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《世界史》オーストリア・ハプスブルグ家

こんにちは。
Ayaです。
今日から2回に分けて、オーストリアのハプスブルグ家についてまとめます。ハプスブルグ家の場合、イギリスやフランスのような明らかな王朝の交替がないためどの時点まで取り上げるか迷っていたのですが、今回はカール6世(マリア・テレジアの父)までにします。
さて、1556年カール5世(カルロス1世)が弟フェルディナンドに神聖ローマ帝国皇帝位を譲位したことにより、ハプスブルグ家はオーストリア系とスペイン系に分裂します。その前のハプスブルグ家と神聖ローマ帝国についてまず見てみましょう。

ハプスブルグ家と神聖ローマ帝国

ハプスブルグ家はもともとスイス周辺の小領主にすぎませんでした。その状況を一変させたのが、ルドルフ1世(1218〜1291)の神聖ローマ帝国皇帝即位でした。神聖ローマ帝国は中世『ローマ帝国を復活させよう』という大義名分のもとに成立しましたが、実際は各地の諸侯の力が強く、また選挙制だったため、皇帝の力は低かったのです。ルドルフ1世の即位も、諸侯から彼なら御し易いだろうという理由でした。しかし、予想に反して、ルドルフ1世はさまざまな難題に対処し、ハプスブルグ家の繁栄の基礎を築きあげました。
そのまますぐ神聖ローマ帝国皇帝位を世襲できたわけではなく、世襲できるようになったのは、1440年のフリードリヒ3世(1415〜1493)の即位からでした。その息子マクシミリアン1世(1459〜1519)はブルゴーニュ公国公女のマリーを妻に迎え、勢力圏を拡大します。この夫婦の間の子がフィリップ美公とマルガリーテです。つまり、マクシミリアン1世はカール5世とフェルディナンドの祖父にあたるのです。

マクシミリアン1世とその家族
左端のマクシミリアン1世の遺伝である前に突き出た顎は『ハプスブルグの顎』と呼ばれるようになる。

では、話をフェルディナンドに戻します。

フェルディナンド1世(1503〜1564)

フェルディナンドは母フアナの発狂以来、祖父アラゴン王フェルナンド2世のもとで養育されます。そのため、スペイン王としての即位が期待されましたが、兄のカール5世と交換で、オーストリアに送られました。このとき初めて兄と対面しましたが、その仲は終生良好でした。1521年祖父マクシミリアン1世の遺領オーストリアを相続し、ハンガリー王ウラースロー2世王女アンナと結婚します。1526年には妻の弟の戦死により、ハンガリーとボヘミアを相続、1529年オスマン帝国の第一次ウィーン包囲に対処します。彼は宗教に対しては穏健で、ルター派からも協力を取り付けることができたためでした。
1555年にはアウクスブルグの和議を結び、神聖ローマ帝国内の諸侯に信教の自由を認め、カトリックとルター派の対立を緩和します。翌年には兄カール5世の譲位を受けて、神聖ローマ帝国皇帝に即位します(フェルディナンド1世)。1565年崩御、享年61歳でした。兄との生前の取り決めではフェルディナンドのあとはフェリペ2世が神聖ローマ帝国皇帝位を継承するはずでしたが、フェルディナンドの息子マクシミリアン2世が即位しました。スペイン側もこれを容認したため、神聖ローマ帝国皇帝位はフェルディナンドの子孫に継承されることとなります。

フェルディナンド1世
穏健な性格で、兄と良好、なおルター派との対立を和らげた。

ルドルフ2世(1552〜1612)とマティアス(1557〜1619)

フェルディナンド1世の息子マクシミリアン2世(1527〜1576)も父の宥和路線を継承し、カトリックとルター派の対立の緩和につとめました。このあたりはルター派を弾圧したスペインのフェリペ2世との違いでしょう。
そんな彼にも悩みがありました。後継者である長男ルドルフの政治への無関心でした。趣味である博物学や錬金術に熱中する息子の姿に不安を覚えながら、マクシミリアン2世は1576年崩御します。享年49歳。

マクシミリアン2世
王子時代ルター派に共鳴し改宗を考えたが、父の廃嫡の脅しにより諦めた。語学堪能で自然科学にも造詣が深かった。

マクシミリアン2世が崩御すると、ルドルフが即位します(ルドルフ2世)。父の不安は的中します。ルドルフ2世はウィーンから好きなプラハに遷都すると、政治は側近に丸投げし、博物学や錬金術の研究にうつつを抜かします。この状況を苦々しく見ていたのが、弟のマティアス(1557〜1619)です。

アルチンボルド『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世』
博物学や錬金術の研究に没頭したルドルフ2世だが、1番の功績は画家アルチンボルドの招聘だろう。野菜や動物を組み合わせて描く肖像画は知的好奇心を刺激するとして人気を博した。
マティアス
兄の無策を憂慮する一方、兄の才能に嫉妬していたといわれる。

1611年ついにマティアスはプラハに侵攻し、兄ルドルフ2世を退位させ、自らが即位します。翌1612年にはルドルフ2世が崩御して権力を一挙に握りますが、マティアスは1619年に崩御してしまいます。結局、兄弟の治世はカトリックとルター派の対立を解消できず、三十年戦争を招くこととなるのです。
またルドルフ2世もマティアスもどちらも後継者が不在で崩御したため、従弟のフェルディナンド2世(1578〜1637)が即位することとなります。

今回はここまでとします。カール5世(カルロス1世)とフェルディナンド1世、ルドルフ2世とマティアスの2組の兄弟を取り上げました。兄弟仲の悪かった後者と兄弟仲の良かった前者ですが、前者が特別でしょう。2人とも広大な領土を有しており、ほとんど顔を合わせることもなかったわけですから。フェルディナンド1世からマクシミリアン2世への継承も、スペインのフェリペ2世がルター派の多いオーストリアをめんどくさがった可能性が高いです。
一方で後者のルドルフ2世とマティアスの組み合わせは史上最悪の仲の悪さと言われました。クーデターで帝位を簒奪されたわけですが、まぁルドルフ2世の日頃の行いを見てれば、戦役を任されていたマティアスが『ちょ兄貴(キムタク風)※あくまでイメージです』とキレたとしても致し方ないでしょう。こんなドタバタで始まったオーストリア・ハプスブルグ家ですが、スペイン本家よりも長く、第一次世界大戦後まで続くわけですから不思議です。

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