

また、社会主義政権のカストロへの支援を惜しまなかったため、『キューバ危機』を招きました。結局ケネディ大統領からの交渉を受けてキューバから核ミサイルを撤退させたことで、なんとか平和を保ちます。
しかし、この平和共存路線は国内での反発を買います。1957年にはマレンコフら3人がフルシチョフの解任を求め、これは未遂になりましたが、1964年クーデーターによって失脚。モスクワ郊外の別荘で監視付きの生活を送りましたが、その目を盗み自伝を書いたりして過ごしました。1971年亡くなります。享年77歳。
フルキショフの失脚後、権力を握ったのはレオニード・ブレジネフでした。

レオニード・ブレジネフ(1906〜1982)

レオニード・ブレジネフは1906年ロシア帝国のエカテリノスコエ県に生まれます。生後クルスクに移り、成長すると製鉄所に勤務します。ロシア共産党の青年組織コムソモールに所属し、1931年ロシア共産党に入党。将来の幹部候補として大学に入り、卒業後はウクライナ共産党の幹部を務めました。彼はロシア革命時に成人してなかった世代であり、スターリンを理想的指導者として崇拝していました。第二次世界大戦が始まると少将と同等の政治委員としてナチス・ドイツと戦いました。戦後はカザフスタンなどで重職を歴任、この時の人脈はのちの独裁の基盤となります。
スターリンの死後実権を握ったフルシチョフはブレジネフを重用し、中央委員会政治局員に抜擢します。しかし、次第に路線の対立が表面化し、ブレジネフはフルシチョフへのクーデーターに関与、1964年フルキショフを失脚させます。クーデーターの主犯は別の人物でしたが、彼は中央委員の支持を得られず、かわりにブレジネフが党第一書記となります。

ブレジネフ
たびたびアメリカを攻撃していたが、西側の生産品を愛好していた。汚職にまみれ、本人の死後暴露される。

ブレジネフはフルシチョフが進めていた改革路線を180度転換させます。スターリンを再度称賛し、第一書記の肩書きをスターリン時代の『書記長』に戻しました。スターリン時代の大粛清までにはなりませんでしたが、KGBが暗躍する時代に逆戻りしてしまったのです。
1968年ハンガリーでは民主化を求めるプラハの春が起こりましたが、ブレジネフはソ連軍を派兵して鎮圧。これは国際社会から批判を浴びましたが、ブレジネフは無視しました。
当然、アメリカとの対立も深まっていきます。ベトナム戦争への援助を強めるだけでなく、1979年にはアフガニスタンに侵攻しています。表ではニクソン大統領と戦略兵器条約を署名するなどしていましたが、実態は代理戦争を継続していたわけです。
ベトナム戦争を共に支援していた中華人民共和国とも対立を深め、中華人民共和国は独自路線を歩むようになります。
スターリンを再度神格化したブレジネフでしたが、自身の神格化には失敗。スキャンダルをもみ消していた側近が亡くなったのと経済の低迷化のため、晩年は人気がありませんでした。1982年急死します。享年75歳。
ブレジネフの死後、何人か書記長に就任しましたが、高齢のため次々と亡くなりました。そのため、若いミハイル・ゴルバチョフに白羽の矢が立ちます。

ミハイル・ゴルバチョフ(1931〜2022)


ミハイル・ゴルバチョフは1931年スタヴロポリ地方に生まれます。生家は貧しい農家で、父親がスターリンの大粛清下で投獄されるなど厳しい環境で育ちます。働きながら優秀な成績で大学を卒業し、1952年共産党に入党。青年組織コムソールでの活動から実績を積み上げ、40歳で党中央委員に選出されます。モスクワに呼び戻されて、政治局員候補として熱心に活動します。彼は当時のブレジネフ政権の政策(アフガニスタン侵攻や農業政策)に反対していましたが、表立っては反対せず、史上最年少の政治局員に就任します。ブレジネフの死後権力を握ったアンドロポフから信頼され、外交政策を担うようになり、西側の信用を得ます。しかし、1984年アンドロポフの死後、後継者にはなれませんでした。当時52歳の彼は若すぎると反対され、結局チェルネンコが書記長に就任しました。チェルネンコは保守派でしたが、ゴルバチョフの人気を侮れず、権限のほとんどを譲渡することとなります。1985年チェルネンコが亡くなるとまた妨害されそうになりましたが、党内の長老の支持を得て、書記長に就任しました。
彼の就任前からソ連経済は停滞し、強国の体面をなんとか保っている状態でした。彼はこの状態に危機感を覚え、《ペレストロイカ》をはじめます。ペレストロイカは『巻き戻し』の意味で、特に力を入れた情報公開《グラスノスチ》をはじめ、さまざまな改革に取り組みました。当初西側諸国はペレストロイカは社会主義の修正に過ぎないと見ていましたが、ゴルバチョフが言論の自由や営業の自由を次々と認めていくと態度を軟化させていきます。ゴルバチョフは衛星国への不介入の姿勢をとったため、ベルリンの壁崩壊に象徴されるように共産主義政権は次々と倒されていきました。1989年ベルリンの壁崩壊の1ヶ月後、マルタでジョージ・H・W・ブッシュ大統領と会談し、共同宣言を発表します。ヤルタ会議から始まった冷戦が44年を経て終結したのです。

ブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長

翌年には複数政党による選挙を実施し、初代ソ連大統領となります。
この急速な改革は保守派の反感を買いました。彼らは1991年クーデーターを実行し、別荘滞在中のゴルバチョフを監禁してしまいます。いつ処刑されるかわからない状態でしたが、このクーデターは国民や軍部の指示を得られず、未遂に終わります。しかし、このクーデターの首謀者たちがゴルバチョフの側近だったため、ゴルバチョフ自身さらに共産党の権威が失墜してしまいます。かわりに勢いづいたのがエリチィンで、彼がロシアのソ連脱退を宣言したことで、ソ連が崩壊したのです。

各地で壊されるレーニン像

エリチィンに敗れたゴルバチョフでしたが、ソ連崩壊後も政界で活動し、2008年引退、今年2022年亡くなりました。享年99歳。ゴルバチョフは死の直前まで戦闘の停止とウクライナとロシアの交渉開始を求めていました。
本国ロシアではゴルバチョフへの評価はソ連を崩壊させたとして高くありません。いつかロシアが彼の求めた自由な社会になる未来は実現するのでしょうか。

ゴルバチョフとエリザベス女王の死で、時代の終わりを痛感しました。ご冥福をお祈りいたします。
8割どころか、ほぼソ連でした…(小声)次はアメリカ史シリーズ最終回『混迷の世紀』です‼










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