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スゴイと言われるのがやっぱり好きで

自分が頑張る意味を探したときに、若干情けなくも「スゴイと言われたい」という感情があまりにも簡単に見つかってしまった。そういうのって普通あれやこれや頭を悩ませながら探し出すモノだと思っていたのに「おーいここだよー!」と言わんばかりに、開けっぱなしのドアの向こうで「スゴイと言われたい」と顔に書いた人がこちらを見ながら恥ずかしげもなく放尿でもしている。それくらいその感情は開放的に私のなかを生きているではないか。嗚呼、恥ずかしや。

でも、これが頑張る理由ではダメなのだろうか?


承認欲求は生活の基本 

俗に言う承認欲求というものなのかもしれない。それは大抵の場合、恥ずかしいものと見なされ、それが丸出しになっていると鋭くて冷たい目を向けられる。しかし、私たちはどんな人間であれSNSというもので自己表現することが少なからず求められる時代を生きている。「いいね」という承認のマークを生み出したのは社会で、それに人びとをハマらせる仕組みを作ったのは経済であるのに、その思惑通りに人間たちがまんまとそれにハマっていくと「これは良くない」と社会が叫び出すのだ。承認欲求が生まれやすいシステム構造をした世界のなかで、そんなもんには振り回されまいと一点を見つめる"強い"人間になれと言われているも同然。どう考えても無理難題である。

承認欲求という言葉自体がマイナスなイメージを背負っているが、実際のところ、自分や他の誰かに認められることって生きる上での超重要事項ではないか?と思う。
もし何をしても「ふーん」としか言われない世界だったら、何をどう頑張ると言うのだろう。だっていつの日か私たちが、言葉を発するようになったのは、うんちをトイレでするようになったのは、文字を書くようになったのは、どれも褒められるからじゃないか。「よくできたね!」その言葉と表情によって、「あ、私は今いいコトをしたんだ。私、これでいいんだ。」そう思うことができる。逆に、うんちをオムツにしようとトイレにしようと、どちらでも同じ「ふーん」の反応しか得られなかったら、私たちはうんちを出す場所に正解を見いだせず、うんちまみれの世界ができあがってしまうだろう。そんなの臭すぎる。臭すぎたから、トイレという場所が生まれ、そこですることが「いいコト」になったのだ。

ともあれ、いきすぎた承認欲求とそれに伴う過剰なストレスは問題である。「こうでなくちゃ」「あの人はこうだから自分ももっと…」
そう思い始めたらキリがない。だから、そこはどうにか自分で落としどころつけ、周りの反応も見つつ、適切な自己承認を得られることが必要だ。それがとても難しいのだが――。

他者のものさしを求めたくなるときは

私の場合、自分が自分に対し「良い感じじゃん私。頑張ってんじゃん。今日の私、絶対明日の私のためになってる。」と思える生き方が好きで、気づけばそう生きている。

でも、自分がそう思っていても社会や他者が、そう思ってくれるとは限らない。そこで不安が生まれるから、ごくごくたまに、自分がスゴイと思う自分の話を誰かにしてみるのだ。そのときは自慢話にならないように、ちょっと面白い話という面を被せて話すように努める。承認欲求というものが生まれながらの感情だとしても、テッカテカの自慢話は相手の気を損ねさせる危険性を持っているので厄介だ。
そんなことに気を配りながらも、自分のスゴイ話をすると案の定「スゴイ」という言葉をもらえる時がある。お世辞だろうが、この際なんでもいいのだ。その言葉が、エンジンになる私の身体は、省エネでエコだ。エコとはいいコトだと社会が言うのだから、私はやっぱりいい人間なんだ。おっと、ここでまた承認欲求が満たされた。

誰からの「スゴイ」がほしいか

また贅沢な話になるが、その「スゴイ」を言ってくれる人が誰かということがときたま重要になることがある。そしてその勝手なるランクは流れるように変わっていく。
例えば、高校時代、部活に明け暮れていた頃の私は部活の先輩に言われる(言われなくとも確実に思われる)「スゴイ」が嬉しかった。だから先輩方が成し得なかったことをやり切りたいという思いで頑張った。
次に受験時代になれば、後輩たちに「スゴイ」と言われたい気持ちが大きくなった。「今年うちの学校から〇〇大出たらしいよ、すごくね?」自分がもう去ったあとの学校でそんな噂がされたらとくだらない妄想をして勉学に励んだ。大学生になると、世界がうんと広がった。大人との関わりが一気に増えた世界では、大人に認められることはやはり嬉しかった。自分に自信が持てた。
しかしそれ以上に、中高時代の同級生に言われる「スゴイ」がもたらす喜びの方が大きかった。「会わないうちに、そんなことしてたの?」ちょっと驚かせるくらいのことをしたいと思った。数年前までは教室であんなにバカなことしてたのに、というギャップも重要な味になってくる。でもここでも、「あーなんか変わっちゃったね」という方のギャップはいらないから、そうならないラインを見極めて、変わらないバカさもしっかりとみせていく必要があるーー。
円満な人間関係の構築と承認欲求の充実を両立させるのは案外難しい。

スゴイは凄い

そうと分かっていても、自分が求めた人からの「スゴイ」はやはり心を満たしてくれるのだ。そしてその「スゴイ」を燃料に、頑張れてしまうんだから「スゴイ」が私の世のなかで1番すごい。

こんな風に思うのは、まだまだ子どもだという証なのかもしれない。
「スゴイ」という軽快な一言に踊らされるの私は低俗なのかもしれない。

スゴイことを全く見せない生き方は確かにスマートで格好良いけれど、私はそこまで熟した人間ではないし、これで頑張れているのだからいいのだ。誰かに多大な迷惑をかけているわけでもない。

「スゴイ人」をみると、辛くなったり自信を喪失したりすることはきっと誰にでもある。私にもある。でもそんなときは、私も頑張ってみよとケロっとした顔で呟いてみればいい。それだけで充分だ。
他者に求める「スゴイ」なんて実は見かけだけのもので、あとにも引きずるような感情を相手に求めているんでもなく、ただその場で「え、すご」と言葉か表情で一瞬表してくれるだけで満足を生み出すシロモノなのだ。

だから、私は「スゴイ」を適度に求めて生きていく。これだけで頑張れるなら、人生丸儲けではないか。

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