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電通のやつ、やなヤツ!

この記事は、一応こちらの続きです。

最初に誤解を解いておくと、今は決して電通の人がやなヤツだとは思ってない。みじんこほども思ってない。
電通に勤めるわたしの友達も、プロジェクトご一緒している担当の方も、誰ひとり"やなヤツ"はいない。
あくまでも大学生当時に抱いた感想として読み進めて頂けますと幸いです。

ついに、出会った

あれはとあるスポーツイベントでのブース出展の時だった。

イベントディレクターという肩書きになったわたしは、現場で担当者さんとやり取りすることも増えた。この日私はとあるスポーツメーカーさんのブース運営を担当していて、私たちにとってのクライアントは電通さんである、ということは把握していた。

電通の担当者の方からブース運営の説明を受ける。若くてエネルギッシュな男性の方だった。事前に読み込んでいた運営マニュアルと、説明をされたフローでは少し勝手が違ったので「運営マニュアルに書かれていたフローとは違うようですが、変更になったんですね?」と念の為確認すると「現場では状況に応じて変更が多々あるので」と言われたので そりゃそうだ、と思い納得した。

会場がOPENしてからしばらくはそんなに客の入りも多くない。ゆったりブース運営をしているとスポーツメーカーの方(要は電通のクライアントである)がやってきて、「あれ?やり方違うんじゃない?」と。どうしてこのようなフローになったのかを聞かれたので、正直に「◯◯さんからこのように指示を受けました」と答えた。そうかそうかとスポーツメーカーの方が電通エネルギッシュマンに確認を取る。

「運営ディレクターが勝手にすみません!」
多分そう言っていた。

運営ディレクターとはわたしのことだ。

ん?ちょっと待て。
わたしは勝手にフロー変更はしていないんですケドモ。アナタガ言ったのデハ....

電通エネルギッシュマンは私の方へずかずかとやってきて
「勝手なことして、クライアントに謝れ」と。
えぇ、とりあえず謝っておきました。なんかよくわかんなかったけどとりあえず謝っておいた。
が、非常に腹が立った。なんだコイツ。

ちなみにスポーツメーカーの方は運営スタッフ全員分のドリンクを買ってきてくれて「なんか変な空気になっちゃってごめんね。最終日までよろしくね」と言ってくれて スキ!!!!! となった。(今思うと運営スタッフたちも今後ブランドの顧客になり得るいち生活者なので、こういったことでブランド好感度が大きく変わるし、とても大事)

この頃のわたしは大学3年生で、ぼんやり就活も始まっていたので、「電通=広告代理店であり、業界NO.1」ぐらいの認識はあった。
が、この1件で「こんなヤツが業界NO.1と言われる会社にいるということは、後に続く博報堂もたいしたことねーな。広告代理店とは誰かのせいにしなければならないほど、クライアントを持ち上げてペコペコする仕事なのか」そう思った。(今はまじでみじんこほどもそんなこと思ってませんからね)
だったとしたら広告代理店なんかに行きたくない。
そうやって私は、13歳のハローワークを見たときに描いた夢「将来は電通か博報堂に入って、イベントプランナーになる」という夢を捨てた。
正確には「イベントプランナーになるために電通と博報堂に入るというのはどうやら違うようだぞ」と感覚的に思っていた。

大学卒業後いきなりフリーランスに

自分でもよくこんな選択したよなぁと今になって思うけれど、当時は無知だったので、無知ゆえに無茶ができた。

当時はアルバイトとしてイベントのお仕事を受けていたが「今は学校もあるし断ってる案件もあるけど、学校なくなったらもっとイベント仕事に時間割ける=受けれる案件数が増えるわけで、これだけで食べていけるのでは?」と、単純に考えたのである。

就職氷河期と言われたわたしたちの時代、まわりがとても懸命に就活をしていたので、なんとなく自分も就活というものをやらないといけない気がして、ちょっとかじってみて、3社ほど内定をもらったのだが(我ながらプレゼン能力は高かったのだと思う)、その会社に入って何ができるのか?どうなるのか?のイメージが全く湧いてこず、むしろ今のアルバイトであるイベント仕事を本業にしていくほうがよっぽどイメージが湧いた。

でも毎日イベントがあるわけでもないし、ちゃんとした名刺もオフィスもないのもなんか心許無いな〜とか思いながら悩んでいた。
アルバイト先の制作会社のいくつかからは正社員のお誘いもあったのだが、その制作会社に入ってしまうと、当たり前だがそこのお仕事しかできない。
わたしはこの ダンスイベントも、ファッションショーも、ライブも、カンファレンスも、色々できるポジションが気に入っていたのだ。
そういうわけで、今お取引のある制作会社のどこかに就職する、という選択肢もいとも簡単に消え去った。

そうした時に、学生イベントサークルの代表だった2つ上の先輩 ゆうすけさんから「会社をつくることにした」という話を聞いた。
!!!
名刺もオフィスもゲットできるのでは...!
そんな単純な考えでジョインした。(ゆうすけさん曰く「会社入ってあげてもいいですよ」的な謎の上から発言だったらしい。なんでなんだろう。全く覚えてない。恥ずかしい。ごめんなさい)

最初の何年かは社員にはならず、個人事業主として、でも名刺やデスクはありつつ...でやっていたような気がする。が、記憶が曖昧。
そのぐらい、わたしにとって「正社員であるか否か」はどっちでもいいことだったのである。

でも両親からするとそうではなかったようで、内定を辞退して自分でやっていくことを伝えると、そりゃもう激怒された。
特にお父さんはわたしに期待してくれていたようで、大きい会社に入って、そこで上り詰めてほしいと思っていたようだった。
夢に向かって自分の信じれる道を選んだつもりだったわたしは、まさか怒られるとは思っておらず、とてもびっくりした。
ちゃんとした会社に就職するってそんなに大きなことだったんだ...とここでようやく自分の選択がいかにイレギュラーだったのかに気づいた。

でも、まぁ、そんなこと言っても内定辞退しちゃったしやるしかないもんね!と、どこまでもGoing my wayなわたし。
そんなこんなで先輩の会社に身を寄せ「Event Director」という肩書きの名刺をつくってもらった。
わくわくした。
13歳のハローワークを初めて読んだとき抱いた将来の夢への第一歩だった。

そして、その5年後ぐらいに「あれ、わたし、イベントプランナーになってるかも」とふと思った瞬間があり、あの時思い描いていた将来の夢を叶えることができた、とちょっぴり満足した。

ただわたしが結果的にイベントプランナーになれたのは、本当に人に恵まれていたからだと思う。そりゃもうびっくりするぐらいに人に恵まれたし、今も恵まれ続けている。
このお話はまた別途綴りたい。

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一旦夢を叶えたかのようなわたしだったが、ほんとこれで、どんどん次になりたいもの、やりたいことが出てきてしまい、欲望のままに生きた結果、今の自分になった。自分で自分が何屋さんなのかよくわからない。
ブランディングに携わることもあれば、プロデューサーとしてガツガツ制作進行をすることもあるし、PRの専門家として声をかけてもらうこともあるし、SNS運用のセミナーをすることもあるし、構成作家として台本を書かせてもらうこともある。謎だ。

でも、そんな何屋さんなのかよくわからない自分に満足しているし、とても、幸せである。

わたしのまわりにいる大好きな人たちと過ごしている自分のことが好きだし幸せ。

そして、わたしと過ごしているときの自分を好きだと思ってくれる人を増やしたい。

それが越境のミッション、
「ひとりでも多くの幸せな分人をつくる」
なのである。
クライアントであれ、仲間であれ「越境と過ごしている時の自分が好き」そう思ってくれる人がひとりでも増えますようにと今日も明日も誠心誠意全力でやってまいります。


...
というわけで、三部作 (半ば無理矢理) 完。

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