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まじないのかかったおにぎりが私たちにもたらすもの

映画『千と千尋の神隠し』には、ハクが千尋におにぎりを渡すシーンがある。

ひとり異世界に紛れ込み悲しむ千尋に、ハクはこう言う。

千尋の元気がでるように まじないをかけて作ったんだ


おにぎりを食べた千尋が米粒よりも大粒の涙を流す。
このシーンを観て、何度胸を締め付けられ、歯が小さくカタカタと震える思いをしたことだろう。

なぜこんなにもあの1シーンに釘付けになり感情が移入されてしまうのか考えてみた。


おにぎりは私にとっても元気のまじない

中学受験を控えた小学6年生の1年間。自ら望んだ受験の道で、一生懸命もがいているのに、全くテストができないというスランプに陥った。塾に行くのも怖くなって、泣いてしまった日もあった。

そんな毎日の辛さと同時に思い返されるのは、母のやさしさ である。

母は毎日塾への送迎をしてくれた。おにぎりというまじないを必ず添えて。私にとって、母のおにぎりは元気のまじないだったに違いない。

塾へ向かう時は、車の後部座席で、握りたてのあったかいおにぎりを泣きながら食べた。勉強がこわいという気持ちと、応援してもらっている負担ではない有難さが入り交じる時間だった。
家路に着くまでの社内では、冷えた車内で冷え切らないようにと母の足の上で守られたおにぎりを食べた。「今日もダメだった」そんな失望と不安も、おにぎりと共に咀嚼され、喉の奥まで流れていった。

おにぎりという母のまじないを通して辛い時もなんとか乗り切り、中学生になった私は、それからの6年間のはじまりに母にこんなお願いをした。

お弁当は毎日おにぎりがいいな


それ以降、なんかいい日だなあと思える日も、今日はホントついてないなあと思う日も、私の毎日は母のおにぎりと共にあって、そのおにぎりパワーはさりげなく私のやる気と元気の源で在り続けてくれていたのだ。

大学受験の日も、母はおにぎりを渡してくれた。
中学受験の失敗も含めたこれまでの様々な想いが込められたおにぎりは、その見た目の小ささからは想像出来ないほどの"重み"があった。
そのおにぎりを手に取り 口に運ぶたび、目の奥がジーンと熱を帯び「よし。できる。」とまじないがかかる。

母の作るおにぎりは、偉大だ。

日常に潜んだまじないの意味

人は、哀しいと、辛いと、おふくろの味 が恋しくなると言う。

運動会、午後のリレーを控えたお昼休みに緊張の渦のなか食べるおにぎり。
試合に向かうバスの中で、活躍する自分を想像しながら頬張るおにぎり。「よくがんばったね」と微笑む母から渡されるおにぎり。

一人一人の「あたりまえ」の日常のなかにおにぎりの記憶は、ひっそりと佇んでいるかもしれない。回想を試みれば「あの日」の感情と共に、ぬくもりがじんわりと胸いっぱいに広がるのではないだろうか。

おにぎりというまじないを介して、私たちはぬくもりを知ることができる。

"おふくろ"というのは、「料理は母親の仕事」という概念があったから、そう言われるというものであって、おふくろの味は母の手料理ということに限らない。千尋で言うところのハクかもしれないし、食堂のおじちゃんの握ったおにぎりの可能性もある。父親の手料理、恋人や仲間の作ったもの、コンビニやスーパーの商品かも分からない。

そのまじないの創出者が一体誰かはあなたにしか分からないことだが、それが、その人があなたへ贈ったぬくもり、つまり愛情であるということは、紛れもない事実だと言えるだろう。

そのことを知っているから、『千と千尋の神隠し』のあのシーンが多くの人びとの心に響く特別なシーンになっているのではないだろうか。

ぬくもりを頂いてきたという感謝を胸に、自分も大切な人に、まじないを握ることのできる人間になりたいと思うものだ。


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