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きっかけはダンスサークル

この記事は一応こちらの続きです。

そして、イベントプランナーになった。

結論から言うと、イベントプランナーになることができた。
が、両親の言う、デンツーかハクホードーに入社して、イベントプランナーになったのではない。
気付いたら、なっていた。嘘やろ...と自分でも思うけれど、本当にどうやってなったかはわからなくて、気付いたらイベントプランナーというものになっていたのである。

イベントプランナーになるまで

わたしはダンスをやっていた。
大学に入ったらダンスサークルに入るぞー!と意気込んでいたのに、入学式にもらったサークル勧誘のビラの山にはダンスのダの字もない。

わたしが通った近畿大学はいわゆるマンモス校で、こんなたくさん学生がいるんだからダンスサークルもさぞ大きいんだろうなと思っていた。

のに、ない。
近畿大学にダンスサークルがない。

え、なんで????
当時は今ほどSNSも発達してなかったのでmixi(懐かしい)でぽちぽち情報を集めていると、他にも同様の疑問を持っていた新入生たちがいて、どうやらダンスサークルはつい最近解散してしまったという話を聞いた。
練習場所にしていたところが取り壊しになったからとか何とかだったけど、何しろ情報が少なすぎて真相は今でもよくわかっていない。

が、わたしが入りたかったダンスサークルがないというのは事実...
なんてこった。

というわけで、ダンスサークルをつくった。

ダンスサークルをつくるぞー!と思ってつくったわけではなく、同じように、あれ、ダンスサークルないの...?とmixiで情報を集めていたメンバーたちで集まっただけである。
最初は5人だった。
せっかくだから何か名前をつけるか、と団体名に名前をつけた。
近大なんとかダンスサークルとかにしたいな〜と言って、「KID(キッド)」になった。
Kは近畿大学、Dはダンスの頭文字だったが、Iは不明。ただゴロが良かったのでそうした。
(のちにKeep I love Dancingの頭文字ということになった。言い出したのはわたしではないが)

KIDはいつのまにか100人を越える団体になっていた。さすがマンモス校。
人数が増えると広い練習場所も必要で、学校側からも目をつけられるようになって、いつも練習していた11月ホール(ガラスの壁面が鏡がわりになって練習にピッタリだった)の前を追い出された。ここはダンスをする場所ではない、通路である。そして君たちが使ったあとにはゴミが散乱している。迷惑だ。と。

そして、ゴミ拾いを始めた。

練習場所を失ったKID。しばらくは近くの公園で活動していたが、やっぱり、鏡が必要なんだ...ダンスの練習には鏡が必要...!11月ホール前に戻りたい!!!
というわけで11月ホール付近を中心とした校内と近大通りのゴミ拾いをはじめた。
良い子ちゃんアピールをして、11月ホール前を使わせてもらう許可を取ろうとしたのである。
ゴミ拾いの時にはKID Tシャツの着用を義務づけた。アピールのためだからな。
ゴミ拾いは週に2回、3ヶ月ほどは続けたように思う。

就職センタースタッフさんからの天の声

ある日、11月ホール付近のゴミ拾いをしていると、学校職員と思われる人に声をかけられた。
重要なのは鏡がわりになる11月ホールの壁面を覆うガラスたちだったので、ホールの中に何があるのかなんて全く知らなかったし興味もなかったが、どうやら就職センターというものがあるらしく、そこのスタッフさんだった。

話の内容は「オープンキャンパスでダンスショーをして欲しい」というものだった。
承諾してくれるのであれば、KIDを学校公認サークルとし、11月ホール前での練習を許可すると。
もちろん光の速さで快諾した。

こうしてKIDは11月ホール前に戻ることができた。
その上、オープンキャンパスでのショーは楽しかったし、毎年の恒例行事となった。

増えゆくイベントたち

オープンキャンパスでのショーを含め、KIDのメンバーたちはイベントに出ることが多くなった。
だが、人数の増えたKIDの中にはダンス初心者のコも多く、その中の多くは「自分は初心者でまだ下手くそだからイベントには出たくない」と言った。
わたしはそれが残念でならなかった。
ダンスは上手くなくてもいいのである!踊ることが楽しければそれでいいんだ!
そんなことを考えていた。(実際わたしはサークル長であったが、わたしより上手に踊れるメンバーは山ほどいた)

そして、KIDだけのイベントを開催することにした。

イベントに出たくない、の心理は「みんなに見られて批評されたくない」「上手い人と比べられたくない」というものだったので、だったら身内だけのアットホームなイベントを開こう〜!そうしたら初心者のみんなも大丈夫!と考えた。
チームで人前でダンスショーをするのはとっても楽しいので、とにかく初心者のみんなにも体感してほしい!そしたらもっともっとダンスが楽しくなるはず!という一心だった。

ダンススタジオを経営している先輩、玄ちゃんに相談すると、いくつかのクラブハウスを紹介してくれたので、時間で貸し切りにさせてもらうことにした。パワポでチラシとチケットも作った(キンコーズで出力した)。知り合いの先輩DJに声をかけてDJしてもらうことにしたし、ツテをたどって憧れのダンサーさんに声をかけてゲストショーをしてもらうことにした。MCは自分でやった。

イベントはとても楽しかった。
頑なに「イベントには出たくない」と言っていたコたちが「とっても楽しかったから、もっと練習してイベントにもたくさん出ていきたい」と言っていて、ほら、だから言ったじゃん!イベントやって良かった〜!と思った。
みんながとてもとても楽しんでくれて、わたしもそれがとてもとても嬉しかった。

この頃には横のつながりもかなりできていて、いろんな大学のダンスサークル長たちと仲良くなった。
そうすると今度は大学合同のダンスイベントをやってみたくなったのでやることにした。

KIDも100人を超える大所帯だったし、同様に大所帯のサークルも多かった。
8サークルが参加してくれることになり、出演者だけで600人を超えることになった。
そのためには、広いステージがある、大きな会場が必要だった。

右も左もわからないわたしたちを受け入れてくれたのが、堂島リバーフォーラムという会場だった。

\わー!でっかーい!/

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キャパは最大2000人。
このホールでイベントをやるためには、ステージを組んで、照明を吊り込んで、スピーカーをセットする必要があることを知った。
これまた玄ちゃん(わたしにとってお兄ちゃんのような存在だった)に相談すると「イベント制作会社」というものを紹介してくれた。

今思うとやったところでたいした利益にもならないであろう学生たちのイベントをとてもとても親身にサポートしてくれた会社が「PIF」というイベント制作会社である。(現在ではデジタルマーケティングなどより幅広く展開されてます!)

イベントの打ち合わせを重ねる中で、「せっかくならウチでバイトしてみない?開催するイベントの参考になるかもよ」と言ってもらえたので、それはありがたい!!!と早速働かせてもらった。

8大学合同ダンスイベント、DANCE SQUARE 無事終了。

ダンスイベントの名前は、DANCE SQUAREにした。
みんなが踊って楽しめる広場になればいいなと思った。

このDANCE SQUAREはわたしが学生の間に3回開催したように思う。
楽しかったからまたやろー!
なんか、そんな感覚だった。

マシーン原田さんとの出会い

わたしの人生を大きく変えたのが日本ダンスシーンの創設者であり、レジェンドダンサーであるマシーン原田さんとの出会いだった。

DANCE SQUAREの制作サポートをしてくれていた会社 PIF社長であった田村さんがマシーン原田さんとお話できる場をセッティングしてくれた。
端くれダンサーのわたしにとって、レジェンドであるマシーン原田さんとお話させてもらえるだなんて夢のようだったし、わけがわからなくて、口から心臓が飛び出そうとはこのことかと思った。 

「ダンスは上手い人しかしてはいけないとか、ステージに立つには上手くないといけないとかそういうものじゃなくて、ただ楽しいっていう、感情表現のダンスがあってもいいと思うんです!みんながもっと気軽に踊っていいシーンをつくりたいんです!」
多分、そんなことを話したような気がする。

マシーン原田さんは、わたしのはちゃめちゃな話をうんうんと聞いてくれて「いいやん、それ」と言ってくれた。もはや口から心臓出た。

そしてマシーン原田さんが社長をつとめる、まさに日本のダンスシーンをつくった会社、ADHIPの右腕であるTANABONさんを紹介してくれた。
TANABONさんもまた、わたしの人生を大きく変えてくれた方であり、当時のわたしにとって到底手の届かない、目を合わせることすらできないであろう偉大な方だったので、もはや心臓はどこかに飛び立ったかと思った。

わたしはADHIPでイベントスタッフをさせてもらえることになった。
ここで得られた経験や出会えた仲間について語り出すと、それだけで本が1冊書けそうなので控えておくが、本当にかけがえのない時間だった。

ついに、出会った。

学生の間に携わったイベントだけでも、おそらく100本は超えるだろうと思う。
ファッションショー、ヘアショー、ダンスコンテスト、ライブ、企業セミナー、展示会...たくさんのイベント経験をすることができた。

最初はパイプ椅子を並べたり、ポスターを貼ったり、楽屋にゴミ袋を設置してまわったりしていたけれど、気付いたら、運営スタッフを束ねてディレクションしたり、運営配置図を作ったり、舞台の構成表を書いたり、台本を書いたり、タレントさんをアテンドしたり、ステージ袖で舞台進行をしたり、いろんなことを任せてもらえるようになって、スタッフリストには「イベントディレクター」として名前が載ることも多くなった。

そして出会う。「電通の人」に。

▶︎ 次回!電通のやつ、やな奴!


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